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法話

真なる富者とは 2 富の姿

先月はこの世の富と心の富のお話をし、信仰の世界でもこの世の富は大切で、
奈良の大仏を建てた当時の資金についてお話しいたしました。

今度はあんなにたくさんの資金がかかった大仏建立当時の奈良の都はどうであったのでしょう。
そんなところから、話を進めてみたいと思います。

仏教興隆の布施心

奈良の大仏ができたのは8世紀の半ばでした。
そのころの庶民の暮らしを考えてみましょう。

当時都に住む人たちもあまり豊かではなかったようです。
農民は弥生時代の竪穴住居とあまり変わらない所に住んでいて、食事も質素でした。
玄米、青菜の汁、それにわずかな塩を食べて暮らしていたようです。

さらにお米を税として納めると、家族の食べるものもなくて、
あわやひえ、イモ類を食べている人たちもいたようです。

万葉歌人として知られる山上憶良―やまのうえのおくら―という人がいます。
660年から733年に生きた人です。

憶良が万葉集の中で「貧窮門答歌―ひんきゅうもんどうか―」を作っていますが、
その歌の中に、当時の生活の様子がでてくるのです。

文章が前後しますが、少しまとめて載せてみましょう。

運よく人に生まれ、人並みに五根も健全であるけれど、
綿もない、粗末な肩衣(かたぎぬ)のぼろだけを肩にかけ、
地べたにわらをしいて、みんなが身を寄せ合いなげき悲しむ。

かまどには煙もでていない。米を蒸すこしきにはクモの巣がかかっている。

人はみなこうなのか、私だけがこうなのか。
寒い晩は私より貧しい人はさぞかし飢え寒がっていることだろう。

こんなにも辛く苦しいものだろうか、世の中の道理というのは。

これなどを読むと、大変貧乏で、大仏を建てる寄付など到底できないような気もします。
お金持ちの人達のみから財を集めたのでしょうか。

当時76才であった行基(ぎょうき)というお坊さんが、
諸方を勧誘して大仏の資金を集めたと言われています。

行基は各所に橋を作ったり、堤(つつみ)を築いたり、
布施屋(ふせや)といって無料宿泊所を作ったり、
田を開墾したり、民衆にはとても人気のあったお坊さんでした。

朝廷は最初、民衆を惑わす坊さんとして宗教活動を禁止しましたが、
大仏建立に多額のお金がかかるため、民衆に人気のある行基の活動を許し、
資金集めを依頼したようです。

ですから、民衆からも、多くの布施がされたと推測されます。
その布施で大仏ができ、仏教の興隆がなされたのは、富の尊さを思います。

当時の民衆はもちろん税を納めていていました。
苦しい生活のなかで、大仏建立の寄付(布施)がきました。

この「法愛」をお読みのみなさんは、民衆の貧しい状態を想像していただいて、
その民衆の一人が私であったなら、行基というお坊さんがきて、
「大仏建立の布施をしてください」とお願いされたらどうするでしょうか。

「いやそんなお金はありません。生活するのに、精一杯です」というでしょうか。

税は国が強制的に徴収するお金ですから、納めなければ罰せられます。
布施は納めなくても、罰せられることはありません。

この布施にはどんな意味があるのでしょう。

布施は、
「罪深いとされてきた人間が、その罪の許しを求めて、神や仏に財を献じ、
それによって、心が清められて安心を得る」と考えられていました。

「罪深いという」意味ですが、私達は知らずのうちに罪を犯したり、
食べ物などの命を殺して生活しています。

それを考えれば、罪を犯さず生きられる人間はいないでしょう。

私は人として、不平や不満、怒りや強欲などで罪を犯し、
あまり善いことをしてこなかったかもしれない。

せめて少ないけれども、
私が汗を流して稼いだこのお金を神仏のために使っていただいて、
このことで善が積まれて、私の罪も清まるかもしれない

と思い、布施をしたのでしょう。

ここで尊いのは、布施や喜捨をしようと思った心なのです。
そして心で思ったことを実践していったことがまた尊いわけです。

ですから布施の多い少ないという額はあまり問われないで、
布施をする心が尊いのだと、昔から言われてきたことなのです。

お釈迦様の時代から今日にかけて非常に有名な話に
「貧者の一灯―ひんじゃのいっとう―」があります。

お釈迦様がお話にこられるというのを聞いた一人の貧しい老婆が、
是非お釈迦様にみ明りを布施したいと思った。

なけなしのお金で明りを灯す油を買って、布施をした。
老婆は少ないけれど、お布施できたことを大いに喜んだ。

お釈迦様のお話が終わって、多くの人の布施した明りが次第に消えていった。
最後に残った明りは、老婆が布施した明りだった。

しかし、いつまでたっても消えない。

お釈迦様の弟子の一人である目連(もくれん)が神通力で消そうとしたが、
まだ消えない。

目連が不思議に思い、なぜ消えないかをお釈迦様に聞いた。

するとお釈迦様は、
「天の神々が消えないようにしているのだよ。
布施ということがとても大事であるということを分からせるために、
天の神々が消さないでいるのです」
と話された。

