法話
人としての成熟さ 3 成熟な人となるために
先月は「さまざまな成熟の姿」という章で、
惑わないとか、天のさだめごと、水のながれるようにさからわない、
悲しみは心を深くする、など。そんなお話をしました。
続きです。
なりたいと思う
このお話をしたのが、平成30年3月でした。
その3月号の「法愛」にひとつの詩を載せました。
ある新聞の「こどもの詩」に出て来た詩で、中学1年生の女の子が書いた詩です。
「理想像」
一人で悩みを抱えこむと
不安は日に日に大きくなる
誰か一人でも正直に話せる
友達がいればいい
心が軽くなる
本音を言える友達
そういう人に私はなりたい
(読売新聞 平成30年1月18日付)
この詩のコメントで、平田俊子さんは、
「『そういう友達が欲しい』という結びではないところがいいですね」
と書いていました。
この視点は、とても良いと思います。
自分がそういう人になりたいと思うと、
しだいにそんな人間になっていけるわけです。
人として成熟していくのです。
宮沢賢治が作った「雨ニモマケズ」という詩の最後に
「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」と書いています。
なりたいと思うことが大事になるのです。
会社を興して成功したご夫婦が、ひなびた旅館に泊まっていた。
知人がそれを見つけて、
「どうして、お金があるのに、こんなひなびた旅館に泊まっているのですか」
と聞くと、そのご夫婦は、
「会社を興したときの苦労を忘れないために、
1年に1度、このような旅館に泊まっているんです」
と答えた。
いつまでも謙虚さを失わないでいたい。
そんな人になりたいという思いから出た行動だと思います。
思いと念じる
念じるで思い出すのが、
詩人の坂村真民の「念ずれば花ひらく」という詩です。
私のお寺にも、真民さんが書かれた字で
「念ずれば花ひらく」の塔が建っています。
「念ずれば花ひらく」
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたびに
わたしの花が ふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
(坂村真民 『詩集 念ずれば花ひらく』 サンマーク出版)
念じるというのは強く思うことです。
ぼんやり思っているのでなく、そうなりたいと強く思うことで、
自分がなりたい生き方ができるようになるわけです。
観音様を念じる
臨済宗でお読みする最も短い「延命十句観音経」というお経があります。
たった42文字で、その中に「念」という字が6個出てきます。
このお経の詳しい解説はしませんが、
観音様を朝も暮れにも念じると、とても功徳のあるというお経です。
このお経の功徳の力が、臨済宗中興の祖と言われる
白隠(はくいん)という和尚様の書かれた『八重葎 巻之二』に出てきます。
少しまとめながら載せてみます。
寛永3年(1750年)のこと。
白隠様が備前(びぜん・岡山県)に行ったときに聞いた話だそうである。
城下に円の都(いち)という座頭がいて、
彼は琴の名手で、人びとから敬愛されていた。
その城下に綾という15才ごろの娘がいた。
とても器量がよかったが、悲しいことに眼が見えない。
子どもの頃から両目を患い、8才ころから円の都に琴を習っていた。
13才ころには、並ぶもののない腕前となり、師匠よりまさるともいわれた。
師匠の円の都が綾に恋をした。
目が見えないので、綾は文も読めない。
この思いを告げることもできず、恋煩いで、泣く泣く事切れた。
その翌日、綾は人から催促されて、琴を弾こうと思ったが、
たちまち体がすくみ、身も心もしびれ、琴も弾けないくらい苦しみだした。
月日が経っても治らず、祈祷師を読んでも、効き目がない。
その祈祷師が言うのには、死んだ円の都のたたりであるという。
綾はしだいに弱り、長くはもたないほどになる。
さらに首には腫れ物ができ、その苦痛は言いようもない。
そこで、どこそこのお寺で説法している白隠様にお救いを願った。
白隠様は例のごとく「延命十句経」を授け、
このお経をみんなで綾のもとで読むとよい、と。
そのお経を綾の親戚や琴の弟子たちが集まり、
綾を囲んで、昼夜十句経を読誦(どくじゅ)した。
すると二日もしないある夜、夢に円の都が現れて、綾に告げた。
「ありがたや、嬉しい。このお経のおかげで、
積み重ねた罪業(ざいごう)が消えてしまった。
もはやここを立ち退き、お浄土へまいりますぞ。
たった四十二字のお経に、こんな不思議な霊験があるとは。
このお経を読誦することで、現世には七難がたちまち滅し、
来世はきっと菩提を成就することができましょう」
と言って消えてしまった。
その夢の後、不思議なことに、綾の腫れ物も病いもすっかりよくなっていった。
そして、あくる日、綾は二三十人の弟子を引き連れて、白隠様にお礼にいった。
そのとき白隠様は事の次第を知ったという。
(やえむぐら・白隠禅師法語全集第六冊 禅文化研究所)
こんなお話です。
綾が治ったのは、このお経の功徳と、
みんなが病いが治るようにと強く念じて読んだ力です。
このように人のために念じる行いは、功徳を増すのです。
「理想像」という詩を書いた、中学1年生の女の子のように、
「そういう人に私はなりたい」と念じることで、
そのような人に成長していくのです。
つもりの思い
京都の福寿園に「つもり十訓」という格言があります。
調べてみると、他にも別の表現の「つもり」がありますが、
200年以上続く老舗の福寿園のものを載せてみます。
自分の生き方を見直すよい格言で、
成熟な人になるためのヒントが、ここにあるように思えます。
