ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

愛が輝くとき 2 「愛の深さ」

先月は泥水の世にあって愛を発見することが、自分という美しい花を咲かせる方法である、というお話を致しました。続きのお話をいたします。

愛はどこにあるのか

今月はある投書からお話を始めていきたいと思います。17才の女性の方のものです。

私は、高校2年生の時に不登校になってしまった。他人の評価が気になり、他人と自分を比べて自分自身を見失っていた。毎日、学校へ行けない自分を責め「死にたい」とさえ思っていた。学校へも普通に行けない私は「生きている価値がない」と思っていた。

そんな時、末期がんの祖父の家に行くようになった。はじめは単なる時間つぶし程度の気持ちだった。しかし、手が震えながらも必死に食事をする姿や、車いすで散歩すると喜んでくれる姿を見て、そんな気持ちはなくなった。痴ほうであまり言葉を話さなくなった祖父が時にかけてくれる「ありがとう」の言葉はうれしかった。祖父のやさしい笑顔がうれしかった。涙が出た。

そんな祖父が今年の10月に亡くなった。最後に会ったのは死の1週間前だった。
帰り際に握手をした。祖父の手は温かかった。

 私は祖父の死を通して今までの自分が恥ずかしくなった。「死にたい」とか「生きている価値がない」と思っていた自分に腹が立った。

祖父は末期がんと闘いながら必死に生きぬいた。

これから先、もっとつらく、苦しいことがあるかもしれない。けれど私は、自分の命を生きぬこうと思っている。絶対に生きぬこうと思っている。

(朝日新聞平成13年12月26日付)

この投書のなかには愛という言葉は一つもでてきませんが、祖父のお孫さんに対する「ありがとう」の言葉が「愛の言葉」です。祖父の優しい笑顔が「愛の表情」です。また祖父の手の温もりは「愛の温もり」と同じものです。車いすで散歩をすると喜んでくれる姿に、「愛の姿」が感じられます。そしてその愛を見つめるなかに、お孫さんは生きる勇気を芽生えさせました。「自分の命を生きぬこうと思う」と決意しています。

この愛を、お孫さんはおじいちゃんから感じ取りました。どこで感じ取ったのでしょう。「心」です。それは心の内に愛があるからです。だから、まわりの愛を受け取ることができ、その愛を素晴らしいと思えるのです。

愛は見えないけれど、愛は私たちの心の内にあって、自分が愛の人となろう、愛に生きようと思えば、いつも愛は心の内から風のごとく吹き出してくるのです。そしてその愛が、自らを価値ある人間し、さらには人を幸せにしていくのです。

これが愛の一つの姿です。

ではなぜ、愛が私たちの心のなかにすでにあるのでしょう。それは私たちが「愛」から分かれてきた存在であるからです。

この愛を別な表現でいえば、神仏であるといえます。仏教ではすべてに仏性(ぶっしょう)が宿っているといわれています。仏性とは仏の性質ですから、みな仏と同じ性質を持って生まれてきた、となります。それを別な表現でいえば、仏から分かれてきた存在が、私であるということです。その仏を愛で表して、私たちは愛から分かれてきたがゆえに、すでに心の中に愛が存在しているといえるのです。

ですから、おじいちゃんのありがとうの言葉に、自分の心の中にある愛が共鳴し、嬉しさを思うのです。おじいちゃんの優しい笑顔を感じ取る愛の思いが心の中にあるからこそ、その表情を見て嬉しく思えるのです。

愛において自他は一つ

今お孫さんがおじいちゃんを見て愛を感じ取ったお話をしましたが、次の詩は逆に、おじいちゃんがお孫さんを見て愛に目覚めたというものです。
81才の男性の方の詩です。

  仏さま

二歳三ヶ月の孫が
桃を食べている
おいしいときくと
おいちいと言います
そして
おじいちゃんと言って
桃を差し出します
孫の顔が仏さまに見え
食べかけの桃を
いただきます

ああ 私も何か
人にしてあげたい
さっき自転車置き場で
倒れていた自転車を
横目で見てきたけれど
あれを起こしてくれば
よかったな

(産経新聞平成13年12月13日付)

孫がおじいちゃんに桃を差し出しました、とあります。すでに2歳で「してあげたい」という愛の思いがあるのですね。そしてそれを受けて、「私も何か人にしてあげたい」と、おじいちゃんが思いました。お孫さんとおじいちゃんが愛において一つになっている様子が伺えます。孫とおじいちゃんの関係や、年を取っているとか取っていないとかという関係を超えた、何か尊いもので一つになっている感じが、この詩を読んで感じられるのです。その尊い一つのものとは「愛」であるわけです。

私は坊さんですから、髪を剃っています。髪をのばしている人は髪型もみな違います。鼻の形や高さ、口の形や大きさ、身長や体重もみな違います。着ているもの違います。姿かたちは違いますが、愛の思いを大切にしている人と人とは、手を取り合い助け合うことができます。

ずいぶん昔になりますが、ある家の四十九日の法事がありました。その家のご主人は10時から始まるように、お願いしたというのです。私は10時半と思い込んでいたので、その時間に間に合うように車で出かけました。
私が出てからお寺に電話が来たようで、
「和尚さん、出られましたでしょうか。今日は10時にお願いしてあったのですが・・・」
家内が「予定表には10時半と書いてありますので、10時半と思い込んで行ったようですが、大変すみませんでした。もう着くころだと思います」

私はそのことを知らないで、法事のお宅に着きました。もう10時20分ころになっています。「法愛」をお読みのみなさんでしたら、この時、その和尚に対してどのような振る舞いをするでしょうか。

私はそのお宅に着いて「ああ、間に合った。あと10分ある」と言ったのです。その家の主人はにっこり笑って、「そうですね」と言い、おいしいお茶を入れてくれました。
私は10時からというのは知りません。10時半にお経をあげて、後のお食事を頂いてお寺に帰ってきました。帰ってきて初めて家内に、10時の開式ということを教えられました。

そのとき「ああ、私は守られているなあ、支えられているなあ」と深く思ったのです。これは私にとって、忘れられない出来事になりました。その家の方々は一言も文句を言わずに、ほがらかに私を向かい入れてくれました。すごい人たちですよね。これが愛の力だと思います。そう思うと、してくださったことが尊くて思え、恩人のように思えてくるのです。

愛において「自分と相手は一つになれる。自他は別のものでない」ということをしっかり悟ることはできませんが、「愛があれば、互いが助け合い幸せになれるのだなあ」ということを学んだ出来事でした。

私たちは、愛ゆえに互いが結び付き合うことができると思います。難しく言えば、「自他を一つにする力が愛にはある」といえます。