こんな話ですが、財そのものも尊いのですが、
さらには財を布施する心が尊いということです。

布施したくなるその思いが尊いわけです。

「真なる富者とは」というテーマでいえば、
布施したいという思いが、心の富そのものであるといえます。

大仏を建てた当時の民衆も、仏のために布施をしたと考えられます。
その思いが、日ごろの罪を消していったわけです。

そしてこれは小さなこの世の財ですが、それが一つ一つ集まり、
それが大きな富になって、大仏ができたわけです。

さらには布施をしたいという小さな思いが、一つ一つ集まっていって、
善という大きなうねりができていったとも思われます。

富を嫌うと逃げていく

富は豊かな生活をするのにも宗教的にも大切なものですが、
この富には一つの法則があります。

それは富を嫌うと逃げていくという法則です。

清貧がよいとか貧しくても心が清らかであれば、という思いは尊いのですが、
そう思っている人のところには、この世の富は集まってはこないでしょう。

聖書のなかにこんな教えがあります。

富んでいる者が神の国にはいるよりは、
らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。

「マルコによる福音書」10の23

富んでいる人が天国にいくのは、非常に難しいと言っています。

仏教でもこんなことが説かれています。

前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物(むいちもつ)で、
何ものをも執着して取りおさえることの無い人、
かれをわれらは<バラモン>と呼ぶ。

『真理のことば』中村元訳

ここに出てくる「無一物」は禅でよく使われる言葉です。
「いつも何も所有していな人が尊い」という意味です。

財も煩悩をも持っていない、執着しないということです。

財については今でも修行僧が托鉢で得たお金は
直接手でふれないよう布の上にいただきます。

それほど、修行僧はあらゆる執着を捨て去るように心掛けているのです。

ここでのバラモンは尊い人の意味ですが、
仏教では対機説法といって、今その人にあった教えを説くので、
ここでのバラモンは宗教者を対象にして語っているといえます。

前世でもし聖書や仏教書を読み、宗教的な仕事をしていた人は、
その思いが潜在意識のなかにあって、今世でも「富んでいるものは天国に入れない」とか、 「何ものをも持たない人が尊い」という思いが働いて、 富は良くないものであるとか、奢侈(しゃし)な生活をしてはいけないといった考えがでてくるものです。

もしこんな思いが自分の心にあれば、前世で宗教的な仕事をしたか、
あるいはよく宗教的なことを学ばれた人かもしれません。

いつだったかマザー・テレサのことを報道していた番組があって、
マザーの命(めい)を受けてシスター達がニューヨークに仕事に出かけてきたのです。

あるホテルに泊まったのかそこを事務所にしたのか忘れましたが、
そこのホテルの絨毯が贅沢品だといって、窓から外に捨てているシーンがありました。

シスター達の絨毯を捨てる様が、結構印象深くて覚えています。

こんな人たちは生まれ変わって来世では、
贅沢をしない質素な生き方を知らず選ぶのではないかと推測します。
宗教的な魂の持主といえます。

富は神仏の現れ

ここで富の真なる意味をいえば、「富は神や仏の現れである」ということです。
神仏の一つの姿は、非常に富めるものであるのです。

もう一度、聖書のなかから富について引用してみます。

わたしたちのすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神

「テモテへの第一の手紙」6の17

という言葉がでてきます。

ここからでも神は豊かで、喜び満ちているということが分かります。
前後の文章では、その富を分け与え喜ぶことで真のいのちを得られると書いてあります。

お釈迦様も富を否定したのではありません。
一般の人たちには、こんなことを説いています。

聡明な人は、3つの宝をもとめるならば、戒めを守れ。
その3つとは、世の人々の称賛(名誉)と、財の獲得と、
死後に天上に楽しむことである。

『感興のことば』中村元訳

3つの事の中に、財の獲得という宝を言っています。

富んで栄えるということです。
富栄えて布施ができれば幸せになれるということです。

極楽浄土も、非常に豊かです。
食べ物にも困らないとか、温泉もあったり、
宝石で輝いていると言われますから、豊かさを肯定しています。

こうみてくると、時代や地域を超えて真理は同じだということがよく分かります。

豊かなことを尊ぶというのは、神仏を尊んでいることと同じであるわけです。
豊かさをダメなものであるとしていくと、富も逃げていき、
神仏をも大事にしていないことになるかもしれません。

富を愛することは神仏を愛することであるし、尊んでいることであるわけです。

この場合は、言うまでもなく人として生きる正しい戒めを持ち、
多くの人にその富を分け与える心、すなわち心の富を持っていることが大事になります。

そういう心がないと、人は富に溺れて、人格もおかしくなっていくのです。

(つづく)