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みにミニ法話

(189)「死を輝かせるために」

一般には、死は忌み嫌うもので、
お釈迦さまも四つの苦しみの一つに死をあげています。

「いつ死んでもいい」と思っている人でも、実際に死を宣告されれば、
「いい医者がいて治してくれないかしら」とか、
「いい薬がないものか」と思ってしまうものです。

親しい人たちとの別れも、とても悲しいものです。

しかし、死から誰も逃れることはできません。

そこで、少しでも死を輝かせるという発想を持って、
今生きているときを充実して過ごすことが大切であると思うのです。

今生きているときが輝いていれば、
きっと死も輝いて、悔いをのこさず、あの世に帰っていけます。

では、この今を輝かせる方法は、どんな方法があるでしょう。

それは善を積むことなのです。
善を積むためには、初めに何が善で何が悪なのかを知らなくてはなりません。

人間はとかく悪を犯しやすく、感謝もせず、
人からしていてだいて当然と思ってしまいます。
あたりまえといってもいいでしょう。

知らず知らずのうちに悪を積み重ねてしまうのです。
日々よく気をつけて生きていないと、なかなか善はつめないものです。

たとえば「ありがとう」の言葉一つをとって考えてみれば、
私たちはどれほど感謝の念をささげて生きているでしょう。
日々、支えてくれている物や人に、どれほどの感謝を抱き暮らしていることでしょう。

空気の存在、太陽の光や、自然の趣(おもむき)、
蝉の声や鳥たちのさえずり、風鈴の音や涼風のすがすがしさ。
妻や夫との語らい、お年寄りと共に生きる学び、
若い人に世話になることのありがたさ、子どもや孫の笑顔、
毎日の食事や仕事のできる日々、まだまだ数え切れないほどの事ごとによって、
私という存在が生かされています。

その思いを、どれほど感謝の念に変え、生きているでしょうか。

そして感謝ができたならば、
今度はこちらからできることをしてあげ、支えられる人となっていく。
そんな生き方の中に、善がつまれていくのです。

善はそうやすやすとはつめないのですが、
善を積むことに気をつけて生きていれば、きっと輝いた生き方ができるでしょうし、
また死も輝けるものになっていくと思うのです。