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法話

一輪の花のやさしさ 1 「平和への願い」

今月から数回にわたり、平和をテーマにし、題を「一輪の花のやさしさ」とつけてお話をしたいと思います。

平和を買いたい

今から7年ほど前になりますが、平成13年(2001)の9月11日に、アメリカのニューヨークの世界貿易センターに旅客機2台が突っ込み、数千人の人が犠牲になって亡くなっていきました。
テロということでしたが、そのとき平和という二文字が、どれほど大切なものであるかを思ったのです。

そこで、演題は「一輪の花のやさしさ」ですが、大きなテーマとして平和ということ考えてみたいと思います。

ここに一つの詩を取り上げてみます。この詩はある新聞(産経新聞)の一面に掲載されている「朝の詩」(平成13年12月10日付)のなかに出てきたものです。53才の女性の方の詩です。

買いたいもの

答えが
「ぬいぐるみ」なら
「チョコレート」なら
ほほえんで
うなずけるのに

カブールの少女は
「平和」と言った

「買いたいものは」と聞かれて
そう、答えたという

 産経新聞「朝の詩」平成13年12月10日

こんな詩です。

この詩を読んだとき思ったことは、私自身、今まで真剣に平和ということを考えたことがあっただろうかということでした。  

小さな女の子が「買いたいものは平和」といいました。子どもであっても、世界のなかにはこんな願いを持って生きている人がいるのだなあと、この方の詩を読んでしみじみと感じたのです。

人の心が殺伐としてきて、また平和という思いから遠くなってくると、その思いに従ったさまざまな事件がおきてきます。

ずいぶん前になりますが(平成15年2月)、品川駅で、あるホームレスの男性(30才)が同じホームレスの男性(38才)を線路に突き落とし、突き落とされた男性が電車に引かれて亡くなったという事件がありました。

原因は何であったのでしょう。

都会には「捨て本屋」という商売があって、読んで捨てられた本を回収し、その本を再び安いお金で売るというのです。売るためには捨てた本を集めなくてはなりません。
読んでしまった週刊誌が駅のホームにおいてあるのをときどき見かけることがありますが、このホームレスの人たちがその本を回収し、それを捨て本屋に売るわけです。

当日販売の週刊誌は50円で捨て本屋が買ってくれるそうで、それを捨て本屋は100円ほどでお客さんに売るわけです。1日の売り上げ2万円もあるときがあるそうで、なかなかの商売上手です。

捨てた本を回収するホームレスの人たちは、それぞれに縄張りがあって、たまたま自分の縄張りであった駅で、他のホームレスの男性が捨てた本を回収していたのです。それに腹を立てて、ホームに突き落としたわけです。

人が読んで捨てた週刊誌を欲しいと思い、2人の男性が喧嘩をして、1人の男性が死にました。人として悲しい事件です。

カブールの少女はチョコレートよりも平和が欲しいといいました。

カブールはアフガニスタンにあって、人びとは不安定な生活を強いられています。
最近カブールの西にあるバーミヤン遺跡で仏教寺院跡が出土したと聞きます。
このバーミアンで、旧政権であったタリバン(イスラム原理主義勢力)が仏石の頭を破壊したのは記憶に新しいところです。

また今年(平成20年)の8月、ボランティアで働いていた伊藤和也(31才)さんが、タリバンに拉致され殺されたという事件がありました。カブールの東にあるジャララバード近郊でのことです。
アフガニスタンの国のために働いている人を殺すのですから、常識では考えられないものがあります。最近はタリバンの勢力が盛り返していて、さらに不安定な社会になっています。

またこの国は日本と比べればずいぶん貧しいでしょう。そんな貧しさのなかで平和という尊いものを願っている少女がいる。その一方で、豊かな社会にあって、捨てた本が欲しいといって言い争いをする人もいるわけです。

小さな願いが叶(かな)うとき

できれば、みんなが平和を願い、それに向かって努力をすることがよいのですが、まだ世界の人びとは、そうなっていないようです。

この「買いたいもの」という詩が掲載された翌年に、カブールについての記事がある新聞(朝日新聞平成14年9月5日付)に載っていて、そこには実ったブドウ畑のなかで笑顔の少女が写っていました。この少女と詩の中に出てくる少女は別の人ですが、なぜか同一人物のように感じたのです。

