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法話

心の癖を見抜く 3 楽な方へ行ってしまう心の癖

先月は人には心の癖があって、
一つに「あたりまえ」と思ってしまう心の癖の話を致しました。続きです。

人は楽な方に流されやすい

人の心は流されやすく、心を律するという言葉もありますが、
しっかり正しい考え方で心を繋(つな)ぎとめておかないと、
楽なほうへ流がされていってしまう傾向があります。

水に浮かぶ浮き草のように、風に吹かれて、右往左往する、
そんな傾向があるのです。

人はあえて難しく困難な道を選ぶ人は少ないものです。

生きているうちには、さまざまな困難に出会いますが、
その困難も好きこのんで招きよせたものではありません。
できれば、不安のない楽な暮らしができたならと思うものです。

楽な方へというのも、考えればよい面もあります。
楽というのを便利がよいと置き換えてもいいかもしれません。

24時間営業しているコンビニは、ありがたいものです。
思ったものをいつでも買えて、楽で快適な暮らしができます。
電気も水道もパソコンや携帯電話も便利で、今はなくてはならない必需品です。

楽ということを快適な暮らしに結び付けていくと、幸せな毎日を得る事ができます。

ゴミを捨てる楽

一方、心の問題としてとらえていくと、難しい問題がたくさんでてきます。

お盆の前になると、お寺の墓地にみなさんが掃除にやってきます。
墓地で出たゴミは家に持って帰っていただくようにしています。
大きな立て札も建てました。

特に枯れた花など墓地の空き地に捨てていかれるので、
そこにお地蔵様を置きました。
すると、そこには捨てていかなくなりました。

お地蔵様を見ると、心の中で疾(やま)しいことはできない
という思いがでてくるのでしょう。
仏様は心を律しさせてくれる力があるのです。

立て札を見て、たくさんのゴミを持って帰る人もいます。
大きなゴミを抱えて帰っていく人の姿を見ると、
尊く感じられるのは不思議なことです。

そこに仏様の姿と重なるものがあるのだと思います。

そんな人ばかりだといいのですが、
墓地の隅の方へゴミを捨てていく人もいます。

そこで考えて、その場所にわざわざ
「ここにはゴミを捨てないでください。仏様はいつも見ています」
と書いた、小さな立て札をおきました。

でもです。
そんな立て札も見えないのでしょうか。
そこにゴミを捨てていく人がいます。

どうも、家に持って返って処分するよりも、置いていったほうが「楽」だからでしょう。

そのゴミは住職が片付けるのですが、
「せっかく先祖様のお墓の掃除をしにきたのに、
ゴミを捨てていくのは善ではないなあ」
と思うのです。

「この罪を払い去るには、どれだけの善を積まなくてはいけないのか、
分かっているのだろうか」とも思います。

人は楽なほうへと流されるのです。

ゴミといえば、車からゴミを投げ捨てたり、煙草の吸殻を投げ捨てる人もいます。
これも同じことで、悪なる方へ流されているといえます。

悪はどうも楽なところに、多く潜んでいる気もします。

楽な方を考える

仕事などでも言えます。

たとえばある会社がパートで働く人を求めていたとします。
A社は1時間1,000円。B社は1時間700円。
仕事の内容を見ると、それほど変わりません。
大概の人は、A社に働きにいくと思います。

私も大学の時、よくアルバイトに行きました。

自分でよいと思うアルバイトの条件は、
できるだけ時間給が高くて、働く内容が楽なものです。

中には時給が非常に高いのですが、
船の倉庫の掃除で、そこは油で汚れていて、
それをたわしでこすって掃除をする仕事です。それも徹夜でするのです。

私は寮に住んでいたのですが、寮生でその仕事に行っていた人もいました。
後で仕事の様子を聞くと、「つらい」の一言でした。

私が最も楽で高級なお礼をいただいたバイトがありました。
それは競馬場の入場券を買う仕事でした。

タクシーが寮に迎えに来てくれて、
競馬場の受付の前に待っていて、入場券を買うだけの仕事です。
朝6時ごろ出発して午前10時ごろには、寮へ帰ってきました。
入場券は一人一枚しか買えないようで、どこかの旅行社のバイトでした。

