ホーム > 法愛 4月号 > みにミニ法話

みにミニ法話

(171)「雑念を振り払う」

雑念とは坐禅などしていると、
さまざまな事が頭の中を去来し、「無」になりきれないときよく使いますが、
今回は別の観点から考えてみたいと思います。

一般的には雑念とは修行の妨げになる余計な思い、考えをいいます。

ですから人生修行を考えた事もない人には、
この雑念という考え方はないともいえるかもしれません。

ここでの人生修行というのは、
この世に生まれてきたのは「多くを学ぶためにある」
という基本的は考え方からいえば、誰しもが持つべきものであると思われます。

人生修行にとって大切なのは、自己を律することと、他を利すること、
すなわち相手の幸せのために働くという、この二点に集約されます。

ですから、
この二つの考え方、生き方を妨げるもの、邪魔をするものが雑念なのです。

自分を律するためには努力がいります。
この努力を妨げる思い、それがひとつの雑念です。

たとえば「働きたくない」と思う。
「楽(らく)をしてお金儲けをしたい」と思う。
「寝て暮らせれば」という思い。
お酒を飲んで運転をしてはいけないのに「ちょっとくらいなら」という甘い考え。
みな雑念といえます。

あるいは自分をだめな人間だと思ったり、
嘘をついてその場をやり過ごそうとする思いも、そうでしょう。

そのような雑念に負けてしまうと、
道にそれた生き方になり、自分も相手をも不幸にしていきます。
自分を律して、そのような雑念を振り払う生き方が大切です。

二つ目の相手の幸せのために働くという人生修行ですが、
人は自己中心的な考えに陥りやすいので、
結構この生き方に対する雑念も多いと思われます。

昨今給食費を払わない親が増えているといいますが、
まわりの迷惑を考えず「払わなければ、それに越したことはない」と思う。
「これくらいなら」と思ってゴミを路上に捨てる。
老人はお金を持っているから、「騙しとってやれ」と思う。
みな雑念です。

「自己を律したり、他のために働く」
という生き方は難しいことであるかもしれませんが、
それを妨げる思いが雑念であると見極め、
その思いを何度も何度も振り払い生きていく。
そこに人生の妙味があるのだと思います。