このブドウ畑にブドウが実るには大きな困難がありました。このブドウ畑はカブールの北のシュマリ平原にあります。
でも、1996年から5年ほどタリバンに占拠されました。タリバンはそこにいた土地の人を追い出すために、収入源であったブドウ栽培を禁止したのです。そればかりか、ブドウの木を切り倒し、住民を追い出して、人びとは難民になりました。

タリバンが倒れて、この地に戻ってきた人びとは、ブドウ栽培を復活させます。でも4年続きの大干ばつがあったりして困難が続き、もとの「ブドウの里」に戻すには容易ではありませんでした。

そんななかで苦労が報われたのか、シュマリ平原の中心部にあるジャルチ村でブドウが青い小さな実をつけました。苦労を乗り越えてブドウが実り、そのブドウ畑で写されたのが、少女の写真だったのです。

私はこの少女の笑顔が一輪の花のように見えました。

その笑顔は海を越え、この極東の日本にまで伝えられ、その笑顔を見た人たちが、何らかの影響を受け、平和を考えています。

一度切り倒されたところに再びブドウの苗を植え、それを育て、実をならせました。そのブドウの生命力の強さに感動します。それと同じように、小さな平和の願いも、努力を惜しまず願い続けていけば大きな力になっていくと思うのです。

ガンジーの精神

願いを持ち続けるということは、極めて難しいことですが、それでも願い続けることの大切さを教えてくれる言葉があります。

インドを独立に導いたガンジーという人がいます。以前「ガンジー」という映画があって、見に行ったことがありました。ガンジーによく似た俳優さんでしたが、ガンジーの不屈の精神がよく著されていた映画であったと思います。

ガンジーの言葉の中に、

地上のあらゆる生き物を憎むことができなくなるように、
わたしは、自分をしむけてきた。

長い、祈りにみちた鍛錬によって、わたしは、この40年以上のあいだ、
いかなる人間をも憎むのをやめてしまった。これは、たいへんな仕事だ。

しかしわたしは、いまもつつましい気持ちで、それをするのだ。

 『ガンジー』マイケル・ニコルソン著 偕成社

私も人を憎んだり、恨んだり、そしったり、あるいは悪口を言ってしまうときがあります。その心をそのままにしておけば、また憎んだり、恨んだりとそんな日々が続いていきます。

ホームレスの男性が「俺の縄張りから雑誌を取ったな!」といって、相手を憎んで殺してしまいました。

ガンジーの言葉の中には、「40年以上の間、いかなる人間も憎むのをやめてしまった」とあります。その思いの根底には、「長い祈りにみちた鍛錬があった」のです。そう自分に仕向けていく努力がなければ、人は平和からますます遠ざかっていくでしょう。

願いを持ち続けることには鍛錬がいるのです。さらには祈りにみちた鍛錬とガンジーはいっています。
「自分一人の力でなく、神なるものと一つになって努力しているのだ」といっているのでしょう。ですから40年以上の長い間続いるのだと思います。

ガンジーは通称マハトマという名で呼ばれています。これは「偉大なる魂」という意味があるのだそうです。偉大なる魂を持つ人でも、そのためには長い鍛錬の日々があったのですね。こんな鍛錬の日々があったからこそ、マハトマと呼ばれるのでしょう。

純粋な願い

平和を願い続けるとそれが大きな力になっていくというお話し致しましたが、願いは辞書などでは「望むとか希望であり、それを神仏に求めたり、願ったりすること」と説明しています。

平和の願いであれば、それを心のなかにずっと念じていて、それを神仏に求めると、祈りに変わっていきます。

祈りには神仏と対面するという行為がありますから、願いも純粋なものであり、祈る人自身の心も清らかでなくてはなりません。

少し前になりますが、アメリカのスペースシャトル・コロンビアが爆発炎上して乗組員がみな死んでしまったという事件がありました。

そこに乗っていた一人に女性の方がおられました。その女性の名は、インド出身のカルパナ・チャウラさんでした。カルパナさんの夢は少女のころ星空に憧れ、火星に行きたいというものでした。その夢をずっと願いながら努力し、コロンビアに乗ることができたのです。でも死んでしまいました。悲しい事件です。