このように楽な仕事で、たくさんの報酬をいただきたいというのは、
みんなが持っている心の癖だと思います。

今、私はお寺の住職をしていますが、
この仕事は正直に言って、楽ではありません。

でも、この仕事が大切であり、人の役立つ仕事であると思っているので、
喜んでさせていただいています。

みなさんの前でお話をしたり、こうして「法愛」を作り、お配りしています。
こんな未熟な私ですが、正しく生きる教えを伝えさせて頂いています。

これほど難儀(なんぎ)な仕事はないのです。
楽な方へと考えられた大学時代が懐かしく思います。

人の責任にして楽をする

人間というのは勝手なもので、
暑い時には涼しい方がいいし、寒い時には夏の暑さを思い返します。

最近は葬儀もセレモニーホールでするようになり、夏も冷房がきいています。
ホールに入る前は、暑い暑いといっている私も、
冷房に弱い私は、ホールの中は寒い寒いといいます。

これなどはまだ可愛いほうですが、
自分の責任なのに、人の責任にすることがあります。

何事も人の責任にするというのは、楽なことです。
楽なことですが、それでは問題が解決しないことがたくさんあります。

一つに、自分が幸せでないのは、「あなたがいけないからだ」というのがあります。

こんな悩みの女性がいました。ある新聞に出ていた悩み相談です。

50才代の主婦です。

父の代からの病院を継いでほしくて、息子を進学校に入れました。
しかし、高校3年生になって「医者になりたくない」と言いだし、浪人。
結局、レベルの低い文系の大学に入りました。

息子は、私が人生をめちゃくちゃにしたと言います。
私の何が悪いのか分かりません。

息子が医者になると信じていた両親や親類はがっかり。
優秀だった息子をねたんでいた周囲の人たちが、
「学校はどこに入ったの?」としつこく尋ねてくるので、外を歩くことも嫌です。

我が家の収入は以前より少ない状態です。
株に失敗した夫とは会話もなく、離婚したいくらいです。

夫の親類からは、私が働かないから金がないんだと言われ、
体調もよくありません。
夫と私の父の関係も、うまくいっていません。

不幸ばかりで、人生が嫌になります。
こんな人生で終わるのでしょうか。

情けない私にアドバイスをください。

(読売新聞 平成21年4月21日)

こんな悩み相談です。

ここでは人の責任という言葉はでてきませんが、
この女性を不幸にしているのは、医者になれない息子さんであったり、
妬んで息子さんのことをしつこく聞くまわりの人であったり、
株で失敗した夫であったり、
親類が「あなたが働かないからだ」という言葉であったり、
夫と、この方の父の関係がよくないことであったり、
自分では気がついていないのですが、
自分の不幸をみな、まわりの責任にしています。

