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法話

幸せが見える 1 さまざまな見方

見えにくい幸せ

以前、名古屋の方へ9日間ほど、お話に出たことがありました。
そのとき、その9日間でどれだけ幸せが見えたのかと、自問自答してみると、
なかなか厳しいものがあり、数えるほどしか見つかりませんでした。

あるお寺さんでお話をしたときです。
そのお寺で私のお話を聞いてくださっていた2人の女性が、
次のお寺さんにも来てくださり笑顔で聞いてくださったことがありました。

その時、「ありがたいなあ」という思い湧き起って、ちょっぴり幸せを見つけました。

もう一つは、私のお話を聞いている間、
やはり一人の女性が白いハンカチで涙を拭きながら聞いてくださっていたことです。

それを見ていて、
「法を伝えていくのはとても大切な仕事なのだなあ」と思ったことです。

そんな思いをその女性に教えていただいたような気がして、
お話できる自分に幸せを見つけることができました。

実は幸せを見つけるのは、簡単なことなのですが、自分の心がいらいらしていたり、
不満が多いと、なかなか幸せは見えないものなのです。

そこでどうすれば、日々の生活の中で、たくさんの幸せを見つめられるのでしょう。

自分の心の状態によって見え方が違ってくる

こんな言葉があります。

立ち向かう人の心は鏡なり

この言葉は、
「自分の心の鏡に映った相手の姿は、結局、自分の姿にほかならない」ということです。

相手の人が嫌(いや)な人だなあと見えると、
それは自分の嫌な姿が自分の心に現れているわけです。
相手を嫌(きら)う自分の姿が、自分の心に映っているということです。

逆に相手がいい人であると思うと、
自分の心の中にいい人であると思える姿が映っているわけです。

仏教の中に「一水四見」(いっすいしけん)という教えがあります。
一つの水を見るのに四つの見方があるというのです。
その人の心の状態によって、同じ水が違う世界の水に見えるのです。

ある川に水が流れていて、
その水を菩薩様のような方が見ると、
きらきら輝いた宝石が散りばめられたような川に見えます。
私たち人間が見ると、普通の川の流れだと見ます。
水の中に住むメダカが見ると、自分の住まいのように見えます。
地獄にいる餓鬼のような者、すなわち貪欲な者が見ると、
火の海のように見えるというのです。

同じ水であるのに、見る人の心の在り方によって、水の姿が違って見えるわけです。

一つ詩を紹介します。
長野県佐久市の4才の女の子の詩です。

雪道の散歩

おじいちゃんのて(手)
あったかいね
(ゴツゴツしているだろう)
あーちゃんね
こういうて(手)がいい!

(読売新聞 平成14年1月28日付)

雪道でおじいちゃんと手をつないで散歩をしているときに、こんな詩を書いたのです。

おじいちゃんの手はゴツゴツしているのですが、
握っている人が菩薩様のような心を持っていると、ゴツゴツしている手でも
「こういう手がいい。あったかくて、おじいちゃんのやさしさが伝わってくる」
というふうに、女の子の心には映って見えるのです。

このおじいちゃんの手を普通の人がみたらどうでしょう。
おじいちゃんを知らない子どもが見たらどうでしょう。
息子さんが見たら、お嫁さんが見たら・・・。
おそらくみんな違って見えると思います。

このように一つのものでも、
その人の心の状態によって違ったものに見えてくるのです。

同じ一つのものでも、
その時の心の状態によって、幸せが見えたり不幸が見えたりするわけです。

幸せが見える 2 幸せを見えなくさせるもの

愚かさという思い

そこで幸せを見えにくくさせる心の状態を考えてみます。

その一つが愚かさです。
愚かな思いは自分の与えられている状況を、感謝することができません。

ここでもう一つ詩をあげてみます。
53才の女性の方の詩です。とても教えられるものがあります。

買いたいもの

答えが
「ぬいぐるみ」なら
「チョコレート」なら
ほほえんで
うなずけるのに

カブールの少女は
「平和」と言った

「買いたいものは」
と、聞かれて
そう、答えたという

(産経新聞 平成13年12月20日「朝の詩」)

