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法話

一輪の花のやさしさ 3 「積極的な安らぎ」

先月は「仏教の安らぎ」とし、心の平安がいかに大切であるかというお話をしました。続きのお話です。

幸せを得るための努力

心の平安(平和)を求めるために、自分の心をよく見つめ、何か間違った考え方や思いがないだろうかと反省し、そのマイナスの思いを発見して、 それを取り除いていくことで、心に安らぎを求めていく。これが一つの仏教的な安らぎを得る方法でした。

そのために、自分を見つめる正しい判断基準がいります。それが教えです。ですから教えを聞くことが大事になりますし、教えが綴(つづ)られている本を読んだりすることも大切でしょう。その教えを物差しとして、自分の誤りを修正していくわけです。

それが自分にとってまだ難しければ、静かな時を過ごす努力をしたり、自然に触れて、落ち着いた時間をとることです。

今であるならば、澄んだ空を眺めては暖かな陽の光に触れ幸せを思うことです。「陽の光の、なんと暖かくありがたいことであるか」と静かに思えば、しだいに心が落ち着いてくるはずです。

落ち着いた時間をとりながら、祈りを行ってもいいでしょう。祈りは、心の素直さが基本です。素直な思いで、「大いなる存在(神仏)よ、私に心の安らぎをお与えください」と祈るのです。

そうすると、必ず、心に平和が取り戻され、幸せな気持ちになります。そんな体験を積んでいくと、祈りも自然にできるようになるでしょう。

これらの方法は、自分の内を見て、波立つ自分を穏やかにしていく方法です。

与えて安らぎを得る

心の波を静めて平安を得る方法とは逆に、積極的に善を押し進めていくことで、心に安らぎを得るという方法もあります。

善を押し進めるというのは、他の人の幸せのために自分のできること行うということです。他の人のために尽くせるというのは、相手が幸せになれるばかりでなく、自分も幸せになれるのです。

「愛を与えられた人」が幸せになって行くのは勿論ですが、「愛を与えた人」も幸せになっていけます。「慈しみの思いを与えられた人」が幸せになれる一方で、「慈しみを与えた人」も幸せの思いに包まれます。

やさしくしてくれれば嬉しいのですが、その喜びを見て、やさしさを与えた人も幸せを思うものなのです。これは積極的に善を行っていって、心の平安を得るための方法なのです。

たとえば10個の金貨があるとします。その10個の金貨を自分だけのために使った場合、10個の幸せにしかなりません。でも、10個のうち、4個の金貨を人のために使った場合、不思議なことに、その4個が倍の幸せを運んでくるのです。

具体的に言えば、千円があって、それでケーキ4個を買ったとします。それを一人で食べれば、4回分の幸せを味わうことは確かです。
このとき、もし4人家族で4人で4個のケーキを1つずつ分け合って食べたらどうでしょう。
買った本人はケーキ1個しか食べられませんから、1回分の幸せしかえられません。でも、どうでしょう。みんなが笑顔で食べて、「あなたが買ってきてくれたこのケーキ、おしかった。ありがとう」といわれれば、4個のケーキを一人で食べるよりも、もっとたくさんの幸せを得ることができます。

 それが自分の心の安らぎに通じていくのです。

人を自分自身として愛すること

ここに必要なのが、慈しみの思いを分け与えてあげることができるかどうかという、強い意志です。さらには、自分の我欲をおさえ、人の幸せのために生きたいという考えを持てるかどうかです。

人のために生きるという心を培うためには、相手を思いやる心を自分の心の内に育てていかなくてはなりません。これはとても難しいことですが、少しずつ、自分の心をやさしさ色に染めていく努力が必要です。

10月号でガンジーの言葉を引用しましたが、もう一つここで挙げてみます。

真理というものの、宇宙的な、あたりにみなぎる力を、まともに見るためには、
どんなつまらない生きものも、自分自身として愛することができなくてはならない。

 『ガンジー』マイケル・ニコルソン著 偕成社

少し難しい言葉になっていますが、ここでのテーマにそって簡単に言い換えれば、「幸せを見る(得る)ためには、相手を自分自身として愛せなくてはならない」となるかもしれません。

