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法話

美しく最期を迎えるために 3 あの世という次の世を信じる

先月は生きている間に良い意味での別れのイメージを描(えが)いていると、
そのように旅立っていけ、また告知についても少しお話し致しました。

続きのお話です。

死後の世界を信じる

最期を美しくといっても、死を受け入れるのは大変なことです。

その意味で「6か月の命しかありません」と言われて
徐々に死を考え受け入れる時間があることは、非常に大事であると思います。

家族は勿論ですが、本人にとっても残りの6か月をどう生きていけばいいのか、
どのようなお別れをすればいいのかが分かってきます。

できれば(ここだけの話ですが)、亡くなる前に私を呼んでほしいのです。
死の世界へどう行けばよいかをお話を致します。

生きているうちにその話を聞くのが、ほんとうの引導かもしれません。
亡くなってからの引導は、極めて難しく、故人に伝わる効率は少なくなります。

死の世界へと言いましたが、死を受け入れるための大切な考え方は、
死んでも終わりでないことを、素直に受け入れ信じることが大切になります。

先月の告知の所でも、死んだら何もかも無くなって終わりであるならば、
告知はしづらいし、お別れも悲しみも倍増します。

死後の世界があり、その世界の善なる所へいけば、
また先に行った人と再会ができるわけですから、
そう思えば少しのお別れで、悲しみも薄らぐと思うのです。

ではあの世の行き方、準備について、少しお話ししてみましょう。

死をいただく基本的な姿勢

繰り返しますが、死ぬというのは、この世とのお別れで、
そのとき「死んだら終わりで、骨になって、何もかも無くなってしまう」
と考えていると、必ず迷ってしまいます。

そうではなくて、死んだら後(のち)の世界があって、
その世界へ帰るというのが死をいただく、基本的で極めて素直な姿勢です。

死んで亡くなったら何も無いならば、死の練習や準備などいりません。
財産などの整理は必要かもしれませんが。

静かにこの世のことを観察してみると、
みな続きがあり出来事がつながっています。

小学校を卒業したら中学校があります。
中学を卒業したら、消えてみな無くなってしまうわけでなく、高校があります。

高校が終われば、社会に出たり、上の学校へ行く人もいます。
みな消えて無くなってしまうわけではありません。

それから社会に出たら仕事を持って働き、
やがて独立して家を出て、家庭を持つ人もいます。みなつながっていきます。

年月を考えても同じです。

今年は平成23年ですが、
この23年が終わると、みな消えて無くなってしまうのではなく、平成24年が来ます。
来たらお正月を迎え祝います。

もし、もう24年が無い、今年で終わり、となるとどうでしょう。
ちょっと考えただけでも、怖ろしいですね。

死の世界も、死んだら終わりと思っている人は、
死を受け取るのに驚愕(きょうがく)するのではないでしょうか。

平成24年は必ず来て、必ず次の年がありますから、
23年の終わりには、「今年は、忙しくて心の余裕もなかった」と反省し、
「来年は、もう少し心のゆとりを持って本でも読み、旅行もしてみよう」と、
希望を抱くことができるわけです。

この世は一つ一つの事がバラバラに起こっているのでなく、
みなつながっていることがわかります。

こう考えると、この世が終われば、次の世であるあの世があるというのは、
当然の結果であると思えます。

そのように考えた方が、自然であり素直なとらえ方であると思うのです。

先月、遠藤周作さんの『死について考える』という本から引用を致しましたが、
この本の中にも次の世があって、生きている時に、次の世の声を聞く心の耳を
持たなくてはならないということが書いてあります。

