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法話

釈尊の願いに生きる 5 仏教精神の3つの柱

自己を探究していく姿勢

前章では、「教えによって、善悪を判断する」という非常に基本的なお話をしましたが、
ここからもう少し仏教の深いところに入っていきたいと思います。

それを「仏教の精神」として、3つほどあげてみます。

1、自己を探究して悟りを深め、自分自身が幸せになっていく。
2、教えを伝えることで、人を幸せにしていく。
3、自らが悟り他の人を幸せにしていくことで、
この世に仏国土という幸せの国を築いていく。

これらを順に説明していきます。

初めに、自己を探究し悟りを深め、自分自身が幸せになっていくということですが、
これは、この自分を、もう一つの正しい自分が見つめていって深い真理を発見していくのです。

普段の生活の中で、私たちは心の中にさまざまな思いが行ったりきたりします。
あるいは一つの思いが出ては去り、また違う思いが出ては去っていきます。

その思いの中に毒ヘビに当たる悪い思いがあれば、それをしっかり見据えて、
その悪い思いを出さないようにコントロールする自分を、まず作りあげてきます。

そのためには常に自分を見つめていかなくてはなりません。

悪い思いを垂れ流しにした状態でなく、心に土手を築き、
その悪い思いの流れが心の世界にあふれさせないようにしていきます。

これは反省という言葉で表現してもいいかもしれません。
反省は自分を見つめていく大切な心の作業です。

一つの投書を紹介します。
ある新聞に、「家を支えていた姉夫婦に感謝」という題で、
61才になる女性が書かれたものです。

私は耳が不自由な姉夫婦と同居しています。

この夏、念願のリフォームをしたときの話です。
工事が始まると、姉たちは、重い家具を移動しながら
埃(ほこり)まみれの不自由な生活に閉口したのか、
愚痴や不満をぶつけてきました。

「きれいになり、快適な生活ができるまで我慢しよう」
と言うのですが、私も毎日が忙しく、だんだんいら立ちます。
手話の争いは口論よりすさまじく、家の中は嵐のようでした。

そんな折、私は不注意から転倒して
足首捻挫(ねんざ)と膝を強打し、動けなくなりました。

一人で采配を振るっていた私は途方にくれました。

ところが、ぐずぐず言っていた姉たちが、俄然(がぜん)張り切り、
職人さんたちに身振り手振りで対応したのでしょう。
工事は順調に進んだのです。

障害者だから家の雑用しかできない、
と決めつけていた私は驚きました。

思い起こせば、姉夫婦にはこれまで、いろいろと助けられていたのです。

文句一つ言わず、家事一切と寝たきりの母の介護をしながら、
私の息子を育ててくれました。
そのおかげで、私は定年まで働くことができたのです。

日々感謝の心もなく、家を支えているのは私だ、
と思い上がっていたことを反省しました。

これからどんな時でも温かく、〈優しい手〉で会話をし、
姉夫婦の心の支えになろうと誓いました。

(産経新聞 平成15年1月17日)

この投書を書かれたAさんは、
家をリフォームするという一つの出来事から、大切なことを発見し、
心の修正をしています。

耳の不自由な姉夫婦を私が支えているのだという思い上がりを反省し、
姉夫婦に助けられた事ごとを思い返しました。寝たきりの母を介護してくれたこと、
息子を育ててくれたこと、おかげで自分が定年まで働けたことなど、
それに感謝したことのない自分を「いけなかった」と思い、
これからは温かく優しい手で手話をし、姉夫婦を支えていこうと決意しています。

感謝できない思い上がりの心は毒ヘビに噛まれた状態でしょう。
それがいけないことであったと知り、悪い思いを出さず、優しくなろうと言っています。

このように自分の心の内を見つめ反省し、
悪い思いを取り除き、善い思いを出して生きていく。

このように自分を見つめ、自分を善い方向へ変えていくことが大切なわけです。
それが心の清らかさを作っていきます。

私とあなたとは一つの存在

自分の心を見つめて正しい方向へと自分自身を導いていくと、
心の清らかさゆえに、さらに深い真理を悟るようになります。

それは、
「自分と人は、もともと仏から分かれてきた存在で、もとは一つであるという真理」
です。

世界中の人びとは今68億人を超え、さらに人口が増えているといいます。

そのなかでたとえば、アフリカと日本では、ずいぶん環境も違いますし、
教育や家庭の状況も違います。顔も違えば身長も違い、考え方も違うでしょう。
でも、悲しい時には泣き、嬉しい時には笑い、苦しいときには辛い思いをします。

