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みにミニ法話

(172)「光の存在」

春になると光があふれてくるような感じがします。

その光の存在があたたかさをもたらし、
その光の慈悲にあまえてさまざまな植物や動物、人間までも、
ほほえみの心を持ちます。

かつてお釈迦様は仏陀となられましたが、
その仏陀、悟れる者を太陽の末裔(まつえい)と表現しています。

末裔とは子孫ですから、
仏陀となられたお釈迦様は、光り輝く太陽の子孫となります。

その光の意味は教えであり、教えという光を放って、
人びとの心に安らぎと幸せを与えてきたわけです。

春の光のように、仏陀という太陽から放たれる教えという光によって、
すべてのものがほほへみの心をもつのです。

天照大神様も太陽神として崇(あがめ)られ、尊敬されてきました。

古事記には弟の須佐命(すさのうのみこと)の狼藉に業を煮やした天照大神が
天岩屋戸(あまのいわやと)に隠れたという話が載っています。

天照大神が岩戸に隠れると、太陽が沈んだように辺りが暗くなり、
今日も明日も永遠の夜になったと記されています。

太陽神であった天照大神は、明るさそのものです。
この明るさとは笑顔であり、また調和した心の姿をいうのです。

聖徳太子が十七条の憲法で初めに述べている「和を以って貴しとなす」という条文も、
天照の光の象徴としての調和の精神からきていると思われます。

このように光には尊さと偉大さが感じられます。

私自身が光の存在となる、というのは非常におこがましいことでしょうが、
しかし、私もできる限り光の存在に近づいていくという願いをもって生きることは、
尊いことであると思います。

光の存在に近づいていく方法は、
仏陀の教えを我が生きる指針としていくこと。
あるいは明るさと笑顔を大切に生きていくこと。
また、家庭やまわりの人と、調和を大切にしながら生きていくこと。

そんな生きる姿勢のなかに、自らが光を放つ存在にしだいに近づいていって、
またその光でまわりの人を幸せにしていくことができるわけです。

春のあたたかな光を感じながら、自分自身も「そうあらん」と感じてみましょう。