ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

一輪の花のやさしさ 2 「仏教の安らぎ」

先月は「平和への願い」として、小さな力でも平和を祈れば必ずその願いがいつかは叶えられていくというお話を致しました。今月は、仏教の平和、安らぎについてお話を致します。

私にとっての平和

平和といえば、戦争がなくて、みんなが安心して暮らせることができるということ、幸せで安穏な日々を送ることができることだと思われます。
これは一般的にはいえることですが、もっと具体的にそれぞれ個人にとっての平和もあるでしょう。

先月アフガニスタンのカブールの少女の「平和を買いたい」というお話を致しましたが、その1年後にある新聞(朝日新聞)に、「あなたにとっての平和とは」というテーマでアンケートをした結果が記載されていました。

先月お話した2人の子とは違う、カブールに住む12才の少女に聞いています。アフガニスタンの識字率は非常に低いのですが、この子は字が書け読める少女です。
この子はあなたにとっての平和とはという質問に、「学校にいけること、友達に手紙を書けること」と答えています。
日本の15才の高校生の女の子に同じ質問をすると「大きなもめ事がなく、彼と一緒にいられること」という答えでした。

個人においても違いますが、おかれている状況によってもずいぶん具体的な平和への思いも違ってきます。

日本はいつでも学校にいけますし、いけるのに不登校といって学校にいけない子も出てきています。
貧しくて学校に行きたくてもいけない子がいる一方、豊かであっていつでも学校に行って勉強ができるのに、勉強が嫌いだったり、いじめなどを受けて学校に行けなくなってしまう子もいます。

ちなみに「国民の豊かさ」(2007年度版・社会経済生産本部)では、日本は世界の中で7番目に豊かな国だそうで、1番がルクセンブルク、アメリカが12位だそうです。豊かであるから学校に行け、携帯電話も持てるのです。

アフガニスタン以外でも、こんな国もあります。学校へ行くとお金がもらえるというのです。それはインドにあるムンバイ市内の公立の小中学校だそうです。
そこの約1,200校で今年(平成20年)の4月から、1日1ルピー(約2.5円)が支給されているそうです。  ただし女の子だけで、家が貧しいので特に女の子は家の手伝いをしなければならないのです。ですから学校へ行かせてもらえないわけです。

現在この1ルピーの恩恵にあずかっている女の子は20万人いるそうです。スラムに住む貧困層にとっては、貴重なお金になっているといいます。こんな国もあるのです。豊かさをあたりまえと思ってはいけないのですね。

話をもどしますが、37才のカブールで元教師をしていた女性に同じ質問をしました。この女性は「教師の職に戻って、4人の子と一緒に暮らしたい」と答えています。
このアンケートがなされた当時、女性は働いてはいけないというタリバンの政治姿勢のため、女性は自由に労働につけませんでした。ですから、こんな望みを持ったのでしょう。また4人の子どもと一緒に暮らしたいといっています。今平和が取り戻されて、四人の子どもと一緒に暮らしていることを祈ります。

豊かな日本では、多くの方々が子どもと一緒に暮らしています。暮らしているのですが、中には子どもを育てられなくて施設に預けたり、親が子どもを虐待し、逆に親を殺す子もいます。

この九月(平成二〇年)に母の子殺しの事件が、全国で八つも起こっています。自宅で産んだ子を川に投げ込んだり、首を絞めて殺したり、腹を踏みつけて殺したり、異常と思えるような事件が起こっています。また介護疲れで、親を虐待したり殺してしまったりする事件も増えています。

命の尊さや、家族と共に暮らせることが、どんなにありがたいことかに気づかない人もいるのかもしれません。ですから現在、家族の存在があらためて重要視されてきています。

豊かでも貧しくても苦しみはある

こうみてくると、貧しくても豊かであっても、苦しみはあるのです。豊かであれば物質的な苦しみは少なくなるでしょうが、新たな問題が出てきて、人は平和から遠ざかっていきます。

平和を考えると政治の力も大きく関わってきますが、その原点である心の持ち方も大切になってきます。母が子どもを殺す事件などは、どうみても心に問題があるように思えます。