美しく最期を迎えるために 4 死の準備として

悪を反省し善を積む

次の世があるならば、生きている時にどんな準備をしたらよいのでしょう。

まず一つ目の基本的なことは、
「今までの悪なる行為、思いを反省して心を清らかにするとともに、
 善を行っていくこと」
です。

心の内を省みて、
「あの時はあの人にずいぶんひどいことを言ってしまった。
 申し訳ない。許してください」
と心の中でお詫びすることです。

できればその人に直接言えばもっとよいのですが、
そこまでいかなければ、心の中でせめて許しを請うことだと思います。

そんな思いが、心をきれいにしていきます。

反省の素晴らしいところは、
悪を消して、もう一度、やり直しができるところにあります。

床などを雑巾がけして、そのために汚れた雑巾をきれいな水で濯(ゆす)ぐと、
その雑巾もきれいになり、また床をきれいに掃除できます。

心も同じで、誤った思いや行動を反省すると、
心がきれいになりまた人生をやり直せるのです。
この反省が、雑巾をきれいにした水の力に当たるわけです。

この反省を生きているうちにすることが大切で、心がきれいになればなるほど、
次の世の声を聞くこともできるようになると思われます。

この反省を亡くなってする場合もありますが、これはなかなか大変なことなのです。
生きているうちに気づかなかったことは、亡くなっても気づかないことが多いわけです。

一般に亡くなると葬儀を出し、49日たてば、49日の法要を致します。
この49日は中有(ちゅうう)あるいは中陰といって、この世とあの世の境をいいます。

亡くなると人はそこに生まれ、そこで生前の反省をし、心清める修行をするわけです。
そして生前の生き方と、そこでの反省の度合いによって、行く世界が決まるわけです。

残された家族は、善い所に行ってほしいと願い、
供養という儀式を通して、故人の修行を助けてあげるわけです。

心を反省してきれいにするというのは
別の言い方をすれば、心が軽くなるということです。

汚れが取れるので、心が軽くなるのです。
軽くなると、水蒸気のように空に上がっていくことができます。

よく「あの人は浮かばれた」とか、「浮かばれない」とかいう言い方をしますが、
心がきれいで軽い人は浮かばれて天に昇っていくことができるわけです。

浮かばれないというのは、
煩悩が心にこびりついて、体重が増えるように重くなり、
イメージとしては、亡くなれば地の 下の方向へと沈んでいくのです。

また悪を行っていても気がつかない場合もあります。
そこで日々善を積むことで、その悪が消えていくということもあります。

そんな善の姿をあえて言えば、「お役に立てて嬉しい」という姿です。

高校生の女性の方の投書を載せてみます。
ある新聞にあった「おじいさんに役立った喜び」という題の投書です。

「おじいさんに役立った喜び」

下校途中の私鉄の車内におじいさんが乗り込んできた。
右手でつえをつき、ゆっくりと空席に座った。

間もなく終点に着くと、
私は無意識のうちに「手をお貸ししましょうか」と、
おじいさんに声を掛けた。

おじいさんはためらっていたが、
「いいんですか」と笑顔を向ける。

私はおじいさんの左側に立った。
右手を、おじいさんの左脇に後ろから通して左手首を軽く握る。
さらに左手で、おじいさんの左のひらに添えた。

将来は福祉の仕事に就きたくて老人ホームでボランティアをした経験がある。
このように支えれば喜んで頂けると知っていた。

おじいさんは駅前の銀行で誰かと待ち合わせる用事があり、私も同行した。

「昔は私も元気だったのにね・・・」と言いながらも、
おじいさんは階段や緩(ゆる)い坂を一歩一歩進む。

数分で着き、
おじいさんは私の制服のポケットに500円玉を入れた。

「気持ちがうれしかったよ。コーヒーでも飲んで」
と優しく語る。

戸惑いつつも、厚意を受けた。

おじいさん、ありがとうございました。
人の役に立てて、うれしかった。

朝日新聞 平成17年5月1日付

おじいさんを助けて、
その助けた本人が、おじいさんにありがとうと投書に書き、
人の役に立ててうれしかったと言っています。

またおじいさんを助ける時に、
無意識に「手をお貸ししましょうか」と声をかけています。

おじいさんを助けるのに何のはからいもなく、
そして役に立ててうれしかったという、その姿が善の姿といえます。

また500円の厚意を受けたところは、この人の優しいところで、
人の厚意を素直に受けるのも善の姿です。

このような体験は普通できませんが、
人の役立つことをしてうれしいというのは、
禅的に言えば、心のうちにある「仏心(ぶっしん)」の現れといえます。

そんな仏心を活かして生きるのが善を積むことでもあり、
