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法話

幸せを与える4つの方法 1 人の幸せを考える

自分の幸せ

今回は「幸せを与える4つの方法」というテーマでお話をしてみたいと思います。

この考えは自らの人格を高め、また、まわりの人を幸せにしていくために説かれた仏教の幸せになる方法です。 難しく言うと、「四摂事―ししょうじ―」といいます。

人の多くは、「この自分が幸せなりたい」「この自分を幸せにしてもらいたい」
という思いが強く、「人を幸せにしよう」という考えは少ないものです。

自分が幸せで満たされていれば、その余分を相手に与えてもいいと思うのですが、
自分が困っているのに、人を幸せにしてあげようというのは、
なかなか難しいものです。

身近なたとえをいえば、かごの中にイチゴがたくさんもってあって、それをお食べくださいと 言われれば、一番赤くて美味しそうなものから食べると思います。

電車を待っていて、
隣の人を押しのけても早く乗りたいという思い気持ちも確かにでてきます。

スーパーなどのレジでは、
空(あ)いているところに行って早く済ませたいという思いもかなりあります。

あるいは、神社なので行っている節分の豆まきでは、
有名人が投げる豆を早く取りたいと思ってしまう。

みな自分が先に得をして幸せになりたい、楽をしたいという思いから来ています。

相手の幸せを思うことが自分の幸せ

自分が幸せになる、という考え方はとても大切なことですが、
人を幸せにすることが、自分の幸せにも通じていくという法則も
よく知っていることが大切になります。

結婚して子どもを授かりお母さんになると、
ここに美味しいイチゴがあれば、自分のお腹がすいていても、
子どもに先に美味しそうなイチゴを食べさせてあげたいという思いが出てきます。

自分より子どもの幸せを先に考えるようになるわけです。
自分は食べられないのだけれど、子どもの幸せそうな笑顔を見て、
母という人はそれで幸せを感じるものです。

そんな母なる生きる姿勢を仏教では大切にするのです。

漫画家で高橋春男さんという方がおられます。

この人は5人兄弟の末っ子で、寝小便も小学校6年生ごろまでしていたようで、
成績もあまりよくなかったといいます。

そして高校を出て、家でブラブラしていて、在る日、突然家を出てしまいます。
それから15年後、やっと漫画家として食べていけるようになりました。

そんなある日、お母さんが他界し、兄から一通の手紙がきました。

それには、
「お袋がお前のために貯金してあるから、郵便局へ行って受け取ってくれ。
通帳がないので、戸籍抄本を持っていけ」とあります。

そこで電話をかけて「いったい、いくら貯金があるんだ」と聞くと、
兄は「通帳がないので確かなことは分からないが、月に200円ずつ預けていたようだ」との返事でした。

郵便局へいって事情を話し、金額を聞くと5万円ありました。
月に200円。5万円で計算すると、約20年以上も毎月息子のために郵便局へ行って貯金をしていたことになります。

高橋さんは「いくら馬鹿息子でも、母の恩を感じないわけにはいかない」と思ったと、
自戒しています。

母が我が子のために何かしてあげたい。
息子の幸せのために、何かできることをしてあげたい。
そんな思いを家族という範囲からもっと広げていくと、
「人を幸せにしてあげたい」という思いに代わっていきます。

私自身のことを考えてみれば、私はお寺に住んでいるので、自分の子どもに対して
「お寺だから、お寺の子どもは目立つから、何か事をおこさないようにしてくれ」
と子どもに願ってしまいます。

坊さんとしての立場や、親の幸せを壊したくないから、
「子どもは悪いことをしないように」と思ってしまうわけです。

ほんとうはそうでなくて、仕事の立場や親の立場よりも先に
「子どもがちゃんと社会で生きていけるように。そして自分で幸せを築いていけるように」と考え、
子育てをしなくてはいけないわけです。