現在は世界が非常に小さくなってきていて、地球の反対側で起こっていることが、数分で知らされる時代です。一つの国で金融が大変なことになれば、世界中の人が影響を受けます。ある国で毒入りの食べ物が作られれば、世界中がその犠牲になってしまいます。 そんな現在、世界の人が心を一つにして、平和へと前進できる考え方がとても必要なのだと思います。

私にとっての平和、あなたのとっての平和、日本にとっての平和、そして世界にとっての平和がほほえみを持って得られる日まで、まだ長い時がかかるでしょう。でも、私自身一人の人間として、そんな時代がくることを素直な思いで祈るのです。

安らぎという幸せ

人は誰しも平和を求め生きています。その方法として、政治や経済、科学の発展や医学、教育もあります。さらには宗教という心を問題にする教えによって平和の実現を目指しています。

ではお釈迦様は、どんな平和を説かれたのでしょう。

それは非常に静かで穏やかな心の安らぎを平和ととらえました。そんな心の安らぎが、また多くの人びとを平和へと誘っていくのです。

仏教で目指す心の安らぎを得るためには、まず、この世のさまざまな束縛から自由にならなくてはなりません。この世のさまざまな束縛から自由になって、その自由の結果得たものが平和であるというのです。

このことを難しく言えば、この自由が解脱(げだつ)で、平和が涅槃(ねはん)の境地といえます。これは難しい仏教理論なので、読み飛ばしていっていいのですが、この世のさまざまな束縛から離れるというのが、大切なところです。

貧しさを乗り越えて豊かになっていくのは大切なことですが、豊かに発展していく道中で、貧しくても豊かであっても、心が平安であることを尊んでいるのです。

そんなこの世の束縛から離れるための多くの方法を、お釈迦様は説かれました。
その一つに「知足」(ちそく)があります。

知足とは足るを知ることです。今与えられているものを感謝して受け取る心の持ち方でもありましょう。物や人のやさしさを奪い取って幸せになるのでなく、今自分に与えられているもの数えて、それに満足し幸せを得ていく方法ともいえます。

つつましい幸せ

このことをある投書から学んでみましょう。83才の女性の方で「骨折で知った本当の『幸せ』」という題です。

9月の下旬、板の間に転倒した。
左肩の脱臼、骨折という生まれて初めての大けがだ。

お医者さんに担ぎ込まれ、脱臼はすぐはめて頂いたが、
骨折の方は長くかかると言われた。6週間から8週間とのこと。

折れた腕を三角巾(きん)で首からつるし、
幅広のゴムベルトのようなもので、胴体をぐるぐる巻きに固定され、
夜もそのままで休まねばならない。
暑いし、息苦しいし、当初はお風呂にも入れない。

そのうち三角巾で吊るしたまま入浴ができるようになると、汗もも治った。
4、5週目になるとベルトもなくなり息がつけるようになった。やれやれだ。

7週目に入った今も、相変わらず苦しいのは寝ている間である。
一晩中仰向きか、右下の姿勢でいなければならない。
夜半にふと眼がさめて、ああ、左向きに寝たい、とつくづく思うことがある。
左向きに、などというのはなんともちっぽけな、つまらない願いだが、
人間の本当の幸せとは煮詰めれば、こんなつつましいものであったのだと、
けがのおかげで気がついた。

 朝日新聞 平成14年11月16日

この投書の女性は、左肩の骨折で、大切なものを発見しました。それは左向きに寝られないことがいかに不幸かということでした。
「左向きに寝たいと、つくづく思う」と書いています。「つまらない願いだが、本当の幸せとはつつましいものだ」とも言っています。
骨折して不自由な思いをしたので分かったことです。日頃元気であったときには、左向きでも右向きでも、また仰向けでも自由に休むことができました。
そのときには、このことが幸せなことであったとは気がつきませんでした。でも骨折をして初めて、自由に寝られることの幸せを感じたのです。

今与えられている幸せを感じることができれば、心は平安になっていきます。
耳の聞こえない少女に「あなたにとって悲しいことは何ですか」と聞くと「お母さんの声が聞こえないこと」という。 車椅子を強いられている青年に「いまあなたのしたいことは何ですか」と聞くと「砂浜を歩いてみたい」という。眼の見えない少女が手術で少し見えるようになった。 そのとき両手で水をくみながら「水って、こんなにきれいなんだ」と感動する。
そんな話を聞くと、与えられている私は、幸せなのだと思うのです。今与えられ、足りていることを知ることで、人は心に平安を取り戻していけるわけです。

