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みにミニ法話

(93)見えない世界

なぜこの世には見えないものがあるのでしょう。

このことを考えるために、もしこの世が見えるものばかりであったならどうなるのか、という視点から少し考えてみます。

まず見えないものの一つに、互いの心のなかで思っていることは見えません。
しかし、これが見えてしまったらどうでしょう。心で思っていることが見えてしまうのですから、言葉で自分の思いを表現することはいらなくなります。それ以上に、思っていることがあまりに違った人とでは一緒に住めなくなるでしょう。思っていることが分からないから、嫌な人であると思っていても、それを隠し、一緒に仕事をしたり、食事をしたりすることもできるのです。

また、相手の思いが見えるのですから、相手を努力して理解しようとすることもいらなくなります。この人は誠実な人だ、と見えてしまう。この人は意地悪な人であると、すぐ分かってしまうからです。何を考えているかが分かれば、理解するという努力はいらないでしょう。

さらには、相手を信じることもいらなくなりでしょう。相手の思いが手に取るように目に見えて分かってしまうのですから、相手を信じて待ってあげるということはいらなくなります。

目に見えないから、相手がどのような人であるか分からない。しかし、きっといつか自分のことを分かってくれる。正しい行いに目覚めてくれるという信じる行為がで、またそのための努力もできるのです。

この地球には六十億人もの人々が住んでいます。それらの人が一つにまとまることは大変難しいことです。しかし、それらの人びとが、たとえば愛という見えないものを尊び、その愛のもとに、互いを尊重していったら、世界の人々が一つにまとまることも可能となりましょう。

この意味で、見えないものがこの世にあることは大切なことであるし、見えない世界があるゆえに、人として学びがあり、尊さがあるのです。

神仏がお創りになった世界は、実に神秘的です。