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法話

心を切りかえる妙法(みょうほう) 1 世の法則

明けましておめでとうございます。
今年も「法愛」を宜しくお願い申し上げます。

さて、今月のテーマは「心を切りかえる妙法」です。
年の初めに、心を切りかえ、幸せの道を共に歩んでまいりましょう。

思うようにならない世の中

この世は思うようにならないのが常です。
なかなかこの法則を悟れないで、心を乱し、苦しむことが多いものです。

思うようにならないものを挙げてみると、
顔や姿、老いや病気や死ぬ時もそですね。

寒さや暑さもそうですし、昨年はずいぶん災害がありましたが、これもそうでしょう。

人間関係でも、
会社の中や、家庭の中での夫婦のことや子どものこと親や姑さんなど、
自分の思うようにはならないものです。

また仕事や勉強もそうですし、経済的なことでもずいぶん悩まされます。

老いといえば、私も57才にもなると感慨深いものがあります。

最近では、事務室で仕事をしていて、本堂に何かを取りに行く時、
事務室から本堂までの距離があるので、外の景色を見たり、
考え事をして本堂へいくと、何を取りにきたのか忘れてしまうことが多々あります。

冷静になって考えるのですが、思い出せなくて、
事務室に帰ってきて思い出すのです。

冷蔵庫をあけて、「はて何を取ろうと思ったのか」とか、忘れ物を2階に取りにいって、
2階に着いたら何を取りにきたのか忘れてしまう人もいるようです。

あるいは顔は思い出せるけれども、名前が出て来なかったり、
特に芸能界の人など、その人の顔は思い出せても、
名前が出てこないというのがあります。

あるいは代名詞ばかりで「あそこの、あれを取ってくれ」とか
「あれを、こうしてくれ」とかお願いして、「いったい、何をどうすればいいの」
と言われてしまうこともあります。思うようにならないものです。

老いと言えば、ある女性の方のことを思い出します。
この方も亡くなってしまいましたが、老いて認知症が進んだのでしょうか。

たまたまユリをいただいたので、仏壇に飾ってほしいと思い、
少しユリを分けてあげたことがありました。
しばらくしてその方が「ユリをもらったから、あげる」と持ってきたのです。

「先ほど、持っていったのに」とは思ったのですが、
お寺で飾ってくれという与える思いの尊さに、
「いい方だなあ」と思ったことがありました。

老いというのも思うようにならないものです。

昨年、どこかの前会長さんが会社の金を
億単位でどこかのカジノでギャンブルとして使い、逮捕されたことがありました。

1日で1億5千万円も使ってしまうときもあったようで、
お金は思うようになると思ったのでしょうか。
ギャンブルは思うようにならず、終いには、お金にも困って、
会社の資金を引き出すようになったといいます。

ギャンブルであっても、お金であっても、自分の思うようにはならないものです。

家族でも、
みんな自分の思うように動いてくれれば、こんなありがたいことはないのですが、
思うようになるのはペットくらいで、最悪ペットさえ、思うようにならない時もあります。

「思うようにならない」という悟り

こう考えてくると、1つ悟れるものがあります。
それは「世の中は思うようにはならない」という悟りです。

このことをしっかり心に落しておくと、心の切りかえができるようになります。

思うようにならないと悟ると、
「思うようにならないから、自分のできることをしよう」とか
「思うようにならないから、我慢したり、時を少し待ってみよう」とか
「思うようにならないから、世の中は面白いのだ」とか。
こんな心境が開けてきます。これも一つの心の切りかえですね。

良寛さんがこんな言葉を残しています。

災難にあう時には、災難にあうがよく候(そうろう)。
死ぬる時節には、死ぬがよく候。
これはこれ、災難をのがるる妙法にて候。

妙法といっていますが、妙法とは「うまい方法」という意味です。

簡単に、良寛さんの言葉を訳しみると
「思うようにならない時には、この世は思うようにはいかないものだと受け入れ、
 思うようにならないのが、この世の常であり、人生である、
 と思って生きていけばよい」
となります。

果物を作っている人が、台風にあって、その果物がほとんど落ちてしまい、
大きな損害を受けた時にこんな言葉を言っていたのを思い出します。

「自然のことだから、仕方がない」と。

そしてあまり苦にすることなく、ほほえんでいたのです。
思うようにならない世界を、素直に受けとめると、苦しみが和らぐようです。

心を切りかえる妙法 2 心を切り返る方法

冬の虹で心を切りかえた人

思うようにならないと悟ることが、
1つの心の切りかえであるというお話を致しましたが、
さらに2つの方法を見ていきます。

まず1つ目が、
外からくる言葉や出来事を、いい意味でとらえ、心を変える力としていく
という方法です。

2つ目は
自分の心の内から、主体的に心を切りかえていく
という方法です。

まず、1つ目の外からきた言葉や出来事などによって、
心を上手に切りかえていく方法を考えてみます。

こんな詩がありましたので、載せてみます。
「朝の詩」という欄で、ある新聞に載った詩です。

一日の始まり

その朝は寒くて
吐く息は白くて
膝小僧は赤くて
ハンドルを握る手は
痛くて冷えて
上り坂は苦しくて
坂を塞(ふさ)ぐバスは憎くて

でも

坂の先に現れた
冬の虹は
大きくて大きくて

私は、笑った

産経新聞 平成18年1月

この新聞には毎朝、「朝の詩」が掲載され、
この年の1月の一番いい詩に選ばれたのがこの詩です。

仙台に住む高校2年生の五十嵐ゆう子さんが書きました。
12月の寒くて小雨の降る朝に、
生まれて初めて見た冬の虹の印象を詩にしてみたとのことです。

五十嵐さんは、その朝、自転車に乗って通学するときだったのでしょう。

朝は寒いし、吐く息は白いし、
膝小僧は寒くて赤くなり、ハンドルの握る手は寒さで痛く、
そんな状況のなかで、大きな冬の虹を見たのです。
その虹を見たとたんに笑ってしまったというのです。

