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みにミニ法話

(161)「とらわれなき心」

人はとらわれの心によって苦しみを背負い、
不幸になっていくことが多いといえます。

また苦しみの原因がとらわれの心からきていることを知らず、
さらに他の人にまで、自分の苦しみを広げていく人もいます。

たとえば、自分の年令にとらわれている人。
「私は絶対おばあさんと言わせない」といって、そんな年令になり、
おばあさんと言われ憤慨し、回りの人に文句をいう人。

学歴にとらわれ、自分や相手をさげすむ人。
自分の鼻の低さにとらわれ、笑顔のきれいなことを知らずにいる人。
一回の失敗にとらわれ、再出発できず努力しない人。

家庭の不和にとらわれ、
自分ほど不幸な人はいないといい、その不幸を愛する人。

子どもがいないことにとらわれ、
夫婦二人で生きていくことの楽しみを半減させてしまう人。
逆に子どもがいるために、自分の楽しい生活が子どもに奪われたと思い
不平を言う人。

まだまだでてくると思います。

この「ひとつのことに、とらわれてしまい苦しみをなめる」という原因の一つに、
貪欲の思いがあげられると思います。

「もっと欲しい、もっと楽になりたい、
もっと幸せでいたい、これ以上傷つきたくない」

そんな思いにとらわれていると、
いつまでも幸せの果実を手にすることは難しいでしょう。

とらわれないという状態を禅では、行雲流水で表しています。

行雲流水とは字のごとく、
「雲の空を行くごとく、水が川を流れるがごとく、生きていけ」
という意味です。

雲が空を移動していく様子を見ていると、心がすがすがしくなってきます。
それは何物にもひっかからないという姿が美しく見えるのです。

水が川を流れていく様は、すがすがしいものです。
特にその水が澄んでいればなおさらで、そんな状態をとらわれのない状態であると
賢者は悟り、「とらわれない心」を行雲流水という言葉で表現したのです。

苦しみや不平不満が出てきたら、きっと自分の欲深い思いからきている、
その欲の思いにいつまでもとらわれていないで、
雲が空を行くように、水が川を流れていくように、
その岩のような欲を「さらさら」とくぐりぬけ、
また「さらさら」と、とらわれなく、新たな時、新たな日々を生きていく。
そんな生き方が、やがて幸せへと導いてくれるのです。