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法話

花を花と見る 1 さまざまな見方

今月から「花を花と見る」という演題で、お話をしていきます。
これは法泉会という会でお話ししたものです。
133回目でした。平成28年9月の時の話で、
8年経っていますので、少し書き換えながら進めていきます。

素直に見る

「花を花と見る」という演題は少し変わった演題ですが、
結論からいいますと、「好き嫌いなく、素直な心でものごとを見る」ということです。

ものごとにはさまざまな見方があって、その見方によって、
幸せになったり、いざこざを起こして不幸になったりします。
また見方によって、気分をよくしたり悪くしたり、
あるいは成功したり失敗したりもします。

ですから、これからいろいろな見方があるということを知って、
どのように、目の前にある出来事を、正しく見ていったらよいか
ということを、共に考えていきたいと思います。

華道展での学び

ずいぶん前になりますが、
伊那の商工会館というところで、華道展がありました。
ちょうど2枚、チケットをいただいたので、家内と一緒に見に行ったのです。

その華道展は長野県華道教育会の主催で、第67回目とのことでした。
最初に行った日には、そこに120名の方の、さまざまな流派の生け花が飾られていました。

花の生け方によって、その佇まいが、ずいぶん変わるのだなという印象を持ちました。

花を見て、心の安らぎを得て、その会場を出ようとしたとき、
チケットをくださった方が、その会場にいて、どうもその華道展の委員長をしていたようです。
そして、またチケットを2枚くださるではないですか。

「もう見ましたが・・・」というと
「実は会員が240名いて、会員が多いので、2回に分かれて展示するんです。
 今日と明日で120名、あと2日間で120名の方々が花を生けます。
 全く違う生け花が見られますので、明後日、是非来てください」
と言うのです。
義理深い私なので、行きました。

2回目を見させていただき、
私にとても合っている生け花が「利休古流」という生け花でした。
大自然を、小さな花器の中に表している。そんな感じの生け花でした。

このように、花にもさまざまな見方があります。
人にも、日々体験する出来事にも、いろいろな見方があって、
どうそれを見ていくかで、人生も変わってきます。

できれば、目の前の事ごとをどう見ていけば、
幸せの生け花が心の中に生けられるのか。
そのような考え方も、時には必要ではないかと思います。

一枚の葉

私自身、正式に生け花を学んだことはありませんが、
修行僧堂で半年ほど、生け花の先生に教えていただいたことがありました。
以前、この「法愛」にも書いたことがあります。

修行の期間に、お寺の受付などの係を半年ほどしたことがありました。
玄関を上がると、お客様をお通しする部屋があります。
10畳ほどで、床の間がありました。そこに花を飾る役もしたのです。

花を、どう飾っていいかわかりません。
そこで、お寺の境内の中に、長学堂という古民家のような家があって、
そこに原歌子という先生が、修行僧の手助けをしながら、
自らも修行をし住んでいたのです。

「その先生に教えてもらえばいい」と言われて、
半年間、花の飾り方を学び、床の間の花瓶に花を飾っていたのです。

あるとき、お寺で華道展があって、その打ち合わせに、華道の先生が来られました。
床の間のある部屋にお通しして、お茶を差し上げると、
床の間の花を見て、「これはあなたが生けたのですか」といいます。

「そうです」
「上手に生けてありますね」
と言いながら、その生けてある花瓶の所にいって、一枚の葉を取り去ったのです。
「こうすると、もっとよくなりますよ」と言われ、見ると、
私が生けた花とは、まったく違った景色がそこに現れたのです。

その時、「一枚の葉を取るだけで、こんなに違うんだ」という衝撃的な驚きを持ちました。
華道の奥深さを知り、花をどう見るかという学びにもなった思いがしました。

エンピツをどう見ますか

私は普段、エンピツは2Bを使っています。
薄いと見えにくいので、濃い方がよいのです。

今まで数えきれないほどのエンピツを使ってきましたが、
エンピツは白い紙の上に字を書くものだと、あたりまえに思っていました。

こんな詩がありました。
「エンピツ」という題で、中学校一年の男の子の詩です。

エンピツ

おれってなんで小さくなるの
人間だったら大きくなるのに
おれの場合は退化する
それでもいいんだ なぜならば
エンピツにはゼッタイに
芯が入っているからさ

(読売新聞 平成28年8月6日付)

こんな詩です。

この詩を選んで新聞に載せた、平田俊子先生が、とてもいいコメントを書いています。

「鉛筆の芯は文字や絵となって紙の上に残る。
 鉛筆が短くなった分だけ、大事なものが紙に残る」

この詩を書いた男の子は、エンピツを自分に置き換えて詩を作っているのです。
そんな見方を、今まで私はしたことがありません。
さらに、短くなるけれど、そこに芯がはいっているからいいとも言っています。

芯の意味は「こころ」ということですが、
エンピツも役立とうというと強い「こころ」があると解釈してもいいでしょう。

平田先生の、「鉛筆が短くなった分だけ、大事なものが紙に残る」という表現も、とてもいいです。
1本のエンピツにも、こんな見方ができるのだなあと教えていただいた詩です。

空の青さがいい

ここで短歌から、見方について、学んでみます。
まず一つ目は男性の方が詠んだものです。

両眼の手術終えたる老い妻が空のあおさをくりかえしいふ

(読売新聞 平成28年9月19日付)

こんな短歌です。

岡野弘彦先生のコメントです。
「私にも同じような体験がある。
 眼帯の取れたのち、眼に入るものの形の確かさ、空の光のまぶしさ、
 生まれ変わったような新鮮さだ。だれもがすぐ老いの日常にもどる」

