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法話

観音さまに巡りあう 3 観音さまの心を知る

先月は、観音さまを信じれば、どこでも観音さまに巡りあうことができ、
苦しみを除いてくださるというお話を致しました。続きのお話しを致します。

観音さまの心

観音さまに巡りあうために、
さらに観音さまがどのような思いでいられるかを知っていることが大事になります。

観音さまの心を知ると、花や木々鳥や虫たち、また家族や友達、
見知らぬ人たちとの出会いに、観音さまの姿を見、観音さまの言葉を聞き、
観音さまと巡りあっていくことができるのです。

それを知ると、いつも観音さまと共に生きていることが分かってきます。

先月もお話し致しましたが、『観音経』というお経の中に、
観音さまのみ心が書かれています。

その部分を訳してみます。

真実を見る眼(まなこ)、清らかなるものを見る眼、
広い大きな知恵を持つ眼、
哀れみの眼と、慈しみの眼を持つ観音さまに
常に祈り、仰ぎ見て、信仰深くあってください。

汚れなく濁りない光を放ち、
悩み多い闇夜を破る、知恵深い観音さまは、
あまねくこの世を慈悲の光で照らし、
私たちを迷いと苦しみの災難から救ってくださいます。

哀れみの心は時には稲妻のごとく悲しみを打ち消し、
慈しみの心はもくもくとあふれ出る美しい雲のようです。

私たちの心のうちにある
煩悩の炎を消し去る甘露の教えの水を
観音さまは
あまねく私たちに降り注いでくださいます。

『観音経』

『観音経』の中でも、観音さまのことをとてもきれいに描いている所です。

観音さまはさまざまな眼を持っています。

その眼は心の内にあるものを現わしています。
ですからその眼から私たちは、観音さまのみ心を知るのです。

さまざまな尊い眼

まず、真実を見る眼です。

何が真実で、何が真実でないのか。
それを見極めることはなかなか難しいものがあります。

若い人がお年寄りと住んでいて、
互いが自分の気持ちを分かってくれないと言って仲たがいする。

そこに現れ出る眼は、人を疑う眼です。

もっと互いがほんとうは仲よくやっていきたいと思っているという真実を知っていれば、
求めあったり遠慮しあったりしてうまくやっていけるのですが、
してくれないことばかりに眼がいって、不平がでてしまうのです。

不平や不満がでたら、
「私は真実を見ていないかもしれない。観音さまどうすればいいのでしょう」
と観音さまを仰ぎ祈るのです。

清らかさを見る眼も尊い眼です。

これから紅葉が始まって、そのきれいな自然の姿に感動します。
それは私たちの心にも、きれいで清らかなるものを見る力があるからです。

谷川を流れる清水や、野に咲く一輪の花、透き通った虫の鳴き声、みな清らかさを思います。
この清らかさが現れる一つの在り方は、信仰心です。お釈迦さまはこう説いています。

信仰の無い人とつき合うな。
水の乾(ひ)からびた池のようなものである。

もしそこを掘るならば、泥くさい臭(におい)のする水が出てくるだろう。

しかし、信仰心あり明らかな知恵ある人と付き合え。
水をもとめている人が湖に近づくように。

そこには透明で清く澄み、冷ややかで、濁りの無い水がある。

『感興のことば』中村元 岩波文庫

信仰の無い人は、その人の心から泥くさい臭いのする水が出てくると言っています。

信仰心のある人の心からは、
透明で清く澄んだ濁りのない水が出てくると説いています。

水はここではたとえですが、
信仰心のある人の心は澄んで清らかであるというのです。

信仰を形で現わすと合掌の姿になります。
合掌の姿を言葉で現わすと「ありがとう」になります。

この意味で信仰は「ありがとう」の言葉と大きな関係があるような気が、
私はしています。

「いつも観音さま、私を守ってくださって、ありがとう」
と信じ祈れる人は、心清らかな人です。

そんな心をちゃんと見てくださっているのが観音さまです。

観音さまは広い大きな知恵の眼も持っています。
知恵とは正しく生きていくための考え方です。

この世を正しく生きていくのは難しいことです。

そのために、いろいろな考え方を知り、
それを自在に使い分けてさまざまな難問を解いていかなくてはなりません。

それが広い大きな知恵です。

一つの詩を紹介します。68才の女性の詩です。

遠くにいるから
何もしてあげられないネと
言ってくれる人
何も出来ないけれど
時々お手紙書くネと
言ってくれる人
遠くにいても
時々電話をかけるから
泣いてもグチっても
受けとめるよと
言ってくれる人
介護で知った人の心

産経新聞 平成22年6月27日「朝の詩」

この女性はどなたかを介護しているのでしょう。
その介護の大変さを知って、いろんな方がやさしい言葉をかけてくれています。

大変な介護なのに、そこに人の心の暖かさを発見しています。
これは生きる一つの知恵といえます。

観音さまもさまざまな知恵を持たれて、私たちにその知恵を教えてくださっています。

この詩では、遠くにいる人たちが観音さまに化身して、
守られていることの有り難さという知恵を教えてくださっているのかもしれません。

哀れみの眼も尊い眼です。

経文でいえば「悲観」(ひかん)です。
私たちの悲しみを観じ取り、その悲しみを取り除いてくださるのです。

悲しみの中に、人との別れがありますが、
家族で暮らしていた人が亡くなっても届け出ず、
年金をもらっていたという事件が最近ありました。

この事件を知ると、別の意味で人としての悲しみを思います。
そんな人にも観音さまは哀れみの心お持ちなのでしょう。

この境地に至るには、
まだまだ転生して、多くの学びを積まなくてはならない私たちです。

最近読んだ地方新聞に、
この伊那地区のある用水路にさまざまなものを不法投棄している
という記事が載っていました。

見出しを見て最初はペットボトルや缶類だろうと思って読んでいくと、
テレビやバイク、ペットの犬や猫の死がいなどが捨てられているというのです。

実際に写真も載っていて、
そこには袋いっぱいに詰められたペットボトルが用水路に浮いています。

私などは「どうして?」と思って憤(いきどお)りを感じてしまいますが、
本当は「観音さま、このような人たちがみな思いやりの心を深くしていきますように」
と祈らなくてはならないのです。

