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法話

光の世界 2 「光のような生き方」

先月は「光のような生き方」で、心の中に光と影の部分があり、心に光をあてると、ものごとの善し悪しが見えてくるということでした。続きのお話を致します。

信じるという光

良心は光で、心のなかを明るく照らし、何が間違いで何がよいことなのかを知る力です。良心ばかりでなく光にもいろいろあって、「信じる」ということも光です。この信じるには、世を照らし、自らの心をも照らす力を持っているのです。

『精いっぱい生きよう そして あの世も信じよう』という本を出したときに、幾つかの新聞社から取材を受けたのですが、そのなかで吉田さん(仮名)という人と話していると、やはりあの世は信じていないようで、その理由が「よく分からないからだ」ということでした。 あの世は一般の人には見えない世界ですから、分からないのは当然で、信じるか信じないかの世界になるでしょう。

吉田さんとの対話の中で私は「金庫のたとえ」の話をしました。その場で即興で作ったものです。

たとえばここに金庫があったとします。
金庫の中には1億円が入っています。

金庫の中身は開けないかぎり分からないのですが、
でも開けなくても信頼する人が1億円入っていると教えてくれ、
それを信じれば1億円の使い方を考え、
やがて金庫が開けば、そのお金を使うことができます。

もし、その金庫の中に1億円が入っていることを信じなければどうでしょう。
金庫に関心も持たないし、1億円も無駄になってしまいます。

同じように金庫の中に、「あの世がある」という真理が入っています。

それを開けなくても信頼する人が「あの世がある」と教えてくれ、
それを信じれば、「あの世があるならば、今どのような生き方をすればよいか」を考えることができます。
この場合、金庫が開いたときは、死を意味します。

もし、金庫の中に「あの世がある」という真理が入っているのを信じられなければ、今どのような生き方がよいのかもあまり考えようとしないでしょうし、この世の幸せのみを求めて生きることになるかもしれません。

どちらが賢い生き方かはお分かりになると思いますが、「あの世がある」と信じることで、どう生きることがよいことなのかを考えられるのは、尊いことです。

これは信じることで光がさしてきて、まわりが明るくなり、真理がよく見えるようになったといえます。

神仏を信じることも大切で、見えない存在がいつも見ていると信じていれば、悪いこともできなくなります。

仏教では人の心のうちには「仏心」(ぶっしん)があって、それゆえ尊い存在であると教えています。

それを信じて生きるかそうでないかでは、人生観に大きな違いが出てくるでしょうし、自分に仏の心があるならば、相手にも同じように仏の心があって、その心を互いに尊び生きていかなくてはならないと知るでしょう。

信じる反対が疑いです。大きな疑問をもち、その疑問を問いていくために努力することは大切ですが、ただ疑うばかりで物事を探究しようとしない姿勢は、光を消してしまう行為につながっていきます。

また相手を信頼できず疑い罵(ののし)っていれば、自らの心も汚れ、その汚れによって心に光がささなくなり、迷いの道に入っていきます。このこともよく知っていて、信じることの大切さを改めて自らに問うていくことが必要です。

信じる心を持つ人は、光多く、物事をしっかり見ることのできる人でもあるし、見えない世界をも知ることのできる力を持つようになります。

(つづく)