法話
四つの大切な気づき 3 「いのちの尊さ」
先月は「気づきの大切さ」ということで、日々の有り難い出来事に気づき、素直に「ありがとう」の言葉を添えることが大切であるというお話をいたしました。
さらに宗教的気づきとして四つあり、その最初に「人間に生まれてきたことの有り難さ」を深く感じることの大切さをお話し致しました。続きのお話です。
身体を支えるいのち
宗教的気づきの2番目は、「死すべき人びとのいのちあることは難しい」ということです。
みんないつかは死ななくてはなりません。不死を求めて冒険にでる話もありますが、不死は得られず、人はみな死んでいきます。 ですから、今いのちあるというのは有り難いことだと気づかなくてはならないわけです。
若くて健康でいるときには、いのちのあることは当たりまえと思い、いのちについて考えることはあまりありません。
でも、事故で死にそうな体験をしたり、病気をしたり、家族の人が亡くなっていくような場に立たされると、いのちあることを改めて思い、感謝するものです。
このいのちには二つの面があると考えられます。
一つは身体(肉体)を支える「いのち」といえましょう。このいのちは、この世に生まれることで親からいただいたものです。身体を生かし働かせているいのちです。
身体は親からいただいたもので、お母さんのおかげでこの世に生まれ出てきました。最初は赤ちゃんで、親の世話を受けながらしだいに大きくなっていきます。
その後、保育園(幼稚園)、小学校、中学校などへ通うようになり、20才で大人になります。社会にでて働き、結婚をして子どもをもうける人もいます。 そして定年を迎え、老人の仲間入りをして、やがて死を迎えるわけです。そんな平均寿命、80年ほどの短いいのちです。
この身体にとって大切なのは、健康です。ですから健康に留意し、長くこの身体といういのちを上手に使っていくことが大事になります。
なかには小児ガンを患ったり、障害をもって生まれてきたり、事故や不治の病で亡くなっていく人もおられます。 そのような人と比べると、今の自分の健康を有り難く思います。
できれば、みんな健康で、障害も病気も事故もなく楽しく暮らせたら、こんな幸せなことはありませんが、 世の中はそうできてはいません。神仏にしか分からない、深い意味がそこにあるのでしょう。
未熟な私でも言えることは、与えられたこの身体で、最後まで自分を大切に生き切る姿勢が必要ではないかと思います。
健常者であっても、できることならばいつまでも健康で、逝くときにはコロリと逝きたいものです。 ピンピンコロリという言葉がありますが、いつまでもピンピンしていて逝くときにはコロリと死ぬわけです。
なかには死にたくても死ねず、家族にも面倒を看てもらえず、寂しく独りで老人ホームで亡くなっていく人もおられます。
認知症にでもなれば何が何だか分からなくなり、自分の娘にでさえ、「死んでしまえ」という暴言を吐いてしまう人もいるようです。
そうならないためにも、日頃から自分の身体を大事に使っていかなくてはなりません。
身体があるゆえに、美味しいものが食べられたり、美しい景色を見ることができたり、音楽を聴いたり、旅行をしたり、またいろいろなことが学べ、楽しい生活を送ることができます。
ですから健康をあたりまえと思わず、この身体といういのちのおかげで生かさせていただいているのだと感謝の思いを持つことです。
食事に気をつけ、適度な運動に心がけ、ストレスをあまり持たないよう注意しながら、この身体を上手に使っていくことが大事になるわけです。
精神的いのち
身体といういのちのほかに、もう一つのいのちがあります。「精神的いのち」ともいうべきものです。心、魂、霊などで言い表せるものです。
さて問題なのは、いのちはこの世限りのものなのか、永遠のものなのかということです。身体は、勿論この世限りのものです。死が来ればこの身体は朽ちてなくなってしまいます。 火葬すればお骨になってしまい、永遠のものではありません。
唯物論でいえば、私たちはこの世限りで、死んだらそれでおしまい、となります。
精神的には悲しいときにでる涙、辛いときの涙、嬉しいときにでる涙、感動したときにでる涙、大切にされていると分かったときの涙、 正しい生き方や愛深い生き方を知ったときにでる涙、自分の至らなさを知ったときにでる涙、さらには守られ支えられていることを知ったときの涙、さまざまです。
ある新聞(読売 H17.07.29)に、こんな質問がありました。それにある作家が答えているのですが、その質問を載せてみましょう。
