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法話

念じる力を知る 2 念は多くのことを発見する力となる

何かを発見するために念じ続ける

本を読むときに、何気なく読んでいると得るものは少ないものです。
何か目的があったり、調べものをするために読んでいると、
何気なく読んでいるときよりも、多くの発見があります。

日本で言えば江戸初期になりますが、ニュートンという人がいました。

ニュートンは
「なぜ月は地球から離れていかないでいつも地球と一定の距離を保っているのか」
ということに疑問を持ったわけです。

それをずっと考え続け、リンゴが地に落ちるのを見て、万有引力を発見し、
天体の運行を説明したといいます。

「どうしてだろう」と念じ続けて、
今まで誰も気がつかなかったことに気づいていくのです。

UCCコーヒーを始めた上島忠雄さんという人がいます。

昭和8年ころ、23才であったといいますが、
神戸でバタージャムの洋食材を扱う商店を設立しました。
今から77年ほど前になります。

あるとき上島さんが喫茶店に入ってコーヒーを飲んだのです。
美味しいと思ったといいます。
そして考えたのは、これからコーヒーが売れると思ったのです。

コーヒーはすでに江戸時代に伝わったと言われ、
一般に飲まれるようになったのは明治になってからです。
昭和初期に喫茶店ができ、コーヒーが普通に飲めるようになりました。

そこで昭和26年にコーヒー豆の輸入が解禁されると、
上島コーヒー株式会社という名にして、全国へコーヒーを売り歩いたのです。

でもこの会社の名前では目立たないと思い、
上島の「U」とコーヒーの「C」と、会社を英語でいうとコーポレイション(corporation)というのですが、 その頭文字の「C」を取ってUCCと名前を改めました。

そのコーヒーを販売して営業をしていたとき、昭和40年ごろになりますが、
コーヒー牛乳を駅の売店で買って飲もうとすると、
電車の出発の合図が鳴ってしまったわけです。
慌てて飲みかけのコーヒーを売店に置いて、電車に駆け込みました。

普通の人は「ああ、もったいない」ぐらいで終わってしまいますが、
コーヒーのことを考え続けていた上島さんは、思ったのです。
「このコーヒーを、電車の中まで持ち込めたら」と。
さらに考え続け「ビンでなくて、缶の中にコーヒーが入っていたら飲めそうだ」と。

その後、缶コーヒーを作ることに困難を重ね、研究し、新しい缶を考えだし、
昭和44年の4月UCC缶コーヒーを発売するに至るわけです。

これは考え続けて、いいものを作りたいと念じ続けた結果であると思います。

念じていれば、ささいなことの中に、大切なものを発見し、
それをもとに多くの人の利益になっていく仕事ができるようになります。

人生のおける念の持ち方

人生においても、
念の持ち方一つで、多くの学びをしながら大切なものを発見できます。

人生においては苦しみやいつもと変わった出来事、
人からの辱しめや、困ったことが多々あります。

そんな出来事をどう受け止めていくかで、人生からの発見もずいぶん違ってきます。

佐藤一斎という人の書かれた『言志四録―げんししろく―』に
次のような言葉がでてきます。

佐藤一斎という人は江戸後期に活躍された方で、
渡辺崋山や、佐久間象山を教育し、
その考えは勝海舟や吉田松陰などにも影響を及ぼしたとされる優れた儒学者です。

凡(およ)そ遭う所の艱難変故(かんなんへんこ)、
屈辱讒謗(くつじょくざんぼう)、払逆(ふつぎゃく)の事は、
皆(みな)天の吾才(わがさい)を老(ろう)せしめる所以にして
砥礪切磋(しれいせっさ)の地に非ざるはなし。

これを分かりやすい言葉に直すと、

人生で、たまたま出会う苦しみや変わった出来事、
辱しめや人からの悪口、心に困った事などは、
みんな天が才能を高めさせるために、
この自分を砥(と)ぎ、磨いてくださるのだ。

こんな意味になります。

この考えをいつも抱いて生きていると、
挫折や失敗、あるいは人間関係での悩みなどはみな、
天の神や仏が「あなたの精神を磨くために、あるのですよ」と教えているように思え、
この試練が学びに化身していくようになるわけです。

あえて化身といいましたが、神仏が形を変えて、
何かを悟らしめるために天から降りてきて苦しみという形になったと、
とらえるわけです。

こう念じていないと、苦しみや辱しめを、他の人の責任にしたり、
環境のせいにしたり、他の会社のせいにしたりして、
徳を高めるどころか、徳を失っていくわけです。

人生をどう生きるかの正しい念じ方を持っていることが大切なわけです。

私もよく失敗をしますが、その一つに修行僧堂での出来事がありました。
佐藤一斎の言葉でいえば「変故」(へんこ)の出来事であったかもしれません。

修行僧堂では冬になってもストーブはありません。
修行僧の先生を老師というのですが、老師の部屋だけには火鉢が一つありました。

たまたま私が老師をお世話する役になったときのことです。

ある朝のこと、火で熾(おこ)したすみ火を老師の部屋に持っていって、
すみ火を火鉢に入れようとしたのです。

いつもなら火箸で簡単に火鉢に入れられたのですが、
そのときに限ってなぜか、畳の上にすみ火が落ちてしまったのです。

驚いて、火のついたすみを手で火鉢の中に戻したのですが、
畳が数か所、焦げてしまいました。

「どうしよう」と思いながら、
「この場から逃げられない。ここは素直に謝ったほうがよい。いいわけはやめよう」と判断して、
そのままそこに正座し、老師がやってくるのを待っていいました。
そして老師が部屋に入るなり、「申し訳ありません」と大きな声で謝ったのです。

老師はあっけにとられ、何事がおこったのかと困った顔をしていましたが、
理由をいうと、あっけなく許してくれました。

その後、老師は部屋の畳換えをしたので、
老師も畳の焦げ目がずいぶんと気になったのではないかと思います。

それでも、正直に謝って解決できたので、良かったと思っています。
きっと天の仏様が、正直さを学ぶために起こした出来事であったと、
今は思っています。