あの世の善なる世界へ昇っていける唯一の方法でもあります。

素直な感謝の思い

死の準備としての2つ目に必要なことは、
「すべてに素直に感謝し、手を合わせられる心境を作りあげること」です。

亡くなると大概の人は、手を合わせてもらえる立場になります。

それは美しい人としての礼節ですが、
できれば生きているときに手を合わせていただけるような生き方が必要なわけです。

そのためにも、 自分自身が感謝の思いを深め手を合わせて生きられるように努力することが必要です。

私も葬儀の導師などをすると、私に向かってみなさんが手を合わせてくれます。
でも、日ごろの生活の中で、手を合わせていただくほど徳はないような気がします。

実際に今まで人とのお付き合いの中で、
手を合わせていただいたという記憶はありません。

それほど生きている間に手を合わせてもらうのは難しいことですが、
そう生きたいと思う心根が大切に思います。

昨年の『法愛』5月号の「仏事の心構え」のところで、
ある和尚さんの言葉を載せました。

それを自分の戒めとして持っています。こんな言葉でした。

僧侶たるもの、まず尊敬されなければならない。
尊敬されずして、どうして人を救うことができる。

人と相対した時、大概は手を合わせて頭の一つも下げて頂けるだろう。

大事なのは後ろ姿。
去りゆく後ろ姿に向かって手を合わせ、頭を下げて頂いてこそ、本物の僧侶。

人々のためにどうあるべきか。
苦しむ人に如何に救いの手を差しのべられるか、
励まし 喜びを与えることが出来るか。

常にそのことを心得よ。

これはある和尚さんが弟子に向かって言った言葉ですが、
僧侶に限らず、何の仕事をしていてもいえることではないかと思います。

人を救うという、そんなおこがましいことはできませんが、
でも去りゆく後ろ姿に向かって手を合わせていただける、感謝していただける、
そんな生き方が大切に思います。

見えない神仏を信じる

もう一つ死の準備に必要な心構えは
「見えない神仏を信じ、畏敬の念を持っている」ことだと思います。

神仏を信じ粗末にしない生き方をしていれば、
必ず亡くなっても、導きの手を垂れてくださいます。
神仏というのはそんな存在なのです。

『今昔物語』のなかに、次のような物語が載っていました。

この説話は12世紀の前半成立したといいますが、
時、場所、名前などが明確に記されていて、
単なる物語でなく、実話を伝えるものであると思われます。

平将行(たいらのまさゆき)という人の三女にあたる女は
出家する前は、美人でやさしい心の持ち主でした。

女はあるとき病にかかり数日で死んでしまったのです。

死んで冥途にいくと、閻魔様が罪人の裁きをしています。

その場にお地蔵様がきて、女に

「あなたはよく善を積まれた。それゆえ今回あなたを救ってあげようと思う」

と言って、閻魔様に

「この女は信心深くよく善を積んだので、
 もう一度すみやかに帰してやって、さらに善根をつませてあげたい」

と願ったのです。

閻魔様はそれを聞くと「よかろう」とお答えになって、女を許してあげました。

お地蔵様はそこで女に

「私は一行のお経を大切にしていますが、
 あなたはこれをつねに心をこめて信じることができますか」

とおっしゃいました。

女は「よく信じて忘れることはありません」と言います。

こんなお経です。

人身難受 ―にんじんなんじゅ
仏教難値 ―ぶっきょうなんち
一心精進 ―いっしんしょうじん
不惜身命 ―ふしゃくしんみょう

 人の身を受けることは難しい。
 仏の教えに会うことも難しい。
 たまたま人間として生まれたからには、
 一心に仏道に精進し、身命を惜しんではいけない

そしてさらに

「あなたは極楽に往生する因縁があります。それに必要な句を教えましょう」

と歌を授けました。

極楽の道しるべは我が身なる 心ひとつがなおきなりけり

 極楽に往生する道しるべは、自分の心が正直で素直であることだ

この歌を聞くと同時に、女は生き返ったのです。

その後、女は出家して名を如蔵(にょぞう)とし、
ひたすらお地蔵様を信心して善を積み、
80才すぎて、心乱れることなく、きちんとすわったまま口に念仏を唱え、
心にお地蔵様を念じて亡くなったということです。

こんな物語です。

お地蔵様を信じ、仏の教えを学びながら、この世で善を積み生きて、
最期に浄土へ行く時の姿は素晴らしいものがあります。

心乱れることなく、きちんとすわったまま、口に念仏を唱え、
心にお地蔵様を念じて亡くなっていきました。

こんな美しい最期はありませんね。

死を受け取るときに、心乱れない心境は、
生前、善を積み、感謝の心を培い、大いなる神仏の存在を信じて、
正直に生きていくなかに培われていくことを、
この物語から教えていただくことができます。