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法話

理解力を養う 1 理解力とは

これから数回にわたり「理解力を養う」というテーマで、お話をしたいと思います。

相手を理解するという意味

みなさんは人に意地悪をしたことがあるでしょうか。

もちろん意地悪はしてはいけないのですが、
誰しも人にそうしたいときがあるものです。

私自身も小さいころ友達に意地悪をしたり、意地悪をされたり、
またお坊さんになってからも、意地悪をされたこともあります。

意地悪ではないと思っていても、知らないうちに相手に意地悪に似たようなことをしてしまったこともあるかもしれません。

意地悪をされたときは、
「なぜ、あの人は私にこんな意地悪をするのだろう」と理解できなことがあります。

私自身、原因が分からなくて、ずいぶん悩んだこともありますし、
そんなときは「そんな人なんだなあ・・・」と思ったり、
「上手に、距離をおいて付き合っていけばいいのかなあ」などと考えてもみました。

私が修行時代に僧堂で、
「なぜこの人は私にこんなに辛く当るのか。意地悪をするのだろう」
と思った人がいました。

その人は現在お師家(しけ)様になって、修行僧を指導し、
とても立派な方になっています。

でも当時、私が失敗して怒られても、違う人が同じ失敗をしても怒らないのです。
何度も何度も叱られて、辛い時がありました。

ですからそのときいつも、
「私ばかりなぜ叱るのだろう。意地悪をするのだろう」と思っていたのです。

後になって、仲間の修行僧が私にこんなことを言ったのです。

その仲間の修行僧は、「あの人は、仁(じんといって僧堂での名前)さんは厳しくしたほうがのびるから、叱るのだ」と言うのです。

それを聞いて、私を叱る意味を理解し、
「そうだったのか、深い意味があったのだ」と思えるようになったのです。

理解をすると、相手の考えや思っていることが分かるのですから、
理解をするのは大切であるといえます。

自分の仕事を理解する

これは相手を理解するということですが、理解の仕方にもいろいろあります。

私はお坊さんをしていますが、
お坊さんの仕事をどう理解しているかで、その内容も変わってきます。

30代の前半までは、
「衣を着て、頭をそって、お経をあげて、法事にいく。
お葬式をしたり、お盆のお参りにいったり、これがお坊さんの仕事かなあ」
ぐらいに思っていました。

まあ、そう理解していたといえましょう。

実は心のなかで、
「そればかりが坊さんの仕事ではないのではないか。
お話をするのも大切な仕事の一つではないだろうか」
という思いもありました。

でも、でもです。

30くらいの未熟者が50代、60代の方にお話をするなどということは、
当時はとてもできないことだったのです。

本山の布教師になって、
29才で全国のさまざまなところへお話に出かけてはいきましたが、
それは本山からの命令で守られていて、どこのお寺さんも、それなりに扱ってくださったり、 1回きりのお話なので、未熟なお話でも、言い方は悪いのですが、
逃げて帰ってこられ、「あなたは、日ごろお話のような生き方をしているのですか」
という質問にも答える義務もなく、 自分の話に責任ももたなくていいようなところもあって、あんがい気楽だったのです。

でも地元に帰ってきて若い身で、
年配の方や、お年寄りの方にお話をするということは、
私にとっては非常におこがましいことでもあり、
みなさんが日ごろから私の生活を見ているので、
「護国寺の和尚さんは、話のわりには、日ごろの生活は乱れている。
言うことと、行うことが違う」
と言われるのも嫌だったので、お寺や地元ではお話をしませんでした。

もちろん、法事の席でも葬儀の席でもお話はしませんでした。

30代後半になって、何がお坊さんとしての仕事だろうと理解を深めていったとき、
お坊さんの大切な役目というのは、お釈迦様やお祖師様の教えを伝え、
その教えによってみんなが幸せになっていけることだと、思えるようになり、
そう思うようになってはじめて、
「目上の人にお話をするというのは、
おこがましいけれども、坊さんの仕事なんだ。勇気を持たなくては・・・」
と、思えるようになったのです。