カブールというのはアフガニスタンの首都です。
この地域は争いが絶えず、平和がないのでしょう。
ですから、平和すなわち幸せが買いたいと少女はいうのです。

ちょうどこの詩が書かれたのはアメリカの世界貿易センターに飛行機が突っ込み、
多くの人が亡くなった時(平成13年9月11日)で、現在はそのころより治安も良くなっているかもれません。

ちょうどその同じ年の暮れに、「平和」というテーマでアンケートが行われました。

そのなかで、12才のカブールの少女は平和とは「学校にいけること」と言っています。
28才のカブールの兵士は「ぐっすり眠れること」と言っています。
37才の元教師をしていた女性は「教師の職に戻り、4人の子の母親として生きること」と、平和について答えています。 みんながかなえたい平和、幸せです。

日本にいれば、平和と聞かれてどう答えるでしょう。

学校に何不自由なく行けるのに、学校へ行きたくないという子もいます。
いじめで挫折している子は別ですが・・・。

また、ぐっすりいつも眠れるのに、夜遅くまで起きていてゲームをしている子もいます。
大人でも、ぐっすり眠られることがどんなに幸せか、分からない人もいます。
同じ枕で寝られることが、どんなに有り難いことか分からない時もあります。

あるいは、子どもに恵まれても、「うるさい」といって虐待する親もいます。

愚かです。豊かな幸せの中にいるのに、幸せを見ることができないでいます。
愚かな思いでいると、幸せは見えないようです。

怒りの状態

怒りの思いも、幸せを見えなくさせます。

昔、お寺の掲示板に、ある言葉を書いたことがあって、
当時まだ小さかった娘に「面白いものがただで見られるって、掲示板に書いてあるぞ」というと、 「ほんとう」といって、掲示板を見にいきました。
帰ってきた娘は「お父さん、ほんとうだ」と笑っています。

掲示板には、

腹立たば 鏡を出して顔を見よ 鬼の顔がただで見られる

と書いたのです。

生きていると腹の立つことがたくさんあります。
怒っていらいらしていると、その波立つ心には、歪(ゆが)んだ世界しか見えません。

怒りの状態を起こしているのは、自分自身の責任です。
そんないらいらした鏡を持っていると、正しくまわりが見られず、
幸せも逃げていきます。

貪欲な思いの状態

3番目に、貪欲の思いもそうです。幸せを見ることはできないといえましょう。

南方の方でお猿さんを捕まえるのに、ヤシの実を使うといいます。

ヤシの実に、お猿さんの手が入るくらいの穴をあけておき、その実の中には、
お米かお猿さんの食べたいものを入れておきます。
ヤシの実は木に紐(ひも)で切れないようにしっかりくくり付けておきます。

お猿さんがやってきて、ヤシの実の中をのぞき込んだりしながら、
おそるおそる手をヤシの実の中にいれて、お米を握ります。
すると、握った手はヤシの実の穴より大きいので当然手が抜けなくなります。

人間が来ても、握ったお米を離したくないので、
いつまでもヤシの実から逃げることができなくて、つかまってしまうわけです。

そんなお猿さんを捕まえる方法をテレビで放映していたことがありました。

「お米を食べたい、食べたい」という欲の大きさが、
束縛されないで自由に野山で生きられる幸せを見えなくさせています。

私たちもこれと同じように、
貪欲ゆえに、身近にある幸せを見えなくさせていることはないでしょうか。

家族が健康でいられるだけで幸せなのに、子どもが言うことを聞かないからといって、
心をいらだたせ、健康の幸せが見えなということもあります。

大阪の人で小林カツ代さんという料理研究家がおられますが、
小林さんのお母さんは生前、子どもに対して、
「子どもは生きていてくれるだけで、嬉(うれ)しおます」と言っていたそうです。

