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法話

幸せのひだまり 2 幸せのある場所

先月は「さまざまな幸せの形」というテーマで、幸せの意味を考えてきました。
今月はさらに、私たちにとって具体的な幸せについて考えていきたいと思います。

幸せのある場所です。

健康であるということ

自分にとって幸せとは何かと問うてみると、
「幸せとは健康であること」という意見が多いようです。

健康なので、食事も美味しくいただけ、お通じもあり、
仕事もでき、買い物や旅行にもいけます。

散歩や運動など、自由に動き歩くことができますね。

私が以前、病気をしたときのことです。しばらく食事ができなかったのです。
食事ができるようになっても、おかゆを食べていました。

そんなとき、病院でテレビを見ていると、
食事の場面などが出てくるのです。

そのとき、
「この人たちは健康だから、あんなに食欲があって、
脂(あぶら)の強いものでも平気で食べている。いいものだなあ」
と思って見ていたものです。

看護師さんが来ても、元気で働いているようすを見ては、
「健康だから、あんなに元気に動き回れるんだ。いいものだなあ」
と思ったものです。

病気よりも健康の方が幸せでいられます。

病気は、無理をしたり、ストレスをためたり、
不摂生(ふせっせい)をしたりして発病するものです。

規則正しい生活をし、食べ物を良く噛み、適度な運動に心がけ、
よく休み、日ごろから健康管理をしておくことが大事でしょう。

なかには大病して大変な思いをすることもあります。
そんなとき、「いつもいつも幸せ」などとは言ってはいられないかもしれませんが、
そんな中でも幸せの光はさし続けています。

それに気づくか気づかないかで、幸せの量が変わってきます。
支えられている自分を感じたり、一人ではない自分を思い、
感謝の思いに心癒される気づきもあります。

神のみわざ

この話は「聖書」にでてくる話です。

私は仏教者ですが、真理という目から見ると、
「聖書」にも教えられるものがたくさんあります。
分け隔てなく、真理を大切にする思いをくみ取っていただき、お読みください。

「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神とともにあった」
という書きだしで有名な『ヨハネによる福音書』があります。

その福音書の第9章にでてくる話です。

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちはイエスに尋ねて言った。
「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。
本人ですか。それともその両親ですか」

イエスは答えられた。
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」
(中略)
「私はこの世にいる間は世の光である」

イエスはそう言って、地につばをし、そのつばきで、どろをつくり、
そのどろを盲人の目に塗って言われた。

「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」

そこで彼は行って洗った。
そして見えるようになって帰って行った。

(日本聖書協会より)

こんな物語があります。

ここに出てくる「神のみわざ」というのは、神の深い意味ある行いということです。

ここで、この人が「なぜ生まれつき盲人であるのか」と弟子が聞くと、
イエス様は「本人でも両親でもない。神のみわざが現れている」と言っています。

神のみわざというのはとても難しい表現ですが、
たとえば「この盲人に神の姿を見よ」と言っているのかもしれません。

神が代わりに盲人になられて、
目の見える自分に感謝したり、目の見えない人に慈しみの思いを投げかけたりと、
そんな気づきをしなさい。そう教えているのかもしれません。

自分自身が大病したり、不自由な身であったなら、神が我が身に宿られて、
大いなる人生の気づきをしなさいと言われているかもしれません。

そんな病の人を見て看病し、お世話をする人は、
病の人に神が宿られていると思い、慈しみの思いを抱いて接する、
そんな修行をさせていただいているのかもしれません。

仏のみわざ

奈良時代に生きられた光明皇后は仏教を守り、
その精神に基づいて、貧しい人に施しをする悲田院(ひでいん)や
医療施設である施薬院(せやくいん)を作ったのは有名です。

あるとき光明皇后が、
重病の(らい病)患者の膿(うみ)を吸って、その患者を助けたところ、
その人が阿しゅく如来(あしゅくにょらい)であったという逸話があります。

「神のみわざならぬ、仏のみわざ」が、その患者に現れていたといえます。
時代や地域をこえ、神仏の思いは一つなのだと思います。

2020年に東京でオリンピックが開催されることになりました。

最終プレゼンテーションで、
みなさんが感動的なスピーチをされたのをテレビで見ました。

その中で宮城県気仙沼出身で、
パラリンピック陸上女子の佐藤真海(まみ)さんのスピーチも良かったと思います。

彼女は19才のときに、骨肉腫になって足を切断し失ってしまいました。
過酷な絶望の淵に沈んだようですが、
「何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、
失ったものではないということを学びました」

