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法話

死を受け取るということ 2 死後の世界

先月は「死のイメージを変える」ということで、
くこの世を生きた人にとって、死は楽しいものであるかもしれない、
というお話をしました。続きです。

死んだらお終(しま)いなのだろうか

先月、最後の方で、ベットで安らかに亡くなっていけるような人は、
死が近づくと、身体から魂が脱け出す練習をするというお話をしました。
でも信じられない人もたくさんいらっしゃることでしょう。

人は誰しも亡くなっていかなくてはなりませんが、
死後の世界には二つの選択があります。

一つは「死んだらそれでお終(しま)い」ということと、
「死んでもお終いでなく、死後の世界が現前としてある」ということです。
なかには「死んだことがないから、分からない」という人もいます。

でも必ずみな死ななくてはならないので、
お終いか、そうでないかの二者択一をしなくてはならないのです。

ある禅宗のお坊さんで大学の教授もしている方が、あるとき
「お坊さん、死んだらどこへいくのですか」と聞かれたそうです。

そのお坊さんが、どのように答えたかといいますと
「そんなものは知らん」と答えたそうです。

そして「死んだらお終い。あるのは生と死のみ」というのです。
聞いた人はこの答えでは、迷ってしまい救われません。

お坊さんで大学の教授もしている方が、これでは情けないですね。
大学の教授だけならまだいいと思うのですが、宗教家である坊さんが、
こんな答え方しかできないならば、お坊さんは辞めた方がよいのではないかと、
私は思うのですが・・・。

家庭崩壊の一つの原因にもなっている

死んだらお終いという考えが、
家庭崩壊に通じていく一つの原因になっているという人もいます。
死んだらお終いならば、どうなってしまうかです。

今、葬儀で直葬(ちょくそう)というのがあります。
病院で亡くなると、直接、火葬場に行き、そこからお墓にいくというものです。

お経はありません。友人とのお別れのお参りもありません。
簡単で、お金もかからないので、楽ですね。

こんな直葬が東京の方では、2割から3割と増えているそうです。
この考え方の原点は「死んだらお終い」という考えです。

散骨もそうです。
死んだらお終いだから好きなところに骨をまいてくれということです。
お骨というのは、あの世に旅立った魂が、
この世に帰ってくる一つの縁になるものです。

お墓に埋葬され、大事にされる。
その縁でお盆など、あの世から帰ってきて、子孫と喜びの時を持つのです。

地方へいくと、お盆にはお墓に先祖様を迎えにいくところもあります。
成仏した魂はお墓にいるわけではありませんが、
お墓に埋葬されているお骨を縁として、この世に帰ってくるのです。

位牌も同じ働きを持っています。
亡くなったかたの依代(よりしろ)になるのが、お位牌でもあります。
そのお位牌に亡き御魂が降臨するわけです。

神道のほうでは、神が降臨する依代が、
鏡であったり、剣や玉、大岩であったりするのと同じです。

死んだらお終いという人は、先祖様の供養をあまりしませし、
しても形式に流れてしまいます。

先祖供養をしたいという人は、
亡くなった自分の父や母を大事にしたいという気持ちが
とても深いと思われます。

その心の内には、
亡くなっても、無くならないという思いがどこかにあるからです。
ですから大事にしたいと思い供養するのです。

先祖様を供養している父や母の姿を見て、
子どもたちは先祖様の大切さを知ります。
そうして、自分も父や母を大事にしなくてはいけないと学ぶのです。

そこから家族の和ができ、明るいあたたかな家庭が築かれていきます。

死んだらお終いで供養もしなくていいなら、
父や母が亡くなっても、何もしなくていいとなり、
先祖を敬う場を失い、家庭が崩壊する一つの原因になっていくわけです。

もっと極端になると、
子どもが多いと、子育てにお金がかかって、
老後の資金が足りなくなるので子どもは少なめにとか、
結婚もしないでお金だけためて、老後の資金にして亡くなっていく、
そんな人もいるようです。

こう考えていくと、死んだらお終いという考えが、
家庭にも大きな影響を及ぼしていくことが分かります。

死んだらお終いから出てくる恐怖心

死んだらお終いという考えから出てくるものは何でしょう。
それは恐怖心と、死んで行く人への憐れみです。

さらに介護からいえば、死んでしまえば終わりなので、
残された家族の悲しみに対するお世話、ケアは残ります。
でも、亡くなった方の悲しみや苦しみを癒すお世話はありません。