この相談で解答していた作家の久田恵さんは、こう指摘しています。
大事なところだけ、抜き書きしてみます。

あなたは、誰かが自分の望みをかなえ、
自分をシアワセにしてくれるべきと思って、
これまで生きてきたのではありませんか。

一度「シアワセにしてもらおう」ではなくて、
「シアワセにしてあげよう」の立場にたってみる。
それだけで人生の見え方、感じ方が変わるものです。

あなたの不幸はあなた自身から来ているように思われます。
あなたが変わること、それが幸福への一番の早道ではないでしょうか。

幸せになるためには、
自分で責任を持ってその幸せを作っていかなくてはなりません。

人が自分の願いをかなえてくれて幸せになるというのは楽な道ですが、
そう人生はたやすいものではないようです。

「あなたの不幸はあなた自身から来ているように思われます」というのは、
「人が私の望むように動いてくれないから不幸だ」ということです。

これは自分の不幸を、人の責任にしているということです。
みな知らずのうちに、こんな考えにはまって、
楽な方に歩いていき、不幸になっていくのです。

よく気を付けて生きていかなくてはならないと思います。
自分の人生は自分の責任で歩んでいくものです。

心の癖を見抜く 4 人のことは分かっても、自分が分からない

自分のことが分からない

3つ目の心の癖は、
人のことは分かっても、自分のことは分かりにくいということです。

特に相手の欠点や悪いところはすぐ分かるのですが、
自分のこととなると、欠点や良い所は見つけにくいものです。

何故だろうかと、このお話を作るときに、ずっと考え続けたのです。

一つ分かったのは、私たちの目が前向きに付いているということでした。
目が前向きに付いていて、内ではなくて、回りの状況を見るようにできているのです。

相手を見て、背が高いなあとか、メガネをかけているなあとか、
女性だなあ、男性だなと分かります。年の差や職業まで分かります。

目で見ることで、相手のことやまわりの様子あるいは景色を見て、
さまざまな判断をしています。

人のことがよく分かるというのは、
目が前向きについていて、相手をよく理解し、
どうも自分を守るように、私たちの身体はできているのだと考えられるのです。

自分を見つける方法

そこで自分を発見する方法を考えてみます。

目が前を向いていて、自分自身が見えないので、
まずすることは、相手の言うことをよく聞くということです。

相手は自分のことをよく見ているので、
その相手の自分に対する意見を素直に聞いて、
自らを正すという方法が一つあります。

相手から意見を言われて、素直に受け入れるというのは、
少し勇気がいりますが、ありがたいことだと思います。

「あなたはもう少し、人のことを気づかったほうがいい」
と言われれば、
「そんなことはない。あなたこそ私を気づかってほしい」
と言ってしまえば、それで終わりです。

そうではなくて、そう言われたなら
「それが今の私かもしれない。
少し冷静になって、相手のことを思う自分を作ってみよう」
そう思えば、自分自身がどのような状態になっているかを判断できます。

人が自分に対して意見を言ったとき、
その言葉を冷静に受け止めて、自分を省みる。

そんな習慣を付けておくと、ほんとうの自分を知ることができるようになるのです。

体験を深める

2番目に必要なことは、
さまざまな体験をし、自らを深めていくということです。
それが自分自身を知ることにつながっていきます。

悲しい体験をすると、
悲しみというのはどのようなものかを知ることができます。

知ることで、自分自身の心の世界が広がり、
広がれば広がるほどに、自分を感じいくことができます。

また自分の体験は限られていますので、
他の人の体験を学び、その体験を自分の共通の体験にしてしまう方法もあります。

それによって、自分が深まり、
自分自身を、その体験で省みて自分を知るようになります。

ある画家がまだ若い頃に、
自宅に指圧師を招いて指圧をしてもらったといます。

肩を指圧してもらって、その痛みに顔をしかめていると、
当時3才の娘さんが、どこからか物差しを持ってきて、
指圧師の頭をぶったといいます。

その画家は
「我が子のしてくれたことに、一生をかけて報いたいと思う」
と言っていました。

こんなエピソードをどこかで読んだことがありますが、
親を守るために、3才の子が指圧師の頭を物差しでぶって守ろうとした。
そんな様子を見て、家族の絆の大切さを思います。

それを自分の体験に重ね合わせると、
より広い自分を作っていくことができ、
それがまた自分を知るきっかけになっていきます。

もう一つの方法は、自分の目を自分自身に向けてみる方法です。

たとえばここに湖があるとします。
風もなく、湖面も波立っていません。そうするとその湖面に空が映し出されます。
山が回りにあれば、山の木々がそのまま映し出されます。

これから秋になりますが、
紅葉したきれいな景色が、そのまま湖面に映し出されますね。

そのように自分を見るわけです。

自分という心の湖面があります。
その心の湖面を、呼吸を調えて波立たせないようにします。
これが坐禅という一つの方法でもあるわけです。

心の湖面を波立たせないというのは、
穏やかな思い、平静な思いになるということです。
そうすると、心の湖面に自分の姿が映し出されてくるのです。

冷静になるというのを前述しましたが、
心は冷静で平らかになると、自分のしたことの是非がよく分かるものです。

さらには、この方法は、真なる自分を発見していく方法にもつながっていきます。

(つづく)