インドではそんなカルパナさんの夢を壊さないために、インド政府が打ち上げた気象衛星に「カルパナ1」という名を付けました(2002年9月)。

当時の首相が国会で「カルパナさんの宇宙と星空への夢がインドの若者を奮起させるだろう。彼女の火星へ行きたいという願いは実らなかったが、他の若者がいつか実現してくれる」と語りました。

一人の少女の夢(願い)がインドの国全体に広がっていって、今でも消えず、その夢を実現させようとしています。こんな話を聞くと、心が穏やかに静まっていく思いがします。

真なる願いは、多くの人に感動を与えるものです。また純粋な願いは、多くの人の心に受け継がれ、やがて遂げられていくものなのです。そう私は思います。

見えない世界への祈り

カルパナさんの願いを、インドの人びとが引き継ぎました。願いは、目に見える世界において、人と人との間で叶っていきます。

母が子の願いを聞いてあげる。恋人が互いの願いを聞き入れる。先生が生徒の願いを聞く。政治家が住民の願いを受け入れる。これは見える世界のことですが、さらには見えない世界のことに、この願いは広がっていきます。

願いが祈りに変わるとき、聞き入れてくださるのが神仏です。神仏は見えない世界の方々ですが、見えないけれども神仏が確かに存在するからこそ、聞き入れてくださるわけです。ですから、見えない世界の存在を信じていなければ、祈りはその力を失うといってもいいでしょう。

私たちの小さな願いであっても、それを一心に清らかな思いで神仏に祈ったときに、必ず見えない世界にいる尊い方々が、この願いを聞き入れて、力強い手助けをしてくださるということを信じることが大切です。

見えない世界を信じるというのは難しいことですが、祈りには信じるという世界が必要なのです。

お釈迦様はすでに2500年以上も前に亡くなられてこの世にはいません。どこにいるのでしょう。無に帰してしまえば、そこに祈りは成立しません。

道元の著した『正法眼蔵』の「行仏威儀」(ぎょうぶついぎ)[玉城康四郎訳・大蔵出版]のなかに次のようなことが書かれています。玉城氏の現代語訳です。

よくよく知るがよい。

人間としての釈迦は、この世を去って涅槃に入り、教化を施されたが、
天界に上った釈迦は、今もおわしまして諸天を教化しておられるのである。
仏法を学ぶものは知っておくべきである。

人間としての釈迦は、さまざまな言葉があり、修行があり、説法があった。

しかしそれは、人間の一隅を照らす光であり、
一隅に現れた瑞祥(ずいしょう)であるにすぎない。

それに対して天界に上った釈迦は、その教化はいっそうたちまさって
千変万化のおもむきを示しているであろう。
それに気づかないことはおろかなことである。

 『正法眼蔵「行仏威儀」 玉城康四郎訳・大蔵出版』(文中の下線、筆者)

こう道元は書いています。

亡くなってしまったと思っていたお釈迦様は、今も天におられて教えを説かれているといっています。

そのお釈迦様に祈れば、真理に出会うことができます。教えを聞くことができます。それは形を変え姿を変えて、この世の見える世界で導きをくださるのです。

病気になれば、病気が治りますようにと、お薬師(やくし)様に祈ります。浄土へ逝きたければ、阿弥陀(あみだ)様に祈ります。困難があれば、観音様に祈って救いを求めます。
信じて祈れば、必ず手を垂れて助けてくれるのが仏様たちです。

平和への願いをみんなが心に持ち、見えない世界の尊い存在に願い祈れば、必ず聞き届けてくださるはずです。

小さな小さな私たちの祈りであっても、それが純粋な思いから出ているのであれば、神仏は決して見捨てることはありません。それが見えない世界の真実なのです。

(つづく)