1 、多いつもりで ないのが分別
2 、あるつもりで ないのが財産
3 、ないつもりで あるのが借金
4 、深いつもりで 浅いのが知恵
5 、浅いつもりで 深いのが欲
6 、高いつもりで 低いのが見識
7 、低いつもりで 高いのが腰
8 、儲けるつもりで 損をするのが商売
9 、飾るつもりで 剥(は)げるのが嘘
10、隠すつもりで 顕(あらわ)れるのが悪事
1番の分別の意味を調べてみると
「理性で物事の善悪や道理を区別してわきまえる」
とあります。(『広辞苑』第六版)
人を助けることは善で、人に迷惑をかけたり傷つけることは悪になります。
この分別の意味が少し硬(かた)いので、ここに慈しみの思いを重ねてみます。
あるタレントのお父さんが、この人が幼少のころ、
学校に行く前にこう言ったというのです。
「困っている人や動物がいたら、
学校や仕事に遅れてもいいから、助けてあげなさい」と。
普通、遅刻すれば叱られるので、通り過ぎてしまいそうです。
そうではなく、そこにとどまって、困っている人を助けてあげる。
分別の心のある人といえます。
以前、私の事務室から「クーッ、クーッ」と、
何かが泣く声が聞こえてきました。
外に出てその声の主を探すと、
なんとタヌキが死にそうで、溝の中に横たわっています。
「おい、お前、そんなところで死ぬなよ」と思いながら、いったんそこを離れました。
少し時間を追いて、その場所にいってみると、
タヌキはもう動かず、堅くなって死んでいました。
「どうしよう。このままでは可哀想だなあ」そう思い、
裏山に穴を掘りお地蔵様のお札を抱かせ、お経を読んで埋葬しました。
そこで気がついたのは、「お地蔵様はすごい方だ」と思ったのです。
タヌキと一緒に埋められて、タヌキを助けてあげられるからです。
「それ、お地蔵様のお札って、紙でしょ!」と言われればその通りですが、
そう思うのは人としての分別があるようで、足りないような気もします。
欲が人としての成熟さをじゃまする
5番目に、「浅いつもりで深いのが欲」とあります。
欲はないという人も、目の前に何百万のお金を出されると、心が動くものです。
最近話題になっている
『棺桶まで歩いて行こう』(萬田緑平 幻冬舎新書)
という本が出ていたので、さっそく買って読みました。
学ぶべきたくさんの知恵がでていて、その中に、
「成功者、金持ちは寂しく死ぬ?」という章に、
こんなことが書かれていました。
会社の社長さんで、とても頑固な人。
お金はあるようなのですが、その残した遺産が問題なのです。
緩和ケア―の診療所に来たこの人は、
子ども同士が争うところをこのように書いていました。
長女が父親を施設に入れようとする。
なぜかと言えば、次女が父親の面倒をみると、
次女に遺産が多く渡ってしまうからだというのです。
つまり施設に入ってくれれば姉妹平等だというわけで、
あまりの理由に愕然としました。
もちろんすべてではありませんが、
成功した人、裕福な人ほど
寂しい亡くなり方をするのが多い気がします。
多額な遺産の前に、自分の欲を抑えることができないのです。
浅いつもりで深いのが欲、ということです。
人柄がここに現れてきます。
この章では「生き方は死に方に出る」と書いています。
人としての成熟さを求めて生きている人は、
死を受け取るときにも、後悔のない逝き方ができるのです。
成熟な人となるために
できれば人のために何かしたい。そう思っている人は多いと思います。
災害で困っている人びとのところに、ボランティアで行き、手助けをする。
行けなければ、寄付をする。それもできなければ、祈ってあげる。
人としての尊い在り方です。
『幸せのありか』(渡辺和子 PHP文庫)という本の中に、
こんなエピソードが載っていました。
渡辺さんはもう亡くなってしまいましたが、
ノートルダム清心学園の理事長などを務めた、シスターです。
マザー・テレサが、渡辺さんが勤めていた大学に来られたときです。
お話に感動した学生たちが奉仕団を結成して、マザーを手伝いたいと尋ねると、
こう言われたのです。
「その気持ちは嬉しいが、わざわざカルカッタまで来なくていい。
まず、あなたたちの"周辺のカルカッタ"で喜んで働く人になってください」と。
それから2年半経った3月中旬のこと。
ある卒業生から手紙を受け取ったのです。
その人は、前年の3月に大学を卒業して、
県内のある高校で国語の教師をしていた人でした。
自分が教師になって初めて送り出した女子生徒の一人が
式後にこう言ったというのです。
「先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」
そう言い置いて校門を出ていった生徒の姿を見ながら彼女はこう思ったのです。
「私がしたことといえば、授業中に目が合った時、
あの子に努めてほほえんだことかもしれない」。
その女性徒は、学業にも家庭的にも問題があって、
他の教師には"お荷物"と考えられていたそうです。
他の教師たちに無視されていた生徒に、
彼女は目を合わせることを恐れずほほえみかけ、
その生徒の存在を認め、見捨てなかったのです。
渡辺さんが嬉しかったのは、
かつてカルカッタに奉仕に行きたいと申し出た1人だったのです。
彼女はマザー・テレサとの約束を守って、
自分が教えるクラスの中の"カルカッタ"で立派に働いてくれたのです。
そう書いていました。
無視されていた生徒に、ただほほえみを返す。
この女性の姿に人としての尊さを感じます。
「人として成熟していく」ことは難しいことですが、
人生を豊かにするためには大切なことだと思います。
まだ話したりないことばかりですが、このテーマは、ここで終わりにします。