そんな心の平安を仏教は求めてきました。

心を乱す原因を知る

物の豊かさが私たちの幸せを作っていくのは確かなことです。これは善です。でもこれを使うのが人で、物の多寡や良し悪しで人は心を乱していきます。
物ばかりでなく、病気になったり、老いたり、悲しい別れや、仕事の失敗、家庭のもめごと、人間関係なので心を乱し、幸せがポケットからこぼれ落ちていきます。

あたかも心は暴れ馬のように、さまざまなことで揺れ動き、心の中で争いごとをおこしているかのようです。この心の波を静めてどう穏やかに平安な思いを保って生きていけるかが、安らぎ(平和)に至るための方法でもあります。

実際に考えてみると、心のざわめきは幸せではありません。乱れた思いは幸せを運んできませんね。湖面が凪(な)いで、静かに空や森の木々を映している。そんな状態を心の中に持てたとき、人はより幸せを感じるのです。

時には湖面も波立つことがあります。石が投げられたり、風が吹いてきたり、船が通りすぎたり、魚が飛び跳ねたりして、湖面が波立つこともあるかもしれません。そんな湖面を見ていると、波立つ原因は、比較的よく分かります。

そのように自分という心の湖面が、いま何の原因で揺れているのかを発見することが大切になるのです。私の心が波立ち、いらいらしているのは、何の原因なのだろうかを知ることです。

湖面に石を投げたから波たっていると知るように、自分自身の心の波立ちも何が原因しているのかを知ることが大事になるわけです。その原因を取り除けば、心に安らぎを得られるのです。

さまざまな原因

それでは心を平和から遠ざけてしまう、さまざまな原因を箇条書きにしてみます。

  1. いろいろな事が、自分の思うようにならないから。
  2. 気がつかないうちに、自分の不幸を他人の責任にしたり、まわりの環境やふいに起きてきた出来事にしてしまっているから。
  3. 自分を守ろうとして、何らかの言い訳をして自分に甘くなっている。でも現実はそういかないから。
  4. 自分の運命を受け入れられなくて、いつまでも納得いかないと思っているから。
  5. 与えることより、してもらうことが幸せと思っているが、そうなっていないから。
  6. 苦しみから何らかの教訓を探そうとしないで、なぜ私ばかりこんな目に遇うのと考えてしまっているから。
  7. 自分の力で立とうとしないで、人の助けばかりを求めてしまうが、実は助けてもらえていないから。
  8. 努力するのはあまり好きでなく、楽をして生きたいと思っている。でも、そうなっていないから。
  9. 小さな幸せに気がつかず、大金が入ることや何かうまいことがあると幸せだと思っているから。
  10. 相手の悪いところばかりに目がいき、実はそんな人に守られていることに気がつかないから。

心を乱す原因は、挙げれば次から次へとでてきます。2番目の「自分の不幸を他の人の責任にしたり、まわりの環境や出来事にしてしまう」というのはよく言われることなので、文字上では分かるのですが、実際の生活のなかで起こってくると、つい自分の不幸をまわりの責任にしてしまうことがあると思います。

考えてみれば、自分の不幸を他の人の責任にするほど楽なことはありません。最初の平和の例からいえば、「学校へいけないのは国が悪い」といえば楽でしょう。でも、そこから得られるものは少なく、心の平和はありません。

逆に、「学校へ行きたくないのに、学校があるから」と思っていると、学校に火をつける行動に出たりします。

家庭の不和を妻や夫のせいにしたり、子どもやお年寄りのせいにする。そこからは平和はきません。まず自分の思いや行動にどんな過ちがあるかを探し、自分の思いを平らかにしていくことで家庭の平和を取り戻す。この方法のほうが、より安らぎのある家庭になっていくと思います。

まず心の波立ちの原因を突き止め、それを取り去って、心に安らぎを得ていく。これは仏教が求める平和です。

そして心の安らぎから、生きるさまざまな知恵が生まれてくるのです。

(つづく)