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法話

死を受け取るということ 4 成仏の確率を問う

先月は、「あの世とこの世」の関係をお話し致しました。
私たちは偶然にこの世に生まれてくるのでなく、何らかの計画をし、この世に生まれ、
仮の世というこの世で、どう生きて亡くなっていくかが大事であるのかというお話でした。
続きです。

成仏の確率とは

今月は、この世とあの世の関係について考えてみます。

成仏(じょうぶつ)というのは、本来は、今生きているときに修行をし、
仏と同じように考え、見て、行動ができることを意味していますが、
今回の「死を受け取る」というテーマに考え合わせると、
ここでは「亡くなった後に、幸(さち)ある所へ行くことができる」となります。

成仏ができないというのは、この世とあの世の境で迷ってしまうか、
あるいは地獄という暗い世界に行くかになります。

なかには、「私は地獄に行ってみたい。面白そうじゃない」
といわれるお坊さんもおられるようですが、
そんな考えはおやめになったほうがよいと、私は思います。

死をいただく時にさまざまな形があります。

形といっても分かりにくいかもしれませんが、
要は、どのような状態で死んでいくかということです。

そんなさまざまな死に行く人の死の形から、
どのくらいの確率で成仏をえることができるのかを考えてみます。

どんな形にしろ、死後の世界を信じ、
この世で精一杯生きて、人に役立つことをし、感謝の生活を送っていれば、
死んで後の成仏の確率は、極めて高いと思われます。

長生きと短命の場合

まず、長生きの人と短命の人とでは、どちらが成仏の確率は高いでしょうか。

できれば長生きをして、家族のみんなに送られ、亡くなっていったほうが、
成仏の確率は高いと思います。

でも、もし長生きされても一人孤独で、誰も送ってくれる人もいない、
晩年は心をいら立たせ、不満の多い生き方をしていれば、
いくら長生きをしても、成仏の確率は低くなると思われます。

長生きしたおばあさんが「もう悔いを残すことはない」と言って、
亡くなっていかれました。でも、なかなか成仏できなかったのです。

それは生きているうちに、
どうも死について甘い考えを持っていたと思われるのです。
「人間、死んだらお終いではないのか」という考えです。

また30代、40代くらいでガンなどで亡くなっていく場合、
もし子どもさんがいて、その事が心配で死にきれない、
そんな状態で亡くなっていくと、成仏の確率はかなり低くなると思われます。

特に死の世界のことをまったく学んだことがなく、
死んだらお終いくらいにしか思っていないと、さらに成仏の確率は低くなるでしょう。

また子どもさんなどが亡くなっていく場合、
死んで後、どこへ行っていいか分からない場合があります。

両親がもしあの世のことを信じ、
「天の世界へ帰っていくのですよ」と教えてあげると、成仏しやすいと思われます。

そうではなくて、両親が死後の世界を否定したり、まったく考えもしない場合、
子どもさんは亡くなって、どうしてよいのか分からないので、
成仏の確率は低くなると思われます。

お釈迦さまは、こんな教えを残しています。

最上の真理を見ないで百年生きるよりも、
最上の真理を見て一日生きることほうがすぐれている。

素行が悪く、心乱れて百年生きるよりは、
徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

『真理のことば』中村元訳 岩波文庫

もし短命であっても、何かその短い人生の中で、真理を発見し、
自分のものにする体験があれば、それはすぐれた生き方であって、
その場合、成仏の確率が高くなるということです。

短命であっても徳を積み心乱さないで生きれば、成仏の確率は高くなるのです。

生きることの深さ

『種をまく子供たち』という本があります。

この中に13才でガンになって、19才で亡くなった女の子のことが載っています。
彼女の病気は、急逝骨髄性白血病でした。

彼女は何を発見して亡くなっていったでしょう。

健康で日々美味しくご飯もいただけで、外出も自由にでき、働くことができる人には、
彼女が発見した真理を理解するのは、難しいかもしれません。

こうして本になって、初めて私たちも彼女の発見した真理を知るわけです。
大事なところを引用してみます。

いのちの唯一の目的は成長することにある。
偶然というものはないのだ。

死は怖くない。
死は人生でもっとも素晴らしい経験にもなりうる。
そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。

死はこの形態のいのち(肉体)からの、
痛みも悩みもない別の形態への移行にしかすぎない。

※()は筆者が補う

ここに、
死が素晴らしいものになるのは、その人がどう生きたかにかかっている
と書かれています。

この世に生まれ、何を学び、何を自分の体験としたかが、大切なわけです。

東京にお住まいで、私の本を読んでくださり、
わざわざ私のお寺までご夫婦で訪ねてきてくださった方がいらっしゃいました。
ちょうど私がお寺にいたので、いろいろなことをお話することができました。

