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法話

まあるい心 1 心の姿

今年の最後は「まあるい心」というテーマでお話しいたします。
普通は、「まるい心」といいますが、もっとまるいという意味で、
「まあるい」という表現に致しました。

あたたかな心

人にはさまざまな姿や形があります。
大きい人、小さい人。痩せている人や太っている人。
肌の色の違いや、男性女性の違いもあります。

これは目に見える、人としての姿ですが、心にも姿があるのです。

心の姿は目に見えない特徴があるのですが、
実は心の姿が顔やさまざまな表情に現れて、どんな心の姿をしているのか、
ある程度、判断できることがあります。

たとえば「心」という詩があります。68才の女性の方の詩です。

遠くにいるから
何もしてあげられないネと
言ってくれる人
何も出来ないけれど
時々お手紙書くネと
言ってくれる人
遠くにいても
時々電話をかけるから
泣いてもグチっても
受け止めるよと
言ってくれる人
介護で知った人の心

(産経新聞「朝の歌」平成22年6月27日)

この方はどなたかの介護をしていて、大変な思いをしているのでしょう。

そんなとき、そんな介護疲れを癒してくれる言葉やお手紙、
あるいは電話をいただいて、人の心のあたたかさを知ったのです。

私たちも、この詩から心のあたたかさを感じ取れます。
あたたかな心、これが一つの心の姿なのです。

冷たい心

「心」という詩を読みましたが、あたたかな心の姿が見えました。

逆に冷たい心もあります。
冷たい心の姿といえます。冷たい心とはどんな姿をしているのでしょう。

たとえば、人のことに無関心で、相手が困っていても手を差しのべないような人。
人のことを謗(そし)り、人の不幸を笑う人なども、心の冷たさを感じます。

秋の稔りのころになると、収穫したお米を倉庫に保管しておき、
それがいつのまにか盗まれたという事件が起こります。

お米を育てるのに、一年の歳月をかけ、
やっと収穫したお米を盗んでいく人の心は、冷たい心の人です。

人の苦労を踏みにじって、自分だけが苦労もしないで、美味しい所だけを取る。
心のあたたかな人には決してできないことです。

他にもたくさんありますね。
広い心の人、愛深い心を持つ人、慈しみの心を持つ人、狭い心の人、
意地悪な心の姿をしている人や、ケチで欲深な心の人。

これらはみな、心の姿が現わしている「人となり」といえます。

まあるい心 2 まあるい心

まあるいお月さま

まあるいということで思い出すのは、
お月さま、お祭りなどに売っている綿菓子、ボールはもちろんですが、
ひまわりの花やアジサイの花もまあるいですね。

2才になる女の子が、凍てつく冬の夜空に満月を見て、
「パパみたいだね。パパみたいに私を見ているよ」とお母さんに言いました。

お母さんがあらためて満月を見ると、
普段はあまり優しくないと思っていた夫の顔が、
不思議に、柔和にほほえみをたたえた顔に見えて来た。

そんなお話をどこかで読んだことがありました。

まあるいというのは、柔和で笑顔一杯で、あたたかくて優しい、
そんな思いを感じさせてくれます。

そういえば不思議と、笑顔の顔はまあるく見えます。
怒っている顔は三角に見え、不満を言っている顔はゆがんで見えます。

まんまるなお月さまは、
この2才の女の子にとっては笑ってほほえんでいるように見えたのでしょう。
それがいつも優しくしてくれるお父さんの顔と重なったわけです。

まあるい笑顔

昨年病気をして、少し入院をしたことがありました。

そのとき、トイレに行くと、いつも掃除にくる女性の方と出会いました。
どうも、一日に何度もトイレの掃除をしているようです。
ですから、その病院のトイレは、いつもきれいになっていてピカピカでした。

入院中に知り合いのある方がお見舞いに来られて、こう言ったのです。
「トイレのきれいさを見ると病院の良し悪しが分かるの。
ここはトイレがきれいになっていて、いい病院だね。そう思う」

私は今までそんなことは知らずにいたのですが、
この言葉を聞いて納得するものがあり、「そうなんだ」とうなずいたのです。
そういえば、みんな親切で笑顔があり、安心して過ごせる病院でした。

そこで退院するまでに、トイレを毎日掃除してくれている女性に、
このことを言ってあげようと思い、機会を伺っていました。

退院する前日でした。その女性とトイレであったときに、
「トイレのきれいさで病院の良し悪しが分かるって、
お見舞いに来てくれた方が言っていました。
ここの病院は、トイレがピカピカですね。きれになっていますよ」

そう言うと、その女性が笑顔満面に
「ありがとうございます」とお礼を言うのです。

本当はこちらが言わなくてはならないのに、
掃除をしてくださっている方にお礼を言われ、初めて見るその笑顔に、
まあるいあたたかな思いを感じ取ることができたのです。

そして、私のほうまで笑顔になり、幸せな思いになれたのです。

まあるい心は、あたたかな心で、柔和で笑顔一杯で、優しい、
そんな心の姿から現れるものでなのです。

まあるい心 3 ギザギザの心

心の突起(とっき)

コンペイトーというお菓子があります。
小さくて回りに突起のようなものがでていて、ギザギザになっているお菓子です。

コンペイトーには悪いたとえで失礼なのですが、そんな心を持った人もいます。
それは、心に突起がでていて、そこにいろんなものが引っかかるのです。

川を見ると、川の中にとききどき枯れ木が引っかかっていて、
そこにいろんな屑(くず)がまきついたりしているところを見たことがあります。
同じように、心にも何か尖(とが)ったものが出ていて、そこにさまざまな思いが引っかかるのです。

