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法話

愛が輝くとき 3 「本物の愛と偽物の愛」

愛されたいという思い

私たちはみな「愛されたい」という思いがあります。

たとえば子どもはみな、お母さんやお父さんに愛されたいという思いが強いものです。今、親学などという言葉が出てきて、子どもを育てる基本的なことも知らず、親になっている人が多いようです。しかし、子どもはどんな親でも愛してもらいたいという思いが強いのです。

池川明というお医師さんが『生まれる前からの子育て』(学陽書房)という本を書いています。これは0歳か6歳までの子どもたちが通う保育園の園児の両親に対して行なわれた、子どもたちが語る、おなかの中にいたときの記憶と、生まれたときの記憶についてのアンケートをもとに書かれた本です。

その本の中に、子どもたちが記憶していたことが、数多く載っています。

「お父さんとお母さんに会いたかったから、生まれてきたの」(2歳、女の子)

「ぼくは『お母さん大好き』って言うために、生まれてきたんだよ」(5歳、男の子)

「かわいがられるために、生まれてきたの。ママは、かわいがってくれると思ったから」(4歳、男の子)

「空の上にはこんな小さな子どもがいっぱいいて、これくらいの大きな人がおせわをしてくれて、小さい子たちは空の上から見てて、あの家にするっておりていくんだ。で、ぼくもおかあさんのいるところに決めたんだ」(3歳、男の子)

これはほんの一例ですが、この子どもたちの言葉から、「子どもは親を選び、愛されたいという思いで生まれてくる」ことが分かります。
親に愛されて、愛を子どものときいっぱい受け、大人になってその愛を、今度は自分の家族や多くの人たちに分けてあげられるようにと育っていくのが理想です。

愛はしてもらうものではない

子どものころは、愛を受けたいという思いは正当なものだと考えますが、それが大人になっても同じような思いでいると、偽物の愛になってしまいます。愛はしてもらうものだ、という考えがどうも間違っているようです。誰しもがしてもらう一方では、奪い合いが始まって、喧嘩になり、そこは地獄と化していくでしょう。

仏教には施与(せよ)という教えがあって、こちらからまず、施し与えることが優れていると考えます。これは布施の精神ですが、こちらから先に与えることによって、人は幸せになっていけるという教えで、「私はこんなに苦労したから、晩年はしてもらうことがあたりまえだ」、という考えでなく、「苦労は自らを高める砥石で、自分もずいぶん磨かれた。その力を少しでもまわりの幸せのために使っていこう」と考えることが、本物の愛を体現していく生き方です。

前者は「してほしい」という思いで心がいっぱいになり、奪う気持ちが強くなりますので、することなすことが偽物の愛になってしまうのです。

障害のある方も、それを乗り越えて立派に生きている方もたくさんいらっしゃいます。たまたまあるところで、障害のある方が役員になりました。そのためにある作業に出なくてはならなくなったのです。その方は重役(おもやく)の人のところへさっそく電話をしました。「身体障害者を使うのか! こんな身体の私を・・・」と。その重役の人は「そのような障害があれば、作業に出なくて結構ですよ。大変失礼致しました」と謝ったのです。

しかしこの場合、障害のある方が「してもらいたい、してもらって当然だ」という奪う思いが強すぎるのではないかと思われます。それは本当の愛ではありません。「こんな障害があっても、何か役に立つことができますか」と尋ねるのが、人としての筋で、
そこに本当の愛が芽生えてくるわけです。

愛は、こちらからしてあげるのが、愛の基本であり、本質なのです。

愛の人は必ず報われる

愛はこちらからしてあげるもの、であるといいました。しかし、してあげても、させていただいても報われないときもあります。そんなときには、必ず見えないところで心配し、応援してくださっている人がいる、と信じることです。それは家族かもしれません。友達かもしれない。会社の人であるかもしれません。あるいは神仏であるかもしれません。してあげても見返りを求めない、というのが聖人の考え方ですが、なかなかそこまで心を高めることは難しいものです。ですから、見えないところにいらっしゃる神仏が必ず、慈悲(愛)の手を差し伸べてくださっているのだ、と信じることです。心の内にそのような信心があれば、必ず神仏は答えてくれるものです。

仏教ではこのことを「感応道交」(かんのうどうこう)という言葉で教えています。

仏の思いを信じ感じようとすれば、その力に応じて仏が力を与えてくださり、仏と私が交わることができるというのです。交わるというのは、仏と自分が融合することですから、自らが仏の力を得て、また愛を施与する立場に立って、人生を生きていくことができるわけです。

偽物の愛は互いを隔て傷つけていきます。夫婦の間でも喧嘩が耐えなければ、愛を奪い合っていて、偽物の愛が往来しているのだと気がつかなくてはなりません。

本物の愛が日常に往来していれば、そこには神仏のエネルギーが交わり満ちて、必ず生きる勇気と希望と、そして喜びを得るはずです。それが愛の力なのです。