揺れる心の思いをずいぶん修正しながら子育てをしてきましが、
原点はこの「人を幸せにしたい」というところにあるのではないかと思うのです。

幸せを与える4つの方法 2 4つの与える方法

まず、与える

人を幸せにしていくためには、どのような方法があるのかを、
お釈迦様は4つ示してくださったのです。

最初の方法は「与える」ということです。
難しく言えば「布施摂事―ふせしょうじ―」といいます。

「してもらう」のでなく「してあげる」ということですから、
してもらって幸せになりたいという人にとっては180度の転換になりましょう。

この与えることが幸せになるということに気づくためには、
自分がどれくらい与えられている存在であるかを知る
ということではないかと思います。

与えられていることに気づくと、そこに何が生まれかというと、
感謝の思いが生まれてきます。

「ありがとう」という思いです。

ありがとうと素直に言えるようになると、
私もしてあげたいという思いになってくるのです。

ですから、
「してもらう」から「してあげる」の谷間を通りぬけるかけ橋は、感謝であるといえます。

感謝のかけ橋を渡って、人は180度の転換ができるのです。

さらに感謝が深まると、
「してあげる」から「させていただく」という思いに変化してきます。

こちらがしてあげるのに、「させてもらってありがたい」となっていくのです。
それが喜びに通じ、多くの幸せの果実を手にしていきます。

この境地に入っていくためには、感謝をさらに深めていくことと、
相手の喜びをどれだけ我が喜びとして受け止めることができるかだと思われます。

いつだったか、日本一短い手紙コンクールで一筆啓上賞になった作品に、

今までに、私をフッてくれた人たち、ありがとう。
おかげでこの息子に会えました。

というものがありました。

作者は若いお母さんでした。フッてくれた人にありがとうと言って、
その結果息子に出会えたことを感謝しています。
感謝できるので自分の息子を大切にできるわけです。

逆に子どもがいることに感謝できなければ、子どもを邪魔者扱いにします。
あなたがいるので、「私のしたいことができない」となります。
してあげる喜びはそこにはありません。

子どもの虐待が多くなっていますが、
親が子供に与える姿勢がなくなっているからでしょう。

布施の精神を養うことの大切さを思います。

愛語を語る

与えるといっても何をすればいいのかと迷ってしまうでしょう。
そこではまず、言葉に気をつけてみましょうと教えています。

優しい言葉、愛ある言葉、明るい言葉、思いやりのある言葉を使ってみましょう、
というのです。これを難しく言うと「愛語摂事―あいごしょうじ―」です。

やさしい言葉を使えば、自分も気持ちがいいし、相手も幸せになっていけます。
食事をするときにも、作ってくださったかたへ、「おいしいねえ」と一言いえば、
作った人もうれしいものです。

「ごくろうさま」
「たいへんだったねえ」
「気をつけてね」
「ありがとう。助かるわ」

みんな愛語です。

昔ある王様が子どもは神の子だから、
人間がしゃべらなければ神の言葉を話すに違いなと思い、
何人かの赤ちゃんを集めて、一切の語りかけを禁止して育てたことがあったようです。

その結果多くの子どもは、精神異常をきたし、
ひどい子は死んでしまったということがありました。

やはり子育てで大事なのは、
子どもに優しく語りかけることが、とても大切なわけです。

優しい言葉を交わし合うことは、幸せに通じていく方法です。
大人であっても、喧嘩して何日もしゃべらないことがあります。
しゃべらないでいるというのは、非常に苦痛なことです。

さらに相手を罵倒したり悪口をいったり、さげすんだり、馬鹿にするような言葉は、
自分はもちろん、相手も傷つけ、必ず不幸に落ちていまきます。

私はお話をする時に、私の体験よりも、どなたかの貴重な体験をお借りして、
お話をすることが多いのですが、用意していった体験話をいつも話せなくて、
次の時に、次の時にとのばして、結局3年も使わなかった投書があります。

今回初めて紹介できるお話です。
「人に自信を与える『一言』の重み」という題で、65才の男性のものです。

「人に自信を与える『一言』の重み」

私は妻を3年前に亡くしましたが、
生前、妻の「一言」でどれほど励まされ、
慰められてきたことか、はかり知れません。

出勤の時には「行ってらっしゃい。気をつけて」、
帰宅時には「お帰りなさい。お疲れさま」と声をかけてくれました。

給料日には「ありがとう。ご苦労様」と言い、
私がカレーを作ると「お父さんの味は天下一品。何か隠し味があるのでしょう」と持ち上げて、
買ってきたお土産を「うれしいわ」と心から喜んでくれた。