バンクーバーで行われた冬季オリンピックでも、金を取ればみな喜び、
フィギアでカナダ代表のロシェットさんのお母さんが心臓発作で急死し、
それにもめげずに銅メダルを取った姿勢に、誰しもが心動かされます。

このように、心の奥底では同じ精神を共有できる私たちです。
これは言葉を換えれば、みな底の方でつながっているからで、
その底にあるものが神仏の心なのです。

さらに自らを探究していくと、自分の命がこの世限りでなく、
永遠の生命を生きているという真実に行き当たっていきます。

ここでは紙面の関係で、深いお話はできませんが、
信じるか否かの世界に入ってくることかもしれません。

教えを伝え、人を幸せにしていく

2番目の仏教精神は、自分ばかり幸せになっていくのでなく、
教えを伝えて、その教えの力によって幸せになっていただくことです。

世の学者さんなどに、
仏教は自然に広がっていったという見方をする方がおられますが、
とんでもないことです。

教えを伝えることを伝道と呼んでいますが、
「教えを多くの人に伝え、伝道しなさい」と、お釈迦様は初期のころに言われています。
ですから、教えが広がっていったのです。

セネカというローマの時代に活躍した哲学者は、

人間は教えている間に学ぶ

と言っています。

そのように教えを伝えるためには、それを自分のものとし学びますが、
伝えている間にさらに自分自身が多くを学んでいくわけです。

さらにお釈迦さまは、

まず自分の身を正し、それから他人を教えよ。
自分が他人に教える通り自分でも行え。

と説いています。

ある神父さんが教会で
「貧しい人に手を差しのべよ」という意味のお話をしました。

教会から家に帰る時、自分の娘である幼い子が、
父なる神父の話を聞いたのでしょう。
道端にいた乞食のようなよごれた服を着ていた人に、
優しく手を差しのべました。

すると父である神父さんは、自分が神父であることも忘れ、
自分の幼い娘に「いけない!」と叱り、
家に帰ると、その子をすぐお風呂に入れて体を洗わせた。

というお話があります。
それでは、教えは広がっていきません。

自分が他の人に教えるように、
自分も教えの通り行う人になっていかなくてはならないわけです。

教えは慈悲の現れで、相手に幸せになってもらえるように教えを伝えていきます。

相手を思いやり、自分が得た生き方の教えを伝えることで、相手が幸せになっていける。 そんな世界をお釈迦様は願っていたのです。

仏国土という幸せの国を築く

仏教の理想は、仏国土という幸せの国をこの世に築いていくことです。

この世は濁世(じょくせ)といって、
泥のように濁って住みにくい世であると仏教では教えています。

それはあの世の天の世界から見た視点ですから、理解しがたいものがありますが、
この肉体を持って生きていくことは至難の業です。

肉体が在るゆえに食べていかなくてなりませんし、家も欲しいし財も得たい。
そのため働きすぎて健康を害するときもあります。
情欲も出ますし、老いては肉体の衰えで悩みが増す時もあります。

その都度、心の中には毒ヘビなる煩悩が入り込み、欲深で、怒り多く、
不平や不満がふつふつと心の中に沸騰した湯のように沸き起ってきます。

こんな世にあって、幸せの国を築いていくのは大変なことですが、
それを正しい教えのもとに築いていくわけです。

超能力でなく、教えを基準として、まことに地道な生き方ですが、
一歩いっぽ作り上げていかなくてはならないわけです。

お釈迦様は蓮の花を愛したといいますが、
蓮の花も泥沼の中からきれいな花を咲かせます。

咲き誇った蓮の花を見ると、
この世のものとは思えないほど美しく見える時があります。

そのように
「蓮の花のごとくみなきれいな花をこの世に咲かせ、幸せになっていってください」
というのが、お釈迦様の願いです。

お釈迦様はすでに涅槃に入られて2500年以上も経ちましたが、
お釈迦様が説かれた教えのぬくもりはいまだ消えず、
この世を春の太陽のように包みこんでいます。

そのぬくもりを是非感じ取って、正しい教えを基準として生きていってください。