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法話

生き方という法則 1 変化の世にあって変わらないもの

今月から「生き方という法則」というテーマでお話をしていきます。

このお話は「法泉会」というお話の会で語ったものです。
平成24年7月19日、110回目の法話会のことです。
少し書き変えながら進めていきます。

沙羅双樹の花

9月になると百日紅の花はまだ咲いているのですが、
すでに沙羅双樹の花はみな散って青葉だけです。

沙羅の花が咲くころは7月ぐらいです。
お寺の本堂の前に、沙羅の木があって、毎年白い花を咲かせます。

沙羅の花の命は短く、散るのがとても早いのです。
その花の散りようを見て、世の移り変わりの速さを思わずにはいられません。

でも紙にも裏表があるように、常に変化する無常の世にあって、
一方では変わらないものもあるはずです。

沙羅の花の散っていく姿を見れば、変化することを感じ取れます。
一方、その白さが汚れのない清浄な心を表していたり、
短い命であっても、そこに一心に咲いている姿は、
変わらない真理をそこに表しているように思えます。

そんな変わらないものも、しっかり受け取っていくと、
どう生きていったらよいのかという方法が見えてくるのです。

月の移り変わり

変化するものの中で、美しく移り変わっていく唯一のものは、
やはり月でしょう。

およそ30日ほどでゆっくりと満ち、そして欠けていきます。
その月の満ち欠けにそれぞれの名前がついているのは、
日本の奥深い考え方によるものだと思います。

三日月と有明月は同じ形をしていますが、
右のほうに月が少し残っているほうを三日月と呼び、
左のほうに少し月が残っているのを有明月と呼びます。
変化の中で、美しい姿を見せています。

私たちも生まれ、そして青春を迎え、充実した壮年を経て老い、
目には見えない月の名、新月にあたる死を迎えます。
もしかしたら、その流れは月に似て、美しい姿かもしれません。

そして、さらに考えを深めていけば、
新月がやがて少しずつその姿を現し、満月へと変わっていくように、
私たちも死を受け入れ、やがて久遠の命を、
違った時代に違った場所で生まれ変わりをし、
そこで新たな人生を送っていくのではないかと推測できます。

月から学ぶこと

浄土宗を興した法然に、有名な歌があります。

月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ

この月は仏を意味しています。
法然は浄土宗ですから阿弥陀様と考えられます。

月影の「影」は月の光を表しています。
ですから阿弥陀様の慈悲の光はすべての人に投げかけられている。
その慈悲の光を「ほんとうにそうだありがたい。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば、そこに仏の姿が見える。仏の救いがある。
でも、「仏の救いなどない」と思っている人には、
阿弥陀様が等しく、その慈悲の手を垂れているのに、
その阿弥陀様の慈悲の姿は見えない。こう解釈できます。

禅的に解釈すれば、心の内にみな仏と同じ尊い心、
仏心(ぶっしん)を持っている。

それを悟り、その心を上手に使っていけば、幸せになっていける。
そうでなくて、その尊い心に気づかずにいれば、
心の内に住む仏の心を活かしていくことはできない。
そんな解釈ができましょう。

ここで変わらないものは仏の慈悲であり、また心の内に住む仏心といえます。
人生の移り変わりの中で、変わらない仏の慈悲や自らに植え付けられた仏の心を、
どのようにいただき使っていくか。

その日々の過ごし方によって、
人は幸せにもなれ、不幸になっていくといえます。

松の緑に教えられること

さらに変化することを常に教えてくれるのが、四季の移り変わりです。

春になると草が芽を出し、田の土手には小さな花が咲き始めます。
鶯が啼き、空も霞がかって、冬の景色とはまったく違う世界が現れてきます。
やがて緑が濃くなり、カッコウが啼き、蛍が飛び交い、
アジサイのほほえみが似合う梅雨がきます。