そうして、法事とか葬儀の場、お寺での法話会、
あるいはテレホン法話や喫茶店法話などで、お話ができるようになりました。

この「法愛」も、仕事の一つです。

私と日ごろ触れ合う身近な人たちにお話をさせていただいて、
私の日ごろの生活も見ていただき、ともに学びながら、
心を養い高めていくことが大事なことなのだと、未熟ではありますが理解しています。

こうして考えてくると、理解するというのは、とても大切なことであるわけです。

みなさんもそれぞれの仕事を持っておられて、
その仕事をほんとうに理解して行っているのかを、自問自答し、
しっかり理解していれば、その仕事もさらに向上していくでしょう。

仕事ばかりでなく、妻としての役割、夫としての役割、
父母、おじいちゃん、おばあちゃんとしての役割などにもいえます。

キツネとツルの話から分かる理解力

イソップという物語があります。

イソップという方は、本来はアイソポスという名で、ギリシャの人です。
今から約2,600年ほど前の方ですが、動物を使って物語を作り、
そこに生きる教訓を示したわけです。

その中に、「キツネとツル」という話があります。簡単に物語をしてみましょう。

ある日、キツネがツルを食事に招きました。

テーブルの上には、
平たいお皿にスープが入っていました。

ツルは飲もうと思うのですが、
お皿に入っているスープは長いくちばしでは上手に飲めません。

一生懸命飲もうとして、
きれいな白い羽をずいぶん汚してしまいました。

そこでキツネが、にやりと笑いながら言いました。

「ツルさん、ずいぶん行儀が悪いですね」

それを聞いたツルは、
平たいお皿で食事を出したキツネを怒り、
泣きながら家に帰っていきました。

それからしばらくして、
今度はツルがキツネを食事に招待しました。

ツルの用意した器は、
細長い壺(つぼ)に入っていました。

キツネはお腹がすいていたので、
細長い壺から食べ物を取ろうとして必死です。

でも、あまりにも壺が細く長いので食べられません。

それを見てツルは言いました。

「おやキツネさん、どうしたのですか。ずいぶんお行儀が悪いですね」

そう言われて、
キツネは泣きながら家に帰っていきました。

これは人に意地悪をすると、同じように意地悪をされるから、
思いやりを深くして仲良くしなくてはいけないのですよ、という教訓であろうと思います。

理解するということからいえば、キツネさんはツルさんがお皿では食べられないことを知って意地悪をし、相手の困るところを見て笑い、 仕返しに、ツルさんはキツネさんが壺では食事ができないことを知っていて、意地悪をして壺で食事を出したということになります。

ツルさんという相手が困って大変な思いをしたことをキツネさんは本当に理解できていないし、 ツルさんは仕返しして気が晴れたではあろうけれど、キツネさんがどんなに傷ついたかを本当に理解できないでいる、といえます。

理解できなかったとき、大切なものを失う

この話は違った視点からも考えられます。

キツネさんは平たいお皿で食事をするのがあたりまえであると思っていた、
という考え方です。

ですから、どうしてツルさんはこのお皿で食事ができないのか理解できないわけです。
理解できないから、食べ方が上手じゃないと思うのです。

逆にツルさんは長い壺で食事をするのはあたりまであると日ごろから思っているので、 キツネさんを食事に呼んで、どうしてこの壺で食べられないのか理解できないとも受け止められます。

もしかして食事の中にはキツネさんへの仕返しに、辛(から)いものが入っていて、
食べると舌が焼けてしまうほどのもが入っていたとも考えられます。

どちらにしろ、お互いが、相手の食事のときに使う器を理解できなかったがゆえに
おこった誤解であるとも思われます。

このようなことは日ごろの生活のなかでも起こっています。

病気になった人を「頑張れ」と励ましたら、嫌な顔をされることがあります。
元気づける気持ちで言ったのに、「どうして・・」と思ってしまいます。

でも病気の人は
「今まで一生懸命頑張ってきたのに、これ以上、まだ頑張れというのか」
と内心、思っているわけです。

入院するほどの病気になったことのない人は、
病気になった人を「頑張れ」というのが一般的(あたりまえ)だと思っているので、
病気の人の思いをなかなか理解できないわけです。

