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法話

死を受け取るということ 3 あの世とこの世

先月は2回目で、「死後の世界」についてお話し致しました。
あの世は現前としてあるから、今、善を積んで生きることが大切であるというお話でした。
続きです。

死をよく知っていること

今月は、この世とあの世の関係について考えてみます。

死についての情報を持ち、
「なるほど、死後の世界はあるのか」と思い亡くなっていく人は、
あの世に行っても、どうすればよいのか対処法が分かります。

「あの世はない」と思って亡くなった人は、
死後を否定し、また死のことについてあまりにも知らないので、
もしかしたら、死んだことが分からないかもしれません。

介護する人も同じで、あの世のことが分かっていれば、
亡くなって逝く人にどのように接していけばよいのかが理解できます。

でももし、「死んだら終わり」あるいは「死はよく分からない」という
介護師、看護師であれば、死にゆく人の介護も難しくなると思われます。

まず、理解しなくてはならないことは
「この世があってあの世がある」ということです。

私たちの生(せい)は一回きりではないので、
亡くなってあの世の世界に移行し、またその世界で、新たな生活をします。

そして、また多くを学ぶために、
以前とは違った名前で異なった時代に、この世に生まれてくるのです。

偶然に私たちは生まれてくるのか

あの世の世界から、この世に生まれてくる場合、偶然か必然かの違いがあります。

大概の人は、親も選べず、
自分自身も男か女かも選べずに生まれてくると思っているかもしれません。

でも、そうではないかもしれません。

「死んだらお終いか、そうではなくて確かにあの世はある」
という二つの考え方があって、「あの世はある」と結論しました。

同じように、
「生まれてくるのは偶然か、そうではなくて計画し必然的に生まれてくる」
という二つの考え方があります。

今年4月の「法愛」で、医師である池上明さんの本の紹介をし、
その中で、小さな子ども達が、生まれてくる前の世界や、
その時の自分の思っていることを覚えていて、お母さんやお父さんを選んで生まれてくる
というお話をいたしました。
(今年2月の喫茶店法話での「生と死の扉を開く」では、このことを詳しく語っています。
CDがありますので、希望されるかたはどうぞ連絡してください)

この子どもたちは偶然でなくて、自分で選びこの世に生まれてきたと言っているのですが、
もう少し、偶然と必然について考えてみたいと思います。

偶然というのを、家を建てることで、当てはめてみます。

ここに一軒の家があります。

マイホームが欲しいと思っていた人の家です。
その家はなんと偶然に建ちました。

いつか知らぬ間に、家を建てる土地が整備されました。
偶然のことです。家の人は不思議がっています。

そしていつか知らぬ間に、家の土台となる基礎ができたではありませんか。

しばらくすると、
どこからともなく木が切り刻まれ、飛んできて、
柱が偶然に基礎と同じ寸法で置かれ、高さもつり合いがとれて、
家の骨格ができました。

やがて屋根ができ、瓦がどこからか運ばれてきて、
偶然にこの家の屋根にふさわしく、据え付けられました。

窓には、偶然にサッシが付けられ、
トイレもなんと偶然に水洗トイレです。

下水道も偶然につながれ、お風呂もお湯がスイッチを入れれば出てきて、
全体の色も青色で海を思わせる素敵なお風呂場になりました。

なんと偶然に台所もあって、対面式のシステムキッチンです。
居間や寝室もあり、みな偶然に出来たわりには、気にいった家になりました。

偶然にできた家でしたが、
新しい家ができましたので、そこに住むことにしました。

さて、こんな家の建ち方をみなさんは、信じることができるでしょうか。

これを信じられる人が、
私たちは偶然に生まれてきたと、信じられる人なのです。

普通、家を建てるのは、それなりの資金計画があり、
また家が欲しいという強い思いがあります。

家が欲しいと思い、お金の工面もなんとかできて、家を建てる決断をします。
そして土地の確保と、家の設計をします。

どんな形の家か、間取りはどうすればよいのか、
資金面と相談しながら、家の大きさや室内の装飾品などを決めていきます。

業者と契約をし、地鎮祭や上棟式、
そして完成して受け渡しの日まで細かく計画して、家を建てるのが普通です。

これを必然といいます。計画して事を成すということです。

考えてみれば、人が作りだしたものすべてが、
計画をし、必要として作られたものです。

ましてや、私たちが生まれてくるのに、偶然に生まれてくるでしょうか。

家が欲しいと思い、さまざまな事を計画して家が建ちました。
同じように、「生まれたい」と強く思い、生まれる何らかの計画が立てられて生まれてくる。

考えてみれば、あたりまえの考え方です。

原因と結果の法則

仏教では因果の法則を説きます。

今回のテーマでいえば、生まれてくるための原因があるのです。
その原因は、生まれてきたいという思いと、
生まれるために何かを学びたいという必要性があったからといえます。

生まれてきたいという思いと必要性が原因となって、
この世に生まれ、人生を送っていきます。

そしてどのように生きたかという原因によって、
死後、結果としての行き先が決まるわけです。

善を積んだ人も悪を犯した人も、
みな仏様になって、喜びあふれるあの世の世界に帰っていったなら、
この原因結果の法則は間違ったものになります。

善いことをしておけば、善い結果がで、
悪いことをすれば、その結果悪い所に生まれる。

これは基本的な法則なのです。

この世は仮の世という意味

何らかの計画や必要性があって、私たちはこの世に生まれてきました。
それは家を建てるよりも、おそらく綿密な計画のもとに生まれてきたと思われます。

そしてこの世で与えられた命、あるいは計画してきた寿命を生き、
またあの世の世界へ帰っていきます。

この意味で、この世は修行の場ともいえます。
仏教では、この世は仮の世であると説いています。

実際に目に見え、手にふれて「在る」世界なのに、仮の世というのです。
これも信じがたいことですが、今までの人生を振り返ってみれば、
さまざまなことが夢のようであったと感じます。

