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法話

真なる富者とは 1 富の力

今月から「真なる富者―ふしゃ―とは」というテーマでお話をしてみたいと思います。

この世の富と心の富

富について考えていくと、昔、こんなことがあったのを思い返します。

私が高校のとき大学受験に失敗して、一年浪人生活を送ったことがありました。

そのころ名古屋で兄が仕事をしていたので、兄のところに厄介になれると思い、
名古屋にある河合塾へいくことに決めたのです。

当時、塾へ入る入学金が、確か18万円だったと思います。
今から40年近く前になりますので、結構な金額です。

1年余分に、私のために親が学費を払わなくてはいけないと思うと申し訳なく、
入学金ぐらいは自分でと思って、バイトに出ました。

土木の関係の仕事で、そこに働きにきている人もみんないい人でしたし、
高校生のバイト料でなく、大人のバイト料を払ってくれ、今でも有り難く思っています。

その甲斐あって1ヶ月と少しで、18万円ほどたまりました。
このときお金とは有り難いものだなあ、ということをしみじみ感じました。

そのお金を入学金にあて、名古屋に行ったのです。

一緒に働いている人もいい人で、ダンプに乗せてもらったときに、
「あんた、大学卒業したら、トラックの運転をしてみないか。この仕事も面白いぞ」とか
「今日は一生懸命働いたから、一杯やっていこうか」とか言われて、
「あったかい人たちだなあ」と思ったものです。

あるとき仕事の主役(おもやく)をしていた人が、
「あそこのブロックをこちらに移動してくれ」というので、「はい」と返事をして、
たくさんのブロックを言われた場所に移したことがありました。

そうすると主役の人が言うのです。
「あんたは、神様のような人だ」

内心「どうしてだろう」と思っていると、
「何も言われないのに、乱雑に積んであったブロックをよくきれいに積みなおしてくれた。 なかなかできることではない。だから神様のような人だといったんだ」といいます。

そういえば、最初に積んであったブロックは乱雑で、
私は何気なくきれいに積みなおしたことを思い出したのです。

そして「あんたなら、浪人しても、必ず大学に受かる」とも言ってくれました。

バイトをした経験から、予備校の入学金を自分で稼いだことと、
誠実な仕事をしたことで、「あんたは神様のような人だ」と言われたことが、
ずっと心に残っていて、お金という富も大切だと思うとともに、体験した出来事の中に
誠実に仕事をして「神様のような人だ」と言ってもらえたことが、
心の宝としてずっと残っているのです。

これは心の富といってもいいかもしれません。
この世の見える富も大事ですし、心の中に培ってきた富も大事であるわけです。

1日18時間労働の子供

では初めに、この世の見える富について考えていきましょう。

今、日本は非常に富める国になっています。

次の資料は少し前のものなので確かなことは言えませんが、
単身世帯収支調査(2001年)があって、
単身というのは、一人暮らしで年齢が51才くらいの人のことですが、
その人の1ヶ月の消費支出が17万6,500円あるようです。

それを1日にすると、5,850円くらい使っていることになります。
ドルに直すと、1ドル100円として1日あたりでは、約58ドルになります。

現在地球には60数億人の人が住んでいますが、
約12億人の人が1日1ドル以下で生活しています。

(『世界を見る目が変わる50の事実』草思社)

5人に1人の割り合いになります。
1日100円以下ですから、現在の日本ではおそらく、生活していけません。

貧困な生活は、病気になりやすいし、
病気になっても医療機関が備わっていないので、死亡率も高くなります。

また学校にも行けずに小さいころから働かなくてはならない子供たちが3憶5,200万人もいるそうです。 そのなかで5才から14才までの子が、2億1,100万人です。

学令に達しているのに学校にいけない児童は、世界で約1億2,000万人もいます。
この子たちは学校に行きたいのに行けない子供たちです。

昔ある新聞(読売・平成15年5月12日)に、
1日18時間働き野菜を売っている少年を紹介していました。

彼の名はアハマッド・ハードン君で12才です。

明け方の4時から夜10時までお父さんと一緒に野菜を売っているのです。

彼は言います。

「今一番したいことは、学校で勉強すること。でも仕事があるからできないんだよ」と。
そして将来の夢は「お医者さんになりたい。お父さんの病気を治すんだ」というのです。

