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みにミニ法話

(152)「心を洗う」

そもそもこの「心を洗う」という言葉が出てきたのは、
心が何らかの原因で汚れるからという理由からです。

服や身体もほこりがついて汚れていきますし、
家や車も掃除をしなければしだいに汚れていきます。

これは目に見えることですから、よく分かることです。

でも、心が汚れるという表現は、普段耳にしない言葉ですし、
油断をしていると、一度も心を洗うなどと思わないで、日を過ごしてしまいます。

服や身体は、まわりから出たほこりや泥によって汚れたり、
あるいは自分から出た汗などで汚れます。

では心は何の原因で汚れていくのでしょう。

それは貪欲のほこりであったり、怒りの泥であったり、
愚かさの汗であったりするのです。

ですから心を洗うことなく、そのままの状態にしておけば、
自分の顔に泥がついていても洗わないように、
心もそんな姿になっているということです。

泥が顔についていた状態で、出かけられるでしょうか。
おそらく多くの人は恥ずかしくて、外には出らないでしょう。
女性の方はきれいにお化粧をしてでかけるほどですから、なおさらのことです。

心を洗う洗剤になるものに、反省という洗剤があります。

貪欲や怒りの思いがでてきてしまったら、
「いけない思いを出してしまった。いけない行動をしてしまった。
 申し訳ない。これからは注意しよう」
と思うことです。

これが心を洗っている姿といえます。

心を洗う別の方法として、人としてのあたたかな体験を聞くことです。

小学校1年の勝也君が「オムツの中」という詩を作りました。

みて、すごいきれい。ひかってる。あっくんがんばったね

(「にんげんぴかぴか」ページ21)

うんちを勝也君は「すごくきれい」といっています。
心洗われる思いがします。

さらに心を洗う方法は、尊い教えを聞いたり、読むことです。

苦しみのために、心に乱れを感じたとき、
「わざわいは、神の行為が顕れんための機会である」という教えに会えば、
心が洗われ、安心を得ることがあります。

このような方法で心を常に洗い、
きれいな心で、人と接していくことが大切です。

恥ずかしくない心を持って、日々を大切に過ごしていきましょう。