そして、暑い暑い夏を迎え、空には入道雲、風鈴の音が心を癒します。
汗を流しながら日々を送っていると、夜には鈴虫の声が聞こえてきて、
木々の葉も色づき、収穫の秋を迎え、お祭りの笛の音が聞こえ、
やがて白い雪が大地を覆います。

このように、自然は常に変化し、
その移り変わりの中で、人は歌を作り、詩を読み、
四季それぞれの住みやすい暮らしを模索してきました。

でも、どんなに四季が移り変わっていっても、
桜の花が梅の花になることもなく、
すみれの花がチューリップの花に変わっていくこともありません。
そこには変わらない何か尊いものが感じられます。

あるいは、松の葉の緑は一年中変わらず、緑をたたえています。
流れる変化の中で、変わらない緑を保っています。
そこから私たちは何を学びとっていったらよいのでしょう。

『論語』の中に、こんな言葉が出てきます。

歳(とし)寒くして、
しかる後に松柏(しょうはく)の後凋(こうちょう)を知るなり

松柏とは松や柏(かしわ)など、一年中緑を保っている常緑樹をいいます。
後凋(こうちょう)は、「凋(しぼ)む後(おく)る」で、
葉が散らないでそのままの色をたたえて残っている意味になります。

ですから、
「寒い時節になって、他の木の葉が散っていっても松は緑をたたえ、
いっそうその姿を美しいものにしている」
そんな意味になります。

この言葉の言外には、みなが努力をしないで怠っているときに、
独り努力をずっと続けていくと、やがて大成していく。
そんな意味に受け取ることができます。
変わらない持続の力といってもいいかもしれません。

日本の変わらないものを求める心

日本の文化の中には、変わらない幸せを願うこと事がたくさん出てきます。

たとえばお正月におせち料理をいただきます。
最近は高額なおせち料理の広告がでていますが、
このおせち料理には深い意味があるのです。

以前「しきたり雑考」で書いたと思いますが、
正式には一の重から五の重まであり、四つ目は与の重と書きます。

一の重には祝い肴や口取りといって最初に出す食べ物を入れますね。
その中には数の子、黒豆、田作りなどいれます。

数の子には、たまごがたくさんあることから子孫繁栄の願い、
黒豆には「まめ」に暮らせるということで健康を願い、
田作りは田を作るという字から豊作を願う。
そんな思いが込められています。
不幸を払い、ずっと幸せでいたいという願いです。

ちなみに二の重は焼き物、三の重は煮物、与の重は酢の物、
五の重は控えの重として何も入れません。
まだまだ繁栄の余地があるという意味があるようです。

酢の物のレンコンは穴が開いていることから将来の見通しがよいとなりますし、
煮物のたたきゴボウはしっかり根をはることから、
家の土台がしっかりするようにと、みな変わらない幸せを願って作るわけです。

人生の節目にあたるしきたりにもさまざまな変わらない願いが込められています。

たとえば、子どもが満一才になったときのお祝いに、
一升の丸いお餅を風呂敷に包んで、
子どもに背負わせるというお祝いの儀式があります。
これを「祝い餅」とか「力餅」などといいます。

この意味は一生(一升)食べるものに困らないように、
一生(一升)足腰が丈夫で健康であるようにという願いが込められているのです。

まだまだたくさんありますが、
不幸が来たり幸せになったりという変化する世にあって、
変わらない幸せを願う、そんな人びとの思いが随所に現れています。

一日の時間が変化する

「光陰矢の如し」という言葉があります。
時間は矢のように過ぎていく、だから怠ることなく生きよ、
という意味で使われています。

時間が止まることなく流れ、誰にもその時間を止めることはできません。

変わらない真実は、誰しもが一日、24時間をいただいているということです。
鈴木さんは一日30時間で、佐藤さんは一日22時間ということはありません。
みな24時間という時間をいただいて生きています。これは変わらない真実です。