引っかかるというは、どんなイメージかということです。

たとえば「頑張れ」という言葉があります。
運動会なので、「頑張れ」と応援するときには、
競技をしている人にとっては力が出る言葉です。

でも病気で苦しんでいる人に、「頑張れ」というと、かえって傷つけることがあります。
その言葉が心に引っかかって、「こんなに頑張っているのに」となるわけです。
相手は病人のことを考えて言っているのですが、当の本人は大変な思いをするときがあります。

私のもの、という欲望の突起

今回は「私のものと」いう心の突起の話を一つだけ致します。

まず私のものと強く思うことで、引っかかってくるものは、
私の夫、私の妻、私の子供、私の家、私の服、私のお金、私の足、私の目、
まだたくさんでてきます。

「寒い晩だねえ」
「寒い晩ですね」
妻の慰めとは、まさにかくの如くものなり

こんな言葉がありました。

奥様の旦那さんに対する素直な気持ちを感じます。
こんな些細な言葉のなかにも、相手を思う気持ちがでていて、
奥様のまあるい心を感じます。

それが旦那は私のものと強く思っていると、「寒い晩だねえ」という言葉にも、
「風邪をひくと困りますよ。もっとしっかり働いてもらわないとですから」となりましょう。

川柳に「100kgの俺を動かす妻のアゴ」というのがありました。
面白半分で言っているのでしょうが、
本当であれば「夫は私のもの」という心の突起に欲望がくっついているといえます。

私のことですが、ずいぶん前に、あるホテルに友人を迎えにいったときのことです。
12月初めの5時30分ころでしたから、あたりはすでに暗く、回りが見えにくくなっていました。

ホテルに着いて、友人を車に乗せ、そのホテルを出た時、
「ガガガー」という音がしたのです。

どうも、ホテルの出口にあったポールに車を引っかけてしまったようです。
車の右側のドアあたりが、可なりへこんで傷になってしまい、
後で車屋さんに修理代金を聞くと、18万円といいます。
ずいぶん修理代がかかってしまいました。

そのとき、私の車に傷がついてしまったという思いが、
心に引っかかっていつまでも取れないのです。

心がまるければ、そんな思いにも引っかかることなく、
「修理屋さんに儲けていただいた」くらいに思って、すぐ忘れてしまうのでしょうが、
なかなかそんなわけにはいきません。

あるいは、この足は私の足と強く思っていると、
年を取り、足が思うように動かないと、「お前(足)のせいで、まともな運動もできず、つまらない」
と足に不満をいうようになります。

まあるい心の人は、足の痛さに心がひっかからないので、
「今までよく働いてくれて、ありがとう」と感謝の思いを出せるわけです。

私のものというのとは逆に、私のものではないという欲望もあります。

自分が出したゴミなのに、私のものじゃあないと思い、路上に捨てる。
こんな厄介な年寄りは私のものじゃあないと思い、介護もしない。
この位牌は私のものじゃないと言って、手も合わせないし、お参りもしない。

みな醜い欲望の突起に引っかかってしまったことからくる、悲しい心の姿です。

まあるい心 4 まあるい心を得るために

では、最後に「まあるい心」を得るための方法をお話ししたいと思います。

まず、まあるい心になりたいと思うことです。

次に、まあるい心を得るためのエネルギーは感謝の心ですから、
感謝の思い強くしていくことです。

感謝は自分の我がものという欲望を消し、
相手を理解し、相手を大切に思える心を作っていきます。

それがあたたかな心に通じていき、
心のギザギザ、トゲトゲがしだいに取れていき、まあるい心になっていけるわけです。

感謝する心は、今まで多く語ってきましたが、
次の投書を読んでいただき、感謝の思いを今一度深めていただきたいと思います。
きっと心がまあるくなることでしょう。

この投書を書かれたのは、23才の女性の方です。

サドルを温めた母の手

帰宅が遅くなったある夜、
自転車に乗ろうとしたら、サドルに霜が降りて白くなっていた。

ハンカチを出すのも面倒だと手で温めているうちに、
ふと高校時代のことを思い出した。

片道10kmの道のりを自転車で通った3年間。
冬の朝、サドルの霜を溶かしてくれたのは、いつも母の手だった。
私が見えなくなるまで送ってくれたのも、母だった。

私は大学進学と同時に上京したが、新しい環境になかなかなじめず、
泣きながら電話をしたり、恋人の話を手紙に書いたり。
思えばいつも母が話を聞いてくれた。

たまに母が上京した時、一緒に買い物をするのが何よりうれしかった。

そのまま東京で就職し、がむしゃらに働いていたある日、母から手紙が届いた。

「あなたが大人になるまで死ねないと思っていたけれど、もう大丈夫ね。
4人の子供たちを苦しみながら産み、35年間子育てを楽しませてもらったことに感謝」と。

確かにもう、育ててもらう立場ではない。
でもそれは、母の存在が必要でなくなる、ということとは違う。

ここまで育ててくれた母の愛を本当の意味で実感するのは、
自分自身が母になってからかもしれない。

だから、心からありがとうを言えるまで元気でいてほしい。
まだカボチャの煮物の味付けも伝授してもらってないもの。

(朝日新聞 平成18年1月31日)

この女性のお母さんは、娘さんが高校生のとき、
冬の朝、自転車のサドルの霜を手で溶かして、
娘さんが見えなくなるまでずっと見送りました。

そして23才になった、娘さんに
「子育てをさせていただいて楽しかった。ありがとう」
と感謝しています。

心のギザギザ、トゲトゲがありません。
感謝は、このように、心をまあるくするのです。

感謝の思いを大切に、心をまあるくし、
あたたかな人として、生きていきましょう。

今年も何度も「法愛」に目を通していただき、心から感謝いたします。