この世の財、富がないわけです。

そしてアハマッド君は、「家族を守りたい」とも言っています。

勉強がしたい、お医者さんになりたい、家族を守りたい、という夢や人を思う心は、
富んでいる人も貧困であえいでいる人も、みんな同じように持っている心です。

これはどこかでみんながつながっているということだと思います。
(このことについては先月号で少し書きました)

こういう子供たちにとって学校に行けたり、食事の心配がない生活を、
お金と言う富で賄っていければ、素晴らしいことだと思います。

日本では学校に行けるのがあたりまえで、
高校でも授業料が免除になる政策も出てきたようで、豊さを思いますし、
学校に通えるのに、学校に行きたくない子供もたくさんいます。

豊さのなかで失われていくもの

「子供のお金教育を考える会」という組織が日本にあって、
その会に、さまざまな方が相談されているようです。

あるときおじいさんから、こんな悩み相談が来たといいます。

「高1の孫の携帯電話の料金を払っているけれど、今月は6万円でした。
注意すべきでしょうか」という相談です。

普通は叱るのが当然であると思うのですが、このおじいさんは迷っているわけです。
どうも何かおかしいという思いが私にはしますが、いかがでしょうか。

この6万円を1日1ドルで暮らす人が使えば、
約1年と半年の間の暮らしができることになります。

それを1ヶ月で携帯電話だけで使ってしまうのですから、
豊かであることは確かなことです。

最近中学3年の男子が、自分の貯金が10万円あるので、
そのお金で中学1年の女の子にワイセツ行為をしたという報道がありました。

豊かなのは良いのですが、悪銭身につかずで、
自分がこつこつ働いて得たお金でないと、使い方を間違えてしまうようです。

豊かであると、お金の使い方が分からなくなるともいえます。

また豊かであると生活も代わってきます。

たとえば、家庭に包丁がない家があるのです。

スーパーやコンビニで、ごはんのおかずになるようなものがたくさん売っていて料理もしなくていいし、 野菜もみな切って売っていますから、包丁がなくても困らないわけです。

そのためでしょうか、小学校低学年の子が、学校でカレーを作ったときに、
包丁で野菜は切れるのですが、手も切れるかためして、怪我をしたという事件がありました。

あるいはガス調理台の青い炎しかみたことのない子供が、飯ごうでご飯を炊いたときに、 燃えている赤い火がほんとうに熱いのかを知るため、実際に火の中に手を突っ込んでやけどをした例もあります。
あるいはその炊きたての飯ごうを素手でつかむ子もいたそうです。

最近は電気を使う家が増えてきたので、火を見たことのない子供もいるでしょう。

あるいは、マッチを見たことがないので、有名な「マッチ売りの少女」の話のときには、
わざわざマッチの説明をしなくてはならないときもあるのです。

このように豊かになると生活が代わってきますが、その豊かさのなかで、失ってはいけない大事なもの、 心の富も私たちがちゃんと知っていなくてはなりません。

食べるものがないという貧困

WFPと書いて世界食糧計画という活動機関があります。
その事務局長が日本に来て国連大学で話したことがありました。

そのときにアフリカの現状を語ったのですが、
学校給食が家族の日々の食事を賄うほど厳しい飢餓と貧困にあるというのです。

食糧を確保するために子供たちが学校へ来るわけです。

特に家庭内で食糧確保の仕事を期待されている女の子は、
給食がないと学校へ来ることもできないわけです。

ですから、給食が学校へいく理由になって、
かろうじて教育の機関を提供できる状態であると言っていました。

曽野綾子さんの本(『貧困の光景』)の中に、
「貧困とは、その日、食べるものがない状態」を言うと書いてあって、
日本には世界的レベルで言うと一人も貧困な人はいない、とありました。