帰られて後に、こんなお手紙をいただいたのです。

どんな理由があるにしても、不幸なのは自分だけではないということ。

もっとまわりに目を向けて、
世の中には障害を持っていてもがんばって生きている子どもたち、
難病をかかえて死と向き合い、必死で生きようと闘っている子供たち、
そしてそんな苦しみのなかでも一生懸命生きている子供たちがたくさんいることを
知ってほしいです。

生きたくても生きられない子供たちがいることを、知ってほしいと思います。
そして、命の大切さや尊さを考えてほしいのです。

健康な身体があたりまえなんて思わないでほしい。
生きているのがあたりまえなんて思わないでほしい。

そのあたりまえでない子供たちがたくさんいるのですから…。

これがお釈迦さまがいう真理なのです。

自分がガンで、もうあまり生きていられない。
そんなところから悟った真理です。

「生きているのがあたりまえなんて思わないでほしい」
というところから推測すると、
彼女は生きるということがどういうことなのかを深く知ったのでしょう。
短命であっても、真理を見られたのですから、充実した人生であったと思います。

もしかしたら、私たちにこの真実を教えるために、菩薩行(ぼさつぎょう)として、
この世に彼女は生まれてきたのかもしれません。

こんな真理を知って亡くなっていけば、やはり成仏の確率は高いと思われます。

延命死と自然死

次に延命して亡くなっていく人と、自然に亡くなっていく人の成仏の確率です。

延命も大事ですし、
自然に食べ物が食べられなくなって死んでいくことも大切であると思います。
でもこれからは、後者の年を取り、食べ物が喉を通らなくなって死んでいく。
そんな死に方を望み、そうして亡くなっていかれる人が増えていくような気がします。

医師で100才になられ、まだ活躍されている日野原重明(ひのはらしげあき)さんは、老年の最期にしてはならないことを二つあげています。

一つは点滴だそうです。点滴は生体のバランスを失わせるのだそうです。
食べられないなら食べられないなりに、飲まないなら飲まないなりに、
かなりひどい状態であっても、何とかつじつまを合わせて生きていけるような、
そんな仕組みが人間にはあるようで、それを点滴が強引にくずしてしまうのだそうです。

医師であり『「平穏死」のすすめ』という本を書かれた
石飛幸三(いしとびこうぞう)さんは、この本の中でこんなことをいっています。

病院では最後まで点滴をします。
最期になると体は水分や栄養を受け付けないのに、それでも入れ続けます。
ご遺体の顔や手足がむくみます。

これに比べて自宅で自然に亡くなられた場合、きれいなお顔をしています。
点滴で余分な水や栄養が体に入らないからです。

日野原さんの2番目にしてはならないことは、気管切開だそうです。
言葉を失い、意思表示が出来なくなるからです。

延命は大切とは思いますが、過度の延命は返って成仏を妨げることがあるようです。
その人の寿命がきたときには、自然に送ってあげたほうが、成仏しやすいのです。

80才すぎのおじいさんがガンでもう3カ月といわれ、
よく考えてから、何の治療もせず自然に任せて生きていくと決められました。

その人は2年少し生きられて、最期は冷たいアイスクリームをいただいて
「うまいなあー」といって亡くなっていかれました。

尊い逝き方だと思います。

ぽっくり逝くのと寝たきりの場合

夜寝て、朝になったら亡くなっていたという人がおられます。
いいなあと思ってしまいますね。

でも、です。
もしかして、死んだことが分からないかもしれません。

みなさんが亡くなられた時、おそらくお医者さんが来て、
「ご臨終です。亡くなりました」というでしょう。

でも、突然そんなことをいわれても、
死んだことが分からない人が多いのではないかと推測します。

なぜなら、まだ魂(心、精神)としての自分が生きているからです。
そんなときに親戚の人が集まってきたり、お坊さんが来て、お経をあげている。
葬式もしてみんな悲しい顔をしている。そんな状況を見て、死んだことを理解するのです。

ぽっくり逝くのも理想のような気がしますが、
このような死の話を生前聞いていて、それを信じていれば成仏しやすいのですが、
一度も死について学んだこともない人が、ぽっくり逝っても、成仏しにくいと思われます。