寒いという苦しみの中で、虹をみたら、苦しみがどこかにいってしまって、
嬉しくて、笑ってしまったというわけです。

虹によって心が切りかわり、
寒いという苦しみがどこかへ飛んで行ってしまったのです。

さまざまな自然の風景、春の花や夏の涼風に蝉の声、
秋の紅葉や冬の雪などには、心を切りかえる大きな力があるのだと思います。

1つの言葉で、心を切りかえる

1つの言葉で、心を切りかえられるときもあります。

不幸だった思いが、1つの言葉で幸せに変わったり、
1つの言葉が、生きる勇気を与え、苦難にもめげずに、
目標に向かって歩む力になったりします。

ですから、正しく生きていける、そんな言葉を持っていることが大切になります。

今年縁ある人にお配りしたポスターは、
詩人である坂村真民さんが自分で書かれたものです。
坂村さんが生きるための大切な言葉としていました。

お寺にも、唐木屋石材工芸様のご寄付で、昨年参道にこの言葉の碑が立ちました。

念ずれば花ひらく

この言葉は坂村真民さんの詩の題なのですが、
その詩を知っている人は少ないかもしれません。
とてもいい詩なので、ここに載せてみます。

念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしはいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

1つの言葉が、自分の人生を切り開いていく力になっています。
賢者の言葉には力があるのです。

私たちもそんな言葉を持って、自らを幸せの方向へ誘う、
そんな言葉を持つことの大切さを思います。

自分が主体となって心をきりかえる

心を切りかえるためのもう1つの方法は、自分の意志で切りかえていくことです。

外の景色や出来事、あるいは大切な言葉によって
心の切りかえをしていくお話を致しましたが、
自分自身が「苦難から幸せになるのだ」と心をきりかえていかなくてはなりません。

隣の人が幸せにしてくれるわけではありませんので、
自分自身が心の切りかえをしようと、
常に前向きに生きていかないといけないわけです。

「できないでは、できない」という名言がありますが、
「心をきりかえて常に幸せを求めていく」という意志を持つことです。

仏教的には、
求道心(ぐどうしん)とか発心(ほっしん)という言葉に近い思いかもしれません。

「自らが変わっていこう」
「立派な生き方をしていこう」
「幸せになっていこう」
「負けないで今年も頑張ろう」
「素晴らしい年にしていこう」
と思わないといけないわけです。

心を切りかえる妙法 3 心の道案内人を持つ

すべての楽しみにまさるもの

心を切りかえるために、もう一つ大切なものは、
人生を歩んでいくための案内人を持っていることです。

その案内人は、父であったり母であったり、あるいは尊敬する人であったり、
何度も読み返す本であったりします。

またもっと大切な案内人は、人の道を説く教えなのです。
ここに1つの仏典童話を紹介します。

あるとき商人が海を渡って他の土地に行って商売をすることになった。

商人の住む町は内陸にあったので、海に出る道を知らなかった。
そこで道案内人を頼んで、出発した。

海岸にでる途中、とても広い荒野を通った。
そこに神の祠(ほこら)があった。

その神の祠を通るには条件があった。
それは人を1人、生贄(いけにえ)にしなくてはならなかった。

商人たちはみんなで相談した。
私たちはみんな親しい仲間ばかりだ。誰も失いたくない。
そこで道案内人を生贄にすればいいと決めた。

道案内人を生贄にして、商人たちは出発した。
しかし、道案内人を失った商人たちは道に迷い、みんな死んでしまった。

こんなお話です。

ここでの商人は自分のことです。
商人の仲間は、自分が欲しいもの、あるいは大事にしているものです。
海は幸せの世界で、海へいく旅が人生です。
神の祠は「思うようにならないこと」、苦難とか苦しみです。
そして道案内人は、人の道を説く教えのことです。

たとえば、お寺で法話会があります。
法話会というのはお釈迦様の教えを本(もと)にしているので、
ここでは道案内人になります。

来る人にとって法話会に出掛けることは大変なことになります。
自分としてはテレビを見ていたほうがいいとか、自分の好きな事をしていたいとか、
家族とおしゃべりをしていたいとか、仕事で忙しいとか、
これが商人の仲間になります。

このときに、どれを神の生贄にするかが問題になります。

なかには商人としての仲間である、自分が欲しいものを取って、
法話会を生贄にする人もいます。

そうすると、人生の生き方を見失って、海という幸せの世界に出る前に迷い、
苦難の世を歩かなくてはならなくなるわけです。

道案内人をとれば、あのときの法話会で、
「分け与えることが大切」と教えてもらったから、
私は心を切りかえて、分け与える道を生きたいと思う。
そして、その道を歩んで海という幸せの園に至ることができるのです。

この「法愛」もこの意味で、人生の道案内人で、
この小さな冊子を神の生贄にすることなく、
自分の大切な時を少し生贄にして、読んでいただきたいわけです。

お釈迦様の教えに、
「教えを味わう楽しみは、すべての楽しみにまさる」というものがあります。

なかなかこの心境に達するのは、大変かもしれません。

私自身、道案内人としての教えがなければ生きていけない
という思いがしていますが、この言葉に出会う前は、
教えを学ぶために多くの楽しみを生贄にしてきたと思っていたのです。

でも、このお釈迦様の言葉をいただくと、
教えを味わう楽しみを日々いただいていたのだと知ります。

今年も教えを道案内人として正しく心を切りかえ、幸せの時を刻んでいきましょう。