恐怖心をいいましたが、こんなたとえはどうでしょう。
家族で旅行し、宿泊場所が温泉宿で、景色の良い所であった。
旅館について、部屋に案内され、どんな部屋かと楽しみにその部屋に入る。
とても素敵は部屋で、窓から外を眺めると、美しい自然があって、心が癒された。
通された部屋のドアを開けるのに、楽しみと期待があった。

ところが、どうでしょう。
そのドアを開けると、
もしかしたら絶壁でドアを開けたとたんに落ちて死んでしまうとか、
あるいは開けたとたん自分が無くなって消えてしまうと思ったら、
そのドアを開けますでしょうか。

開けなくてはならない運命にあるのなら、恐怖心がつのって、足がすくんでしまいますね。

死も同じで、死のドアを開けてみたら、
自分が無くなって何もかも消えて無になる。
そう考えたら、死は恐怖そのものです。

でも、死のドアを開けてみたら、
生前、一生懸命に生きて善を積んだ、その善の花がいっぱい咲いている。
そうしたら楽しみで、そのドアを開けられます。

老人への憐れみ

死んでお終いからくるもう一つのことは、老人への憐れみです。
死んでお終いになると、老人は憐れみをもって見られるようになります。

「このおじいさん、死ぬんだ。もう美味しいものも食べられない。
旅行にも行けない。テレビも見られないし、本も読めない。ああ可哀そうだ」
と思われるわけです。

「あんなに一生懸命生きて、立派な人だったのに、
最期は管をいっぱい入れられて、苦しそう。
そんな老人になるのは嫌だし、死も嫌だなあ」

そう思われるのが普通だろうと思いますね。

死んでも終わらない

もう一つの考え方は、死んでも終わらないということです。
この考えは、多くの人が語り伝えてきたことです。

葬儀もこの考えが前提にあります。
仏教もこの考え方で成り立っています。

確信を持てない方は、
「あの世があり、死んでも終わりでない」と信じるところから入っていくとよいでしょう。
そんな思いでいると、介護して亡くなっていく方々を冷静に、
しかも大切に送ってあげられる力になると思います。

仏教の基本的な死のとらえ方は、次に挙げる考え方です。
お釈迦様の初期の言葉をまとめた『感興のことば』(中村元訳 岩波文庫)に
載っているものです。

善いことをしたならば、人は快(こころよ)く楽しむ。

ずっと昔にしたことであっても、
遠いところでしたことであっても、
人は快く楽しむ。

人に知られずしたことであっても、
人は快く楽しむ。

幸あるところ(天の世界)におもむいて、
さらに快く楽しむ。

幸あるところ、というのは亡くなっていく所です。
善を行い亡くなったときには、幸せな天の世界におもむいて幸せに暮らす、
そんな意味があるのです。

遠いところでしたことや人に知られず行った善も、
忘れてしまうこともありますが、善を積んだ事ごとが、
心のどこかに蓄積(ちくせき)され、それが光となって、
亡くなったときに、その光が導きの力になるのです。

介護でも自分が心を込めて一生懸命すれば、
それが善を積んだことになりますから、快く楽しくなりますし、
亡くなった後にも、その思いが幸ある天の世界におもむく力にもなるわけです。

「死んだらどうなるの」と聞かれたら、
「一生懸命、心あたたかく、感謝の思いで生きたら、
幸せなところに行けるのよ。そこでまた会いましょうね」
と答えればよいのです。