なかには、仏さまを信じ、あの世も信じていて、
ある日、畑に出て一生懸命働き、少し土手で汗を拭きながら休んでいて、
そのまま亡くなっていったというおばあさんがいました。
こんな人は成仏の確率は高いでしょう。

また寝たきりで10年とか15年という人もいます。
意識がしっかりしていればいいのですが、意識も定かでない人は、
亡くなって、死を受け入れることができないかもしれません。

寝たきりでも、神仏を信じ、あの世の世界も信じて、
常に学びをし、感謝の思いを忘れないでいれば、成仏の確率は高いと思います。

死の告知と死を告知しない場合

私の父が亡くなったときには告知をしませんでした。
もう40年近くも前のことですから、その人の死期が分かっていても告知しないという時代でした。

今は告知する場合が多くなってきたようですが、
できれば告知をしてもらって、生きているうちに死を受け取り、
旅立っていくための心の準備をしたほうがよいと思います。

また家族とのお別れをちゃんとして、
残していく人の暮らしの段取りをしっかりしていったほうが、
本人にとっても悔いを残さない旅立ちができるでしょう。

また逆に逝く人が死への心構えができないでいて告知しても、
返って心を取り乱してしまう場合もあります。
その場その場での対応が違ってくるでしょう。

大切なことは、元気なうちに、告知をされても心乱さず、
死を受け入れ、旅立ちの準備ができる心構えを作っておくことです。

死に場所

死に場所として一番多いのが、今は病院であるというお話を以前致しました。
これからホームで亡くなっていく人も増え、希望としては家で亡くなっていける場合もありましょう。

昔は家で亡くなると、この世のこの家に、
いつまでもいたいという思いが強く出て成仏しにくいというので、
阿弥陀堂にこもって亡くなっていくという時代もありました。

今はそんな阿弥陀堂もないので、できればみんなに温かく見守ってもらえる、
そんな状況の中で亡くなっていければ、どこの場所でも成仏は高いと思われます。

あの世を信じている人と信じない人

それでは最後に、あの世を信じている人と信じない人の成仏の確率ですが、
これはもういわなくても理解できると思います。

いままで成仏の確率で、さまざまな場合を考え、答えてきましたが、
要は、あの世を信じるか信じないかによって成仏の確率が違ってくるのです。

長生きをしても短命であっても、あの世を信じて、そのための生き方をしている人は、
命の長短に関わらず、成仏していくでしょう。

いかにあの世を信じることが大切であるかを知っていましょう。

死を受け取るということ 5 慈しみの衣(ころも)を着る

今までさまざまなことをお話してきましたが、紙面の関係で、残りわずかになってしまいました。
そこで最後に「慈しみの衣を着る」というお話をします。

衣といえば、お袈裟を思いだしますが、
人を介護するとき、あるいは共に手を取り合って生きていくときに、
慈しみの衣を着ることが大切であるのです。

こんな仏典のお話があります。

昔お釈迦さまが活躍していたころ、ニーチィという男がトイレ掃除の仕事をしていました。
身体までトイレの臭いがついて、子どもたちも「くさい、くさい」と近寄りません。
ニーチィは、「もうこんな仕事はいやだ」と不平をもらしていました。

ある日、ニーチィは目の見えない老人に会いました。

その老人はニーチィに、
「私は目が見えないが、鳥の声も聞け、何の不満もない。
ただ一つだけ、あなたがうらやましいことがあるのです」

ニーチィは「この私がうらやましい?」と答えます。

老人は「そう、あなたは人の役立つ仕事をしているからです」
その答えを聞いてニーチィは、私のことをこんなふうに見てくれる人がいるんだと思ったのです。

あるときニーチィが路上でお釈迦さまに出会いました。
お釈迦さまは、やさしくニーチィの肩に手をかけて、
「私をさけることはないのだよ、ニーチィ。
あなたは私と同じ衣を着ているではないですか。
人の嫌う仕事に勤(いそ)しむ。それがあなたの本当の香りなのですよ」

ニーチィは有り難くて、思わず手を合わせ、お釈迦さまを礼拝しました。

こんな話です。

ニーチィはトイレ掃除の仕事をしていました。
人の嫌う仕事をして役立つ。
それが慈しみの衣を着ている姿に、お釈迦さまには見えるのです。

介護のときには、下(しも)の世話もしなくてはなりません。
でもそんな人の嫌う仕事も、人に役立つ仕事であって、
それを進んですることで、心に慈しみの衣を着ていることになるのです。
そこから芳しい香りが放たれるのです。