逆に、こうもいえましょう。「相手を自分自身として愛することができれば、幸せを見ることができる」です。真理を幸せと置き換えましたが、真理を見るものは幸せを見ることができるともいえます。

他の人の幸せを思うためには、相手を自分自身として愛することができる力を持たなくてはならないわけです。

身近なものを愛する学び

ガンジーは「どんなつまらない生きものも、自分自身として愛する」という言い方をしています。凡人には至ることのできない境地です。

そんな思いに近づくための学びとして、身近に家族があるわけです。家族であれば、自分自身として子どもや親を愛することが容易になります。

その愛の思いを他の人や多くの生きものにまで広げていくところに、悟りの深さや、人格の高さがあると思います。

次のような投書(読売新聞・H15.02.09)がありました。62才になれられる女性の方の投書です。

手作りの教科書

小学校4年の夏、私は疎開先から東京の下町の学校に転校した。
教科書がなかったので、両親が教科書集めに奔走(ほんそう)してくれたが、
どうしても国語の教科書だけがそろわなかった。

お隣から借りて持っていったときもあったが、
いつも甘えているわけにもいかない。

ある夜、ふと目が覚めたら、
父が風呂敷をかぶせた電灯の真下に小さなちゃぶ台を置き、
借りた教科書の内容を、わら半紙に書き写していた。

私は感激して涙がこぼれそうになった。

次の日は母だった。
途中で目が覚め、代わろうかと思ったが、
なぜか声がかけられなかった。

教科書は1ヶ月ほどで完成した。
おかげで2学期の国語の成績は大変よかった。

世界でただ一つしかない宝物、
五十年余りの間、捨てきれずに押し入れの奥にしまってある。

お父さんやお母さんが自分の時間を割(さ)いて、小学校の子どものために一生懸命教科書を写している様子が、よく書かれています。

子どものために一心に教科書を写すには、我が子を自分自身として愛する思いがなければなりません。親というものはそういうものですね。子どもから愛がどういうものであるかを学んでいるといってもいいかもしれません。

その愛の気持ちをさらに広げていき、人の幸せのために生きていくことが、心に安らぎと幸せを広げていくことになるのです。

小さなことにも愛を込める

自分のできることは限られています。スーパーマンのように奇蹟を起こして世界を救うようなことはできません。

まず心の波立ちの原因を突き止め、それを取り去って、心に安らぎを得ていく。これは仏教が求める平和です。

自分のできることは、ほんの小さなことかもしれません。でも、その小さなことにでも愛をそそいでいくことが大切であるとマザー・テレサも教えています。

60数億の人びとが、世界の幸せを祈れば、それが小さな一輪の花のような祈りでも、大きな力になるでしょう。

マザーはこういっています。

ヒンズー教徒の4歳の幼児は、
マザー・テレサが子どもたちに与える砂糖がなくて困っていることを知りました。

カルカッタで、お砂糖が手に入りにくかったことがあったのです。
この子どもは家に帰ると両親に
「3日の間、お砂糖を食べないで、マザー・テレサにあげる」といいました。

この子は自分が傷つくほど大きな愛で愛したのです。
そして、わたしに愛することを教えてくれました。
それはどれくらい与えるかでなく、
与えることにどれほど愛を込めるかということなのです。

 『マザー・テレサ26の愛の言葉』アグネス・チャン 主婦と生活社

教えられるマザー・テレサの言葉です。

この4歳の子はヒンズー教徒です。マザー・テレサはキリスト教のカソリック教会の人です。愛の思いは宗教をこえて、強い絆をつくるのです。

ガンジーのいう、「どんな人でも自分自身のように愛したならば、そこに真理が見える」の言葉通りで、愛で結ばれた人びとが、助け合っていく姿を見ることができます。

(つづく)