両眼の手術をし、少しの間、景色が見えない。
そんな心配もあって、見えた時のありがたさを、
「空のあおさをくりかえしいふ」ことで、表現しています。

生まれつき目の見えない少女に、眼が見えたら、何が一番見たいと聞くと
「お母さんの顔」といった少女を思い出します。
その話から、眼が見えることのありがたさを思ったことがありました。
あたりまえという色眼鏡を取ると、大切なものが見えてくるのです。

胸にしみる思い

もう一つ、こんな短歌がありました。この方も男性です。

わが兄の骨にかへれるこの軽さいまだ熱もつ壺かかえゆく

(読売新聞 平成28年9月19日付)

岡野先生のコメントです。
「幼い頃からの折り折りの記憶がよみがえるのに、
 この兄の骨の何という軽さか。骨壺の暖かさが胸にしみる」

この短歌を作られた男性は何を見ているのでしょう。
通り過ぎた想い出のなかに、共に遊び、笑い、喧嘩もし、
支え合い、助け合った日々が心の眼で見ることができるのです。
その想い出が小さくあたたかな骨壺に感じられるのでしょう。

私も母が亡くなって、火葬場からお寺まで、
母のあたたかな小さな骨壺を抱えて帰ってきたことがありました。
そのぬくもりは今でも忘れないでいます。

少し調べてみると、2021年10月、引き取り手のないお骨が6万柱(はしら)あって、
それを「無縁遺骨」というのだそうです。

あとは身元が判明しているとありました。

身元が分かっていても、亡くなった人のお骨を取りに来ない、
そんな世になってしまって、正しくものを見る目を失いかけているような気もします。
引き取り手のないお骨の寂しさが、胸にしみます。

立場によって見え方が違う

このお話をした平成28年は、ブラジルのリオデジャネイロでオリンピックが開かれた年です。
8月5日から8月21日までの17日間、206の国から千人以上の選手が参加しました。

さまざまな感動的シーンがありましたが、その中で、
ウエイトリフティング(重量挙げ)の女子48キロ級に出た、
三宅宏美(いちご)さんがバーベルを抱きしめるシーンがとても印象的でした。
各新聞にカラー刷りで、このシーンを載せていました。

三宅さんは4年前のイギリスのロンドンで行われたオリンピックで、銀を取っています。
今回は銅でしたが、バーベルを抱きしめる笑顔は、とても美しいと思いました。

この競技は、初め一気に頭上に持ち上げるスナッチと、
肩まで持ち上げて頭上に挙げるジャークを3回ずつ行って、
それぞれの最高点の合計で勝負するのです。

最初のスナッチは81キロでした。12人のなかで8位です。
このスナッチでも2回失敗し「私の夏は終わった」と思ったといいます。
本人が奇跡というように3回目に81キロ耐え抜いて持ち上げました。

次のジャークは105キロから初め、107キロを持てば、
4位の選手より1キロ多くなって、トータル188キロで3位になるのです。
自分を信じて持ち上げ、そして成功。8位から3位、大逆転したのです。

このとき三宅さんは、バーベルのことを、
「ずっと16年間、ともに練習してきたパートナー。
 最後はハグして『ありがとう』と言いたいと思っていた」
とコメントしていました。

ロンドンから4年間、度重なるけがに苦しみ、
監督である父の前で涙に暮れたことは数えきれなかったといいます。
そんな思いのなかでの銅メダル。4年前の銀より嬉しいと思い、バーベルを抱きしめたのです。

こんなに私を苦しめたバーベル。そんな見方もできます。
そうではなくてパートナーとしてバーベルを見ていたのです。
普段からバーベルを大切に扱い、磨き、共に語り合ってきたのでしょう。
頭の下がる思いがいたします。

私たちも時には、履いている靴や、乗っている車、
あるいは日々いただいている食べ物に、ありがとうの言葉を投げかけてみましょう。

状況によって見え方が違ってくる

その場の状況によって、見え方が違ってくる場合があります。
「おはよう」と声を掛けても返事をしない。
普通無視されたと思うものですが、何か深い理由があってのことかもしれません。
そういう場合も時にはあります。

次の投書を読むと、その場の状況によって、
こんなにも見方が違ってしまうことがあるのだな、と知ります。
44才の男性の方で「『可哀想』は時には人を傷つける」という題です。

「可哀想」は時には人を傷つける

足をけがした6歳の息子が
「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」と言った。
片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、
通りすがりのご婦人たちから「あんな足で歩かせて可哀想に」という会話が聞こえてきた。

息子に妹ができ、おむつを買いに行った。
「僕が持つよ。お兄ちゃんだから」と頼もしいことを言ってくれた。
任せたら「あんな小さな子供に荷物を持たせて。可哀想に」と他人から非難された。
「可哀想に」という人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。
しかし、言葉はあさはかで無責任で、
時には人を傷つけ、何も生み出さない。そのこと知ってほしい。

(朝日新聞 平成28年7月17日付)

こんな投書です。

息子さんが、足をけがしたのに
「頑張って歩いていく」と言って、一生けん命歩いている。

それなのに、まわりの人は「あんな足で歩かせて、可哀想」という。
息子さんの状況を知っていれば「頑張って歩いているのね。えらい子。気をつけてね」というかもしれません。

「僕、お兄ちゃんだから荷物持つよ」と頼もしいことを言っているのに、
それを知らない人は「あんな小さな子に、荷物を持たせて可哀想に」という。
もし知っていれば「お兄ちゃん立派よ。やさしいね」というかもしれません。

花でも、エンピツでも、青い空やお骨、そしてバーベルでさえも、
その人の生き方や立場によって、さまざまな見方ができます。
足をけがした子が、頑張って歩いている。
その歩く姿にも、いろいろな見方ができます。

できれば、その場の状況を見ながら、相手を思いやる、
そんな見方ができればと思います。

(つづく)