平たいお皿がいいのか、細長い壺がいいのか、分からない状態に似ています。

夫婦の間でも、母や子、姑と嫁の関係にも、似たようなことがあって、
仲たがいする場合も多々あるのではないでしょうか。

自分は「この考え方があたりまえだ」と思っていて、相手を理解できない場合です。

そうではなくて、私の考えはあたりまえでないのだと悟ると、
さまざまな違った世界や考え方が見えてくるのです。

水道が止まったり、停電して電気が使えなかったり、電車が走らなくなったり、
飛行機が動かなかったり、あるいは、手足に怪我をしたときなど、
あたりまえでないことの有り難さに気づくことがあります。

6年ほど前のことになりますが、アメリカのニューヨークで停電がありました。
それも数時間という短い停電でなく、約2日ほどの長い停電でした。

そんな体験をし、多くの方が、さまざまなことに気づかれたのです。
いくつかのコメントを書いてみます。

ある若い女性は、

「小さな光さえ、ありがたく思えてきた」

36才の男性は、

「これまで停電があっても数分で復旧した。
こんなに長い間、光が無い生活は想像さえしなかった。
私たちはなんて弱い存在なのか。
私たちは便利すぎる生活に慣れ切っていた」

停電のためにエレベーターの中に閉じ込められた少女を救出した人は、

「みんなで助け合った。
競争に明け暮れ、他人のことに構わなかったニューヨークの人々が
少しずつだけ親切になった気がする」

阪神淡路大震災のときにも、一人の女性が

「多くを失ったけれど、そのかわり私は心を拾うことができた」

と、テレビのインタビューに答えていたのが、印象的に思いだされます。

あたりまえに慣れてしまうと、真実を理解できなかったり、感謝を忘れたり、
互いがぎくしゃくした関係になっていきます。

このように、さまざまなことで理解ができなくなると、
何か大切なものを失っていると気づかなくてはなりません。

自分の現在の恵まれた立場を理解できなくなれば、
感謝の思いが薄れ、横柄な生き方になったり、
他の人を傷つけてしまうような言葉や振る舞いが出てきてしまいます。

その意味で、理解できなくなると、大切なものを失うことになるし、 理解できないがゆえに、互いが喧嘩をしたり仲たがいをして、苦しむはめになるのです。

ここで投書を紹介します。
「期待はずれの一言」という題で、72才の男性の方です。

現役最後の日に贈られた花束は、
それまでのどの花束よりも美しく大きなものでした。

40年間勤続し、無事定年退職を迎えた日に
女子社員から、全職員の寄せ書きと一緒に贈られたものです。

その日一日、私は花束を持って、
お世話になった方々へあいさつ回りや送別会へと忙しく飛び回りました。

夜遅くなっての帰り道、
車中の人となって席に腰を下ろし一日の興奮から解放されたとき、
今日だけは周囲の人に聞かれたとしても恥ずかしくない、
妻への感謝の言葉を花束に向かってつぶやいていました。

帰宅して、寝ずに待っていた妻に感謝の意味を込めて花束を渡すと、
妻はそれに向かって一言。

「明日から、お父さんは一日中家にいるのですね」と。

ねぎらいの言葉を期待していたのに、この落差は一体何だったのでしょう。

読売新聞 平成15年5月25日付

こんな投書ですが、奥さんは自分のことを考えていて、
明日から夫と一緒にいなくてはならない窮屈(きゅうくつ)さを嘆いています。

旦那さんの今の思いを理解していません。
旦那さんも、こんなふうに思っているとは考えてもみなかったでしょう。

逆のこともあります。

旦那さんが定年を迎えて家に帰ってきたとき、
奥さんが一生懸命美味しいお料理を作って旦那さんをねぎらってあげたといいます。

でも、旦那さんから妻へ、
「おまえのおかげで、安心して仕事ができた。ありがとう」
という言葉がなかったことに、悲しくて涙してしまった奥さんもいました。

「どうして一言私にもありがとうって言ってくれないのですか」という思いです。

そういう思いは、ずっと消えないで心に残っていくようです。
理解してもらえない辛さは大きなものですね。

ここで分かることは、お互いのことが理解できないので、
いえ、理解しないのかもしれませんが、結果、夫婦の信頼を失ってしまったことです。

(つづく)