私がだらしない生活をしていると、
「しっかりして下さい。家族があなたの双肩にかかっています」
と叱咤(しった)激励してくれ、私にやる気を起こさせてくれました。

ほんの「一言」で人をやる気にさせ、自信を持たせることができるのです。

私は温かい「一言」を自然体で言える人になりたいと思っています。
妻から教わった貴重な財産を胸に、これからの人生を生きていきたいと思います。

(読売新聞 平成13年6月7日付)

この旦那さんは、奥さんを3年前に亡くしたのだけれど、
生前の奥さんからいただいた言葉の中に、奥さんの優しい気持ちを感じ、
いつまでも忘れないでいます。

そして愛ある優しい言葉が、旦那さんの生きる力になっています。
愛ある言葉は、ほんとうに力があるのですね。

思いやりある行い

愛ある言葉を与えることが幸せになるということでしたが、
3番目には、「思いやりある行いをしていきましょう」という教えです。
難しく言えば「利行摂事―りぎょうしょうじ―」です。

私はよくお話に出かけますが、
そんなときに講演の依頼者の接待の仕方に頭の下がる思いがすることがあります。

ある年の1月の末に、
伊那西小学校の父母のみなさんにお話に行ったことがありました。
当時はその学校は70人くらいしか生徒さんがいないという学校でした。

1月の末ですから、一番寒い時で、まわりには雪がありました。
午後2時からの話だったので、1時30分くらいに来てくださいと言われていたので、
それよりも前に学校へ行ったのです。

すると寒い中、外に女性の方が待っていてくださり、
私が車を止めるところに案内してくれました。

そのとき、この人はPTAの役員をしている人で、
講師の接待役でここにいるんだ、と思ったのです。

後で聞くと、教頭先生でした。
学校へは何度もお話にいくのですが、
今まで外で待っていてくれた人はなかったのです。

こんな相手のことを考えての行為は、
人をほんとうに幸せにするのだなあ、と思った出来事でした。

これが「利行―りぎょう―」と言って、相手を利する行いです。

相手の立場に身を置く

4番目に幸せを与える方法は、「相手の立場に立って、与える」ということです。
相手の気持ちと一つになって相手を幸せにする行いをしていくことです。
これを難しく言うと「同事摂事―どうじしょうじ―」といいます。

馬が水を飲みたいと思っているのに、飼い葉をあげても食べません。
「この馬は今水を飲みたいのだ」と馬の気持ちを察して、水をあげれば、
馬は美味しそうに水を飲むでしょう。

それと同じで、相手の気持ちになって布施の行いをするのです。

年を取ってくると足腰が弱くなって、力も出なくなってきます。
若い人はそれが分からず、お年寄りに文句をいうことがあります。

「うちの母はちゃんと戸をしめない。開けっ放しで部屋を出ていく」
と愚痴をこぼしていた人がいたので、
私は「80も過ぎると力が弱くなって、戸もちゃんと閉められないんだよ。 でも自分では閉めたと思っている。ちゃんと閉めるには、いろんな手や腕の力がいて、年をとると出来なくなんだ」というと、
その人は「そうか。分かった」と、自分の母のことを理解したようです。

入れ歯のせいでステーキが食べられなかったり、トーストの耳が食べられなかったりと
入れ歯になってみないと分からないこともあります。

相手を理解するためには、相手の土俵まで降りていって、
共に考えてあげる姿勢が必要なのかもしれません。

「頑張れ」と言ったら、
「まだ頑張るのか。あなたは私の気持ちが分かっていない」
と叱られることもありますし、
「頑張れ」と言ったら、
「ありがとう。あなたにそういってもらえると、頑張れるわ」
と言ってくれる場合もあります。

言葉一つで傷ついたり励まされたりします。
相手の気持ちになって考えることがとても大切なのです。

幸せを与える4つの方法 3 見返りは捨てる

与えるということは、捨てるということで、自分の物が少なくなることです。

ですから難しいことですが、相手の幸せのために与えたものは、
相手から返ってこなくてもそれで良しとしなくてはなりません。

見返りを求めていると、必ず不平と不満の風が吹いてきます。
与えたものはそれで良しと考え、見返りを求めないことです。

花が咲いて、
「なぜこんなに私は一生懸命咲いたのに、誉めてくれないの」とはいいません。

言わないから、美しいのです。
不平を言わないから、そこに人がたくさん集まってくるのです。

「自分の育てた花が、自分では見ることができなくても、
どなたかが見て喜んでくれればそれでいい」。

「与える」という布施心には、この思いが必要不可欠です。