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みにミニ法話

(204)「信仰とは」

信仰とは神仏を信じ信頼して、神仏の考えにしたがって生きていくことですが、
信仰がなくても日々生活していくことはできます。

欧米では信仰がなければ、動物と同じで、
人として扱ってくれないといいます。
アメリカの大統領は聖書に手をおいて、就任の誓いをします。

その点、日本人は曖昧で、
「私は無宗教です」という人が意外と多いのには驚かされます。

人として立派であるかそうでないかの判断は、たくさんあると思いますが、
大きな柱は、やはり信仰心があるかなかで判断されると思います。

昔日本人でも、神仏とは言わなくても、
「お天道様が見ているから悪いことができない」とよく言ったものです。

合理的で豊かな時代になると、
そんな非科学的なことは信じられないといって、
お天道様も地に落ちてしまいました。

その結果、いつもどこかで見ている神仏がいないので、
見える世界のことばかりに気を配り、
それが社会の調和を乱しているのではないかと思わるのです。

特に家庭の不和は、
見えない存在を蔑(ないがし)ろにしているところからきていると思われます。
法事でも、子供達はお参りしないで、大人やお年寄りが主だってする家庭もあります。

そんなとき私は
「子供たちに見えないものに手を合わせている大人の姿を見せることが、
どれほど大切な教育であるか」
を、いつも思うのです。

信仰は自由ですが、
実際に見えない世界で私達を守り導いてくださっている神仏がいたとすると、
それを蔑(ないがし)ろにして生きてきた人は、
自分でその責めを負わなくてはなりません。

たとえば
「私は仏教徒で、仏様を信じています。
お釈迦様の教えを生きる指針として、正しい生き方ができるように、
そしていつも見えない世界で守ってくださっているみ仏様に感謝して生きています」
といえれば、人として立派であると思うのです。

信仰は人としてなくてはならない、尊い考え方です。