また平和という言葉を私たちはよく使いますが、
曽野さんはアフリカでこんなことを言われたこともあると書いています。

アフリカには、生まれてこの方、
平和というものをまだ一度も見たことのない人がいるんです。

だから平和とはいかなるものかを想像することもできない。
人間、見たこともないものを望むことはできないんです。

そうじゃありませんか、ミセス曽野。

豊かで平和な日本では、このようなことは言われてみなければ気がつかないことです。

この平和を創る一つ力は、この世の富みの力です。
そしてその富をどう使うかが大切なわけです。

17世紀に活躍したフランスのラ・ブリュエールという文人がこう言っています。

富者の大きな幸福は、慈善をなし得るにある

富める人は慈しみの善を行うことで、その富が生かされ、富者その人も幸せになれる、というのです。

このラ・ブリュエールの考えは、心の富に入るといえましょう。

前述した、中学生の携帯のお金やワイセツ行為のお金は、慈善ではないので、自分がほんとうには幸福になれないわけです。

カゲロウのようにすぐ消えてしまう幸せかもしれません。
でも、心の富を培って、この世の富を正しく使っていけば、みんなが幸せになっていけるのです。

また、世界にはまともに水を飲めない人が17億人います。

日本では水はたくさんあって、隣の家の水道から何も言わずに水を分けてもらっても、犯罪には至りません。それほど豊かなわけです。

松下幸之助さんは水道哲学といって、

日本には水がたくさんあって、それがみんなの幸せに通じているように、
便利な物を安くたくさん作って幸福な社会を作っていきたい

という考えが経営の原点にあったと聞きます。

豊かさはこの意味で大切なことです。

信仰の世界でも大切な富

人びとは信仰を形に表すために、さまざまな建物を作ってきました。
その一つが奈良の大仏です。

743年に聖武天皇が大仏を作ることを思い立ちました。

その目的は、
「仏法を広めることによって、天下が安らかにおさまり、動物、植物のすべてが栄える」 ためで、それが形になったのが奈良の東大寺です。

それから2年かかって材料を集め、745年に建立を開始します。

4年後に大仏ができ、2年後の751年に大仏をおおう大仏殿ができるわけです。

最初の仏像は金色であったようで、きらきら光っていたでしょう。
できれば見てみたかったですね。今は火事で焼けたので青銅色になっています。

そして1年後の752年4月9日、大仏の開眼供養を営んでいます。

そのときに集まったお坊さんの人数は1万人です。
開眼供養の導師をしたお坊さんは、中国からお呼びをしたといいます。

この法要の金額ですが、今お坊さん1人3万円とすると、1万人で3憶になります。
また中国から偉いお坊さんを招くと幾らくらいになるでしょうか。

この工事に携わった人は、鋳造関係だけで166万5,017人です。
1日1万円とすると、166憶5千万ほどになります。

これは鋳造したときの人件費だけです。
さらに土地代や材料費、仏殿の費用を足せば、厖大(ぼうだい)な金額になります。

東大寺の大仏は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)です。

この仏様は肉体を持ってこの世に現れた仏様ではありません。
天の世界にずっといらっしゃる仏様です。

その毘盧舎那仏の命を受けて、
肉体を持ってこの世に現れたのがお釈迦様になるわけです。

この仏教の世界をこの世に当てはめ、奈良という所に毘盧舎那仏を造ります。
そこが天の世界です。

そして地方に国分寺というお寺を建て、
その国分寺の本尊にお釈迦様を安置したのです。
地方がこの世という所になるわけです。

繰り返しますと、毘盧舎那仏が天にいて、
化身としてこの世にお釈迦様が出現なされて法を説き、
すべての人の幸せのために働かれたという仏教の世界観を、
この世の姿に表したのが、奈良の大仏と国分寺の姿なのです。

すべての人の安らぎを願うために、奈良に大仏を造りました。

そのために厖大なお金がかかったのですが、
今まで多くの人の信仰の場として生かされてきたのです。

信仰を表現するために、伽藍を建てますが、その伽藍の力も大切なものです。
そのためには富が必要で、正しく使われればその富も大いに生かされ、
人びとの救いになるのです。

この東大寺を造るために多くのお金がかかったのですが、
誰がこんなにたくさんのお金を出し、そして集めたのでしょう。

そして当時の人びとは、これだけのお寺を造れるほど豊かだったのでしょうか。

次回は寄付をした当時の民衆の暮らしから考えていきます。

(つづく)