もしそう祈れるのなら、哀れみの眼を少し得たともいえましょう。

慈しみの眼

もう一つの眼は、慈しみの眼です。

経文では「慈観」(じかん)という言葉になります。
観音さまの代表的な眼でもあり、美しい心の姿ともいえます。

仏教では慈悲を説きますが、
その慈悲心をみ心として持たれ、私たちを導いてくださるのです。

さらには、ここでは慈しみの心はあふれる美しい雲のようだとも表現していますね。

ずいぶん前の資料ですが、「小さな親切」運動はがきキャンペーンで、
郵政事業庁長官賞をいただいた、ある女性の文を載せてみます。

ここに、人に慈しみの思いを持ち、
それを一生懸命に行って頑張る一少女の姿が書かれています。

そんな姿の中に私は観音さまの姿を重ねるのです。

娘の宝物

6月のある日曜日、我が家におばあさんが訪ねて来られた。
「お宅に小学生の娘さんがいますか」と。

急な夕立ちのあった日、バスを降り、ぬれながら歩き始めたら、
女の子が「一緒にどうぞ」と傘をさしかけてくれた。

小さな傘なので二人ともぬれてしまうと思い、
「ここで雨宿りするからね」と別れた。

15分ほどして降りやまぬ雨の中を歩き始めたら、先ほどの小学生が走ってくる。
家へ帰って大人の傘を持って来たとのこと。

どうしてもお礼が言いたくて、やっと我が家を捜し当てた、との話。

その雨の日、びしょぬれで学校から帰った娘に、
「お風呂わかしてあるよ」と言ったら、「今、お風呂より大切なことがあるの」と。
傘を一本握りしめ再び雨の中へ飛び出していった。

娘の純粋な気持ちに応えてくださったおばあさん。

親切を実行できる娘も偉いと思うが、
その心を「ありがとう」の言葉ではぐくんで下さった一言が娘にとって宝となった。

子どもさんがびしょぬれになりながら、
おばあさんのために傘を持ってきてあげたこと。

傘をさしかけられたおばあさんが、
この子の家を探して「ありがとう」を言いに来たこと。

そこに慈しみの風が吹き抜けています。
観音さまのほほえみが流れていきます。

この二人は気がつかないかもしれませんが、
共に観音さまと巡りあっていると、私には思えます。

そしてこの文章から、観音さまのほほえみを受けとることができるし、
そのみ心を察することができます。

観音さまは、人の幸せのために一生懸命なのです。

甘露の教え

また観音さまは私たちの煩悩を打ち砕くための教えを、
あまねく雨のように降らせて、私たちを守ってくださっていると説かれています。

みんなに平等に、正しく生きるための教えを与えてくださっているのです。

「そんなバカなことはない。わざわざ私は教えを学んだことはない」
という人もいるかもしれません。

でももし、なにげなく見たポスターに「素直」という文字を発見し、そのとき
「ああ、こんな頑固な自分ではいけない。もっと柔らかで素直な心であらねばなあ」
と思った。

その素直という言葉との出会いは、観音さまの教えとの出会いかもしれませし、
私自身の心に潜む観音さまとの出会いかもしれません。

このように目の前に現れる事ごとを見ていくのです。

努力の人であれ。
怒りを抑えて穏やかであれ。
不平を感謝に置き変えよ。
苦しみのときは静かに合掌してみよう。
疑いを去り信じることを大切にしよう。

みな正しく生きるための教えです。

この教えが「法愛」を縁として
今、観音さまから来ているのだなあと素直に受けとめることができれば、
観音さまから来た甘露の教えかもしれません。

観音さまに常にお会いしたいと思う

この経文の中に「観音さまに祈り、仰ぎ見て信仰深くあれ」と出てきます。
観音さまを信じ、祈りをささげていくのです。

「私も観音さまのような心をいただいて、苦しみを乗り越え、幸せになりたい。
そしてこの幸せを、観音さまのように多くの人にお分けしたい」

と、祈るわけです。

観音さまは特別な所にいらっしゃるのでなく、どこにでも出会うことができます。

観音さまを信じなければ出会えませんが、
それは狭い世界に生きることになるのです。

最後に、先月紹介した遠藤太禅師の詩をもう一つ紹介します。
「妻子かんのん」という観音さまに書かれた詩です。

私も、本当にそうだと思っています。
いつも観音さまに巡りあっている私たちなのです。

妻子かんのん

三十三に身を変えて
すべての人を救うとか
昨日出会った人も
今お茶のみをしている隣りの人も
観音さまじゃないかしら
あの人もこの人も
わたしの妻だって
観音さまじゃないかしら
私がそれと気付かぬだけ
野路の草かげに
観音さまの石の像
夕陽に向かってひっそりと
あなたでしょうか
妻となり子となり
となりの人となって
ああ変身の大菩薩よ