子どもが生きているだけで幸せ、ということです。

親としては子に対し、生まれて来たからには、
勉強が出来たり、ちゃんとした職業についたり、いい人と結婚できたりと、
望みが膨らんでいくのが普通です。

それはお猿さんがヤシの実の中のお米をつかんで離さないのに似ています。

小林さんのお母さんのように子に対し、
欲少なく「生きているだけで・・・」と思っていれば、
もっと多くの幸せがまわりに見えてくることでしょう。

このように愚かさと怒りと貪欲な思いは、身近な幸せを見えなくさせてしまうのです。

幸せが見える 3 愛と知恵

リンゴの木のたとえ

幸せが見えるためには、自分自身の心を正し、
人として味わい深く生きていかなくてはなりません。

そのことを「リンゴの木のたとえ」でお話をしてみます。

たとえば、私自身をリンゴの木とします。

リンゴの木には、多くの赤い実がなります。
私自身のリンゴの実は、それぞれの役割を意味します。

私の場合、お坊さんという役割の実、父という役割の実、
さらには夫であったり、母にとっては子どもであったり、
女性にとっては男であったり、動物にとっては人間であったりとさまざまです。

その一つひとつの役割に味わいがあれば、
私自身、充実した生き方をしていることになります。

女性であれば、母、妻、おばちゃん、子ども、女、仕事を持つ人などさまざまです。

そんな自分という役割の実が、
リンゴの木に毒虫が入れば実を食い荒らされその味わいを損ねてしまうように、
愚かさと、怒り、貪欲な思いが自分の中に入り込んで、
自分をダメにしてしまう時があるのです。

この愚かさ怒り貪欲を仏教で言うと、三つの毒と書いて三毒(さんどく)といいます。

この三毒に自らが食われてしまうと、
それぞれの味わいが損なわれ、また幸せが見えなくなっていくのです。

40才代の女性で、結婚20年。
今の夫とは、趣味が合うわけでもない、
夫婦喧嘩が絶えず、子どもがいるから我慢してきた。
夫には初めから愛も魅力も感じたことはない。
夫は家にお金を運んでくるだけの人。もう離婚したい。

そんな女性がいましたが、三毒にやられて、幸せが見えない状態であると思います。
見えないから、人間的にも味わいのない人生になってしまうのです。

愛と知恵が幸せを見つけ出す

ではどうすればいいのでしょう。

リンゴの木は大地にしっかり根をおろして立っています。
これは私たちに置き代えると、多くの人や多くの物に支えられて生きているということになります。

支えられている自分の姿をどれだけイメージできるか、
見つめられるかが大事になります。

生まれて来た時のこと、育てられている時のこと、
食べさせていただいて、服を着させていただいて、学校へ行かせていただいて・・・
と、深く感じさせていただくと、今までのことが有り難く思え涙がでてくるのです。

その涙は愚かさや怒り貪欲な思いを洗い流していきます。
そうすると心の中に愛の思いが芽生えてきます。

愛とはやさしさ、慈しみの思いです。
愛は心を清め、柔らかくしていきます。

この愛が大きくなっていくと、
自分のまわりにある幸せが一つひとつ見えてくるのです。

それは心の中に芽生えた愛の思いが、
自分のまわりにある幸せの世界を心に映すからです。

そう、愛は魔法の力を持っているといってもいいかもしれません。
ですから、その愛の芽をひたむきな努力で育てていくことが大切になります。

もう一つ大事なのが知恵です。
愛が三毒を内から退治していくのに対して、知恵は外から三毒を消毒してしまう、
そんな力があるといえます。

ある小学校の算数の授業で、
4つの饅頭を3人で分けるとどうなるかという分数の問題がありました。

ある子がその3つを3人の兄弟で分けて、
もう一つを亡くなったおじいちゃんの仏壇に供えるという解答をしました。

本当の答えは1と4分の1ですが、人としての解答では、
この子は知恵ある答えをしたと思います。

この子が知識としての分数もでき、
さらに、人としての知恵も備わっていけばと願います。

この子の正しく生きいていく人としての知恵は、
私たちの人としての味わいを深めていくとともに、
まわりに起こってくる出来事の中に、幸せを見つけ出す力にもなっていくと思います。

愛と知恵、この二つを大事にし、三毒を廃して、
幸せ満ちる世界に生きている私であることを感じてみてください。