この肉体も常に変化していて、
赤ちゃんの頃の私と、二十才(はたち)の私、50才の私と、80才の私はみな違います。

諸行無常といいますが、この世のものはすべて流れ去っていきます。
辛い出来事も楽しい事ごとも夢のように過ぎ去っていきます。

家も木も花も、あの高い中央アルプスの山々でさえも、
長い年月の間にはおそらく滅して無くなり、形を止(とど)めてはいないでしょう。

その意味でも、夢の世、あるいは仮の世と言えるかもしれません。

そんな世の中で、人は多くを学びとして、この世に留まり、
そして学び終えたならば、真なる世界へ帰っていくといえます。

大切なことは、この世でどう生きたかということです。

キューブラー・ロスの説く死の五段階

『死の瞬間』という本を書いて有名になった
医学博士であり精神科医でもあるエリザベス・キューブラー・ロスという人がいます。
死にゆく人たちの心の支えになることを自分の使命にした女性です。

この『死の瞬間』という本の中に、死にゆく人の過程を五段階に分けて説いています。

一段階「否認」

一段階が「否認」です。
死を宣告され、それは間違いだ、認めない。そんな段階だそうです。

死を否定し、病気を治して、以前のような生活に戻りたいとする思いです。
死を否定するのです。

死を否定したまま、死んでいく人もいます。
周りの人はみなこの人は二カ月の命だ。そう認めているのに、
本人は認めないで、そのまま病院で死んでいくのです。

そんな人に死後の世界を語り、
死にゆくための、心の準備をするのは、極めて難しいことです。
それでは遅いのです。

二段階「怒り」

二段階が「怒り」です。
病気で死ぬことを否定し、そして思います。
「どうして私ばかりが、こんなひどい仕打ちを受けるのか。
今まで悪いこともしないし、家族のために一生懸命生きてきたのに」
と思い、怒りがこみ上げてくるわけです。

三段階「取引」

三段階が「取引」です。
多くの場合、神様とか仏様といわれる、人間をこえた大いなる存在に、
たとえば
「自分はこれから人のため生きるから、その代わり、この病気がよくなりますように」
と祈り、頼むのです。これを取引するといいます。

誰しもが、病気になって苦しい時、こんな思いになるでしょう。
そして叶えられないと、「神仏はもう信じない」となるのです。

あるいは、神仏が、何かを教えてくれるために、
私に与えた試練かもしれないと思う
人もいます。

私は後者の方に、人として優れた生き方があるように思えます。

四段階「憂うつ」

四段階が「憂うつ」です。
死ななくてはならない。苦しい。辛い。悲しい。
そんな思いになって、憂うつな時がきます。

痛みも増し、身体も痩せ、あるいはむくみ、
失うものも多いことを思い、気がふさいできます。

五段階「受容」

五段階が「受容」です。
あきらめがあり、初めて自分の死を受け取り、
安らかに逝きたいと思うようになるといいます。

そこで、本人の今までの生き方が出て、
周囲の人との語らいにも、感動するものがでてくるといいます。

これらの過程は、基本的な死にゆく過程として知っていることも大事だと思います。

できれば、死を宣告され、初めて死を受け取るという問題を考えるより、
健康なうちに死を学び、死を受け取りやすいものにしておくことが大事
ではないかと思います。

人生をどう生きたか

死んでいくときに、安心を得る一つの方法は、
人生を重みのあるものにしておくことです。

キューブラー・ロスが、『人生は廻る輪のように』という本の中で、

いのちの唯一の目的は成長することにある。
偶然というものはないのだ。

死は怖くない。
死は人生でもっとも素晴らしい経験にもなりうる。
そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。

死はこの形態のいのち(肉体)からの、
痛みも悩みもない別の形態への移行にしかすぎない。

※()は筆者が補う

ここに、
死が素晴らしいものになるのは、その人がどう生きたかにかかっている
と書かれています。

この世に生まれ、何を学び、何を自分の体験としたかが、大切なわけです。

東京にお住まいで、私の本を読んでくださり、
わざわざ私のお寺までご夫婦で訪ねてきてくださった方がいらっしゃいました。
ちょうど私がお寺にいたので、いろいろなことをお話することができました。

帰られて後に、こんなお手紙をいただいたのです。

いつも「法愛」を送っていただきありがとうございます。
毎月、月始めに楽しみに拝読させていただいております。

昨年、定年になり、少しのんびりしたあと、近くの老人ホームに勤めております。

夕方から就寝までの時間、食事、介助のお手伝いなどをしております。
ほとんどの老人が認知症の方で、私自身の終末をどんなふうに迎えられるかを考えさせられます。

老病の真っただ中で、人の逝く末はとても哀れに感じられますが、
和尚様のように、堅く来世というのを信じられたら、
どんなにか心強く、希望に満ちた終末期を過ごせるだろうと考えております。

こんな意味のお手紙でした。

定年前は自動車関係のお仕事をなされていて、
定年後は、人をお世話する仕事になりました。

お寺に来られた時に、
定年で仕事を辞めたら、何をしようかなという話をしたのですが、
60才を過ぎたら、奉仕の仕事がよいのではないでしょうかという、
そんなお話をお互いしたのです。

実際のこの方は、そんな仕事につかれ、この世の学びを深めています。
「どう生きたか」を大切に受け止めながら、日々を生きていると思われます。
キューブラー・ロスがいうように、魂の成長を培っているのです。

計画してこの世に生まれ、学び、体験し、そして通過点としての死を受け取り、
魂としてあの世に帰っていきます。

この世とあの世は、連続しているのです。

(つづく)