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みにミニ法話

(205)「無我を生きる」

無我というのは「我が無い」と書きますから、極端にいくと、
死んだら何も無くなってしまう、という考えになってしまうことがあります。

お釈迦様が語られた無我は、そうではなくて、
煩悩を滅して清らかな仏の心と同じになった心境をいうのです。

現代的に分かりやすく言えば、私が無いということで
「私心がない」といってもいいでしょう。

ボラティア活動をしていて、誉めてもらいたいためにするとか、
役がたまたま来たからするとか、仕方ないからするとか、そのような思いを持たず、
真心をこめて一心にすることが、私心がない状態といえますし、
無我の思いで活動をしていることにもなるでしょう。

無我の状態で活動する場合、そこにほほえみがあり、安らかさがあります。
自分を空しくしているので、素直な思いで事にあたることができます。
その状態が仏教的には、仏の心を働かせていることになります。

逆に、心が煩悩で曇(くも)っていると、無我でない状態です。
素直さが押しつぶされ、欲や怒り不平の思いがわき出てきて、
心安らかではいられなくなります。

その思いが自分勝手な思いに通じていき、
また、相手を理解する力を失わせるのです。

晴れた日に、どこからともなく風に乗って雪が舞い散ってくるときがあります。
それを風花と書いて「かざはな」といいます。

そんな雪が花のように舞ってくる様子をみると、
その美しさと不思議さに我を忘れます。

これは一つの例ですが、
自然の美しさは、心を癒し、我を忘れて自然と私を一つにしてくれます。
この状態を無我と言い表すこともできましょう。

無我であれば、自分自身への計算がないので、
自然の美しさを自ずと受け入れられるように、
相手を素直に受け入れ、理解することができます。

相手と口論したり喧嘩をしたり、また意見が合わなかったとき、
私は無我を生きていないと気づくことです。

そして自然の美しさを素直に受け入れている自分を思い出し、
無我の大切さを思うことです。

無我になって、今年一年を静かに振り返ってみてください。