でも、その人の時間の使い方、あるいは生き方によって時間が伸び縮みするのです。
過ぎてしまった時間は「あっ!」という間だったという思いがあります。

何かのお役を受けて、それが2年の任期とすると、
始めたばかりは長い2年と思っていても、
2年がたち役を終えると、時の流れに速さを感じます。

私も住職をしてお寺を守ってきましたが、
今はもう住職をひいて閑栖(かんせい)という前住職の立場になりました。
その間、本堂の建設がありましたが、その本堂もすでに29年もたちます。

建設にかかわる想い出はたくさんありますが、
過ぎてしまえば、昨日のことのように思えます。

逆に待たされる時間というのは、長く感じるものです。
歌手の高橋真梨子さんが歌っている「ジョニーの伝言」という歌の歌詞は、
「ジョニーが来たなら伝えてよ 2時間待ってたと」で始まります。

普通2時間も待っていたら嫌になって待てなくなるものです。
この歌はお別れの歌なので、待てたかもしれません。
でも、普通待ち合わせに15分も遅れれば、
待っている人の心は平穏ではいられません。長い時間に感じるでしょう。

楽しい時間はあっという間で、退屈な時間は、とても長く感じられます。
最近の映画で新海誠監督の「君の名は」という映画があり見に行きました。
107分の時間でしたが、それほど長くは感じませんでした。

あるいは、浅田真央さんのフィギュアスケートでも、
素晴らしいすべりのときは時間があっという間に過ぎてしまいますが、
何度も転倒していると、同じ時間なのに、長く感じられるのは不思議なことです。

時間を止めてしまう生き方

時間は流れ止まることはありませんが、自分の意志で止めてしまうこともあります。
自分では知らずに時間を止めて悩みを深めてしまう。そんな場合の時間です。

よく聞く話ですが、10年も20年も前に嫌味を言われ、悪口を言われ、
それが忘れられないで、相手をずっと憎んでいる。
そんな人がいることを耳にしたことがあります。

その時は傷ついたかもしれませんが、言った相手は忘れているものです。
傷ついたその時を今でも忘れられないでつらい思いをしているというのは、
言われたその時を止めていているといえます。

時は流れているのに、その時を自分で止め、傷ついている。
どうみても損な生き方です。水に流すという言葉がありますが、
そんなことで自分をいつまでも傷つけているのは賢い生き方ではないと思います。

できることならば、そんな自分を傷つけた出来事は時間という水に流し、
もっと美しい想い出を止(とど)めておくことです。

支えられたこと、支えたこと、それによってお互いが微笑み合えたこと。
そんなこと事を心に止め、蓄えていく。
そういう人が美しい人生を生きたと言えるのではないかと思います。

人生は常ではないが、老いも死も変わらない

人生は生きても百年、みな生まれ死んでいきます。

70年もすれば、老いと闘わなくてはなりません。
誰しもが老いを迎え、死を受け取らなくてはなりません。
これは変わらない真理です。

100万人に一人、死なない人がいる。
そんな例はありません。

この変わらない真実をどう受け止め、考えて生きていくかで、
人生が変わってきます。

たとえば老いを嫌う人と老いを素直に受け入れていく人では
人生観が違ってくるでしょう。
老いゆえに、何かそこに役立つものがあると思えるのです。

こんな詩を見つけました。
「「ひび」という題の詩です。

「ひび」

ひびの入った睡蓮鉢(すいれんばち)に
毎朝 漏(も)れたぶんの水をたす

いつも適度に きれいな水を
スズメや猫が飲みにくる

ひびが
水を生き生きさせる
ひびが
スズメや猫を 生き生きさせる

(産経新聞 平成29年8月2日付)

「老い」が「ひび」とは言いませんが、
何か若者と違ったものを老いの中に持っていて、
その老いの中にも、尊い学びがあるような気がします。

「老いという大きな傘が降りてきてわれを誘ふ 迷わず入れ」

佐藤多惠子さんの歌です。
素直に老いという時間を受け入れると、
そこに確かな生き方を見つけることができるのです。

(つづく)


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