するとおそらく、尋ねた人は、安心し、穏やかになるでしょう。

介護させていただく私たちが、そんな思いをしっかり心に信じて持ち、
伝えてあげることが大事なわけです。

ちなみに、このことばの次に悪のことについて語っています。
載せてみましょう。

また悪いことをして、善いことをしないならば、
悪い行いをした人は、禍(わざわい)のもとを身に受け、
福徳を捨てて、この世で死を恐れる。

大水のさ中に難破した舟に乗っている人のように。

こうでてきます。

悪を行った人は、死を恐れるといっています。
それは死後の世界が幸せな世界ではないからです。

善を積むことの大切さを語る、無住という和尚

『沙石集』(しゃせきしゅう)という本があります。
これを書いたのは無住(むじゅう)というお坊さんです。
鎌倉の中期、1280年ごろ出された本です。

この本を書いた理由が序文のところに載っています。
要約してみます。

私は仏道のすぐれた深い教えを多くの人に知っていただきたい。

それで、老いにもめげず、見たことや聞いたことを、
その話題の善し悪しに関わらず、かき集めてみた。

私のような年を取った坊さんは、
あの世が一歩一歩近づいていることに気がついて、
死後の世界への長い旅立ちを準備し、この世を渡りきる準備をしなくてはならないのに、
こうして、つたない話ばかり載せている。

しかし愚かな人が仏の教えの大きな利益にも気づかず、
仏神の心も知らないので、ここに先賢の残した教訓を載せたのである。

これを読む人は、私の拙い言葉を批判することなく、仏の教えを受け取り、
輪廻の世界から脱け出て、悟りの道しるべとしてもらいたい。

金を求める者は砂を捨ててこれを採り、
宝石を磨く者たちは石を砕(わ)ってこれを拾う。

これにちなんで本書を『沙石集』と名づける。

こんな説明がなされています。

この『沙石集』の巻第七の一に「正直の女人(にょにん)の事」が載っています。
要約して載せてみましょう。

逸話から学ぶ、善の姿

ある僧が奥州(福島・宮城・岩手)から、本尊を作ろうと、
金五十両を守り袋に入れて、京都へと上洛した。

途中駿河の国の原中の宿で水浴をしたところ、
金五十両入ったお守り袋を置き忘れてしまった。

そこを出立して翌日の夕方忘れたことに気がついたが、
もう戻らないだろうと思って、そのまま京都に向かった。
京都に着き、形式だけの本尊を作って、元の道を帰ってきた。

途中、駿河の原中で、以前、水浴した宿に立ち止まり、
確かお金を置き忘れたと思い、宿をのぞいていると、
若い女性が出てきて「何かお忘れになったのですか」と聞く。

この僧は金五十両を忘れたことをいうと、
この女性は「私が預かっています」といって、
金五十両の入った袋をそのまま返してくれた。

僧は、それではすまないといって、
「十両あなたにあげましょう」というのだが、
その若い女性は「お金がほしいなら、五十両そっくり隠したでしょう」と。

僧は納得して、再び京都にいき、念願の本尊を作り、
帰り道、もう一度原中の宿を訪ね、この女性がここにいる訳を聞いた。

すると女性は
「私は実は京の人間で、身寄りもなく、たまたまここに二年ほど住んでいるのです」
という。

そこで僧は、
「そうでしたら、私と一緒にきませんか、
所領を収める財産管理の仕事をしてほしいのです」
そう言って、女性を連れて、奥州へ帰っていった。

女性は財産管理の仕事をし、裕福に豊かに今も過ごしているそうだ。

こんな話をし、無住がこの話に解説をつけています。
分かりやすく、書いてみます。

この話は今から16年ほど前の話だが、
この女性の正直さが世の曲った人の心を直す手立てとしたいと思い、
この『沙石集』を出すきっかけにもなったものだ。

もしこの女性が金五十両を隠したなら、
現世での平穏な生活もできないだろうし、来世(あの世)でも苦を受けるだろう。
正直にお金を返し、そのお金で仏像も造ったことだから、
功徳を受けるのは間違いないし、来世でも幸せになろう。

正直であれば、神は頭(こうべ)に宿り、
恥を知り節度あれば、仏が心を照らすという。

釈尊も「心が柔和で正直な者は、私の姿(仏陀あるいは仏)を見るだろう」
とお説きになっている。

何としても曲った心を捨て、正直の道に入ることが大切である。

正直さも善の一つですね。
そんな善を積み生きていくと、
死んで後、幸(さち)ある幸せの園に住むことができるわけです。

昔からこのような話はたくさんあります。
素直に受け取り、死んでも終わりでない。
だからこの世で一生懸命、善を積み生きることの大切さを思います。

「真理は単純なところにある」のです。
あの世を信じたほうが幸せになれるのです。

(つづく)