自分がいつか死ぬというのがこわいです。
人は年を取っていつか死ぬと頭ではわかっています。
しかし、今ある気持ちや心、魂がなくなるということがどうしてもわかりません。
何か宗教を信じているわけでもなく、
天国のような死後の世界があるとは思いません。
霊は存在するような気持ちがします。私には見えないだけで。
実家には寝たきりの老人がいます。
死と隣り合わせになった時、どんな気持ちになるのだろうかと思います。
年を重ね、高齢になれば、
「もう十分に生きたから思い残すことはない」という気持ちになるかな、と思います。
変な相談かもしれませんが、
死後について心のなかを整理しておきたいです。
そうしないとこわいだけで終わってしまいます。
安心して死ねない感じがします。
死がこわいというのは、私たちが簡単に死ねないようにできていることと、死んだ後の世界がどうなっているのか分からないからです。
私たちが身体のいのちだけであったならば、死後はないのですから、死を迎えたときには、灰や土になって終わりです。
そのかわり、善く生きても悪いことをして生きても、みな消えてなくなってしまいますから、自分が楽しくおかしく、思うように生きればよいことになります。
でも宗教的には、この世限りで終わりということはありません。 分かりやすくいえば、前述した「精神的いのち、心が永遠に存在する」となります。 そして死後の世界があって、それも天上の世界と地獄の世界に分かれるという考え方です。
お釈迦様の教えのなかに、
悪人は地獄におもむき、善人は天上に生まれる。
(『真理のことば感興のことば』中村元訳 岩波文庫
というものがあります。
人は死んでもなくならず、生前の心がけで、死後におもむく世界が違うと説いています。非常に簡単でシンプルな教えです。宗教的には心は永遠なのです。
この考えを信じられるか信じられないかですが、「信じるから、ある」「信じないから、ない」という世界ではありません。信じても信じなくてもある世界なのです。
もし「信じないから、ない」であれば、お釈迦様が嘘をついていることになります。
そんなことがあろうはずはありません。
であるならば、永遠のいのちを信じて、この世の生きる意義と、あの世の世界がどうなっているかを学ぶことが大切になるのです。
この永遠のいのちである心は、私の身体に入って、この世で修行をしています。
身体が壊れれば、その身体から心が抜け出して、生前どのように生きたかによって、あの世の行く世界が決るのです。
善をしっかり積んで死を迎えれば、思い残すことのない一生を終えるでしょうし、
悪を犯して反省もしない生き方で死を迎えれば、大変なことになるのです。
心という永遠のいのちがあるといっても、この世で実際に働き活躍しているのは、
この身体です。身体がなくなってしまえば、心もこの世での学びができなくなります。
この世は時代も環境も教育も常に変化して昔とはずいぶん違っていますから、みな初めての体験をしているので、心も多くの学びが得られるのです。
ですから、どちらのいのちも、有り難く思い、健康に留意して多くを学び、心を養って、いい人生を送ることが大切になるのです。
天国もあり地獄もある。永遠のいのちもある。その永遠のいのちを心とも魂とも霊ともいう。大まかなとらえ方ですが、そう信じて生きたほうが、よい人生を送ることができるでしょう。
そんないのちを無駄にせず、今与えられているいのちを大切に生き切る。これほど有り難いことはないのだ、という思いを是非生きているうちに体験することが必要です。
蛇足になりますが、この3月2日(平成20年)に女優の藤田弓子さんが伊那の文化会館へ講演にこられました。 楽しいお話を拝聴させていただいたのですが、そのなかでお母さんのお話ができました。
ちょうど藤田さんが共演している丹波哲郎さんに、「夫は若いころ亡くなって、私がいま亡くなったらおばあちゃんで、あの世にいっても釣り合いがとれないけれど、 あの世はどうなっているか聞いてきてくれ」と頼まれたのです。
藤田さんはそこでおそるおそる丹波さんにそのことを聞いてみると、丹波さんは、
「そんなことは心配ない。あの世に行けば若返ってピッカピッカ!」といったそうです。
それを母にいうと安心したようで、その後2年ほどして亡くなったようです。
藤田さんは「私もそう思っていれば、死もそんなに悪くないわ」とおっしゃっていました。仏壇には、お父さんの若いころの写真と、お母さんの若いころのきれいな写真を一緒にして飾ってあるとのことです。