と語っていました。笑顔の美しいスピーチでした。

その笑顔の中に神仏のみわざを見たのは、私ばかりではないと思います。
足を失った。そこに神仏のみわざがあるのですね。

そう考えると、幸せはどんな立場におかれても、
どんな状況の中でも手にすることのできるものだと思うのです。

病や不自由な身になっても、もしそこに何か尊い気づきをえれば、
それは幸せな出来事として振り返ることができます。

病や身が不自由な人がいらっしゃるゆえに、健康の有り難さを知る私たちですし、
尊い学びをさせていただけるのです。

そうです。
いつもいつも幸せなのです。

働き、お金を得られること

次に言えることは、「働いて、お金を得られること」です。
これはまた幸せなことです。

生活保護の問題で、ある人気芸人が5000万円もの収入があるのに、
母親が生活保護を受けていたということが報道され、結構責められていました。

働くことのできない人や、
働いても給料が少なく、子供を養っていけない時に、
助けてあげるのは大切なことです。

でも、生活保護を受けていると、お金をもらえるのがあたりまえになって、
人として堕落してしまうので、早く働き口を見つけ、自立したいという母親もいました。
そんな生きる姿勢は、尊いと思います。

働くことは、その対価としてお金をいただき、それを生活の糧にすることができます。
そればかりでなく、働くことで人様のお役に立てるのです。
それが生きる充実感を生み出し、幸せ感を増すのです。

世の中には怠け者のような人がいて、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、
それで身上(しんしょう)をつぶしたという歌がありました。

遊び暮らして生きていければ、こんなに楽なことはありません。
でも、それでは生まれてきた甲斐がありません。

そんな生き方からは、本当の幸せは得られないと思われます。
なぜならば、仕事の意味である傍(はた)を楽にし、
人のお役に立って幸せはやってくるからです。

この「法愛」も1300部ほどになりました。今年で19年目になります。
こんな冊子でも作るのに勉強も必要ですし、時間もかかります。
朝寝、朝酒、朝湯をしていては作れるものではありません。

この「法愛」を努力して作っている、そのことがすでに幸せです。
さらに楽しみに待っていてくださっている人がいる。

実際に読んで、この「法愛」から何かを得て幸せの道を歩いて行ける。
そんな人が多くいてくだされば、さらに幸せなことです。

この「法愛」を読んで、
「天からふってきた金貨のようです」と言ってくださった人もおられました。
「法愛」から得られるお駄賃(だちん)だと思って、心良く受け取っています。

よく働き、お金を得て、生活が安定している。
とても幸せなことです。

家庭のあたたかさ

家庭があたたかで、いつも笑顔が絶えない。
そんな家庭を持つことを多くの人が願っています。
これも大切な幸せです。

家庭は大切な家族の居場所です。
居場所というのは、心が落ち着いて安心していられる所です。
みんなそんな居場所を、家庭の中に求めています。

それが夫婦が不和であったり、
みんなが不満をいって笑顔が消えた家庭になってくると、
家庭に居場所がなくなり、みんなが家に帰りたくないと思うようになります。
そこには幸せはありません。

互いが互いを認め合いながら、思いやりをもっていれば、
家庭も和やかになって、幸せの花が咲くのです。

思いやりは、ただ心の中で思っているのでなく、
言葉で相手に伝えなくてはなりません。

こんな投書があります。静岡在住の女性(71才)の方の投書です。
旦那さんが、言葉で感謝の思いを伝えています。
ありがとうの言葉が家庭をあたたかにするのです。

「最期の言葉」という演題です。

「最期の言葉」

病を得た知人から
「夫を亡くして生きるということはどんな気持ち?」
と聞かれました。

後に残される家族の気持ちを思いやってのことかなと推測し、
「夫が亡くなってから5年はとてもつらかったけれど、今は幸せよ」
と答えました。

私の場合、夫が残してくれた言葉がいくつか心に残っています。

まず何より「お前と結婚して幸せだったよ」と言ってくれたことです。
この言葉で、人には言えない苦労も全部許せてしまいました。

また、夫が胃がんで最後に入院する時、
北海道にいた息子と、近くに住む息子を呼び寄せて、
「お母さんは偉大だぞ。大事にしてくれよ」と頼んでくれました。

今まで暴言を吐かれたことはあっても、優しい言葉など聞いたこともなかったので、
私は「黙って耐えてきた私にこんなことを言ってくれるなんて」とびっくりしました。

そして最期までいつも「ありがとう」と言ってくれたのです。

私は知人にこう言いました。
普段はなかなか言えない感謝の言葉だけれど、
別れの時が来る前に心を込めて「ありがとう」と言うことが、
残された家族に対して平安を与える言葉だと思うし、思いやりだと思う。
今までの苦労が全部帳消しになって、良い思い出だけが残るからねと。

亡き人の感謝の言葉、優しい言葉は、残された家族にとって
寂しさを乗り越えて前向きに生きる元気の源になると思うのです。

(毎日新聞 平成22年7月2日付)

川柳に面白半分でしょうが、自分の妻のことを
「美しい 花でもないのに トゲがある」
というのがありました。

言葉は大事で、家庭の中でも「ありがとう」とか「お世話になるね」とか、
相手を気づかう言葉を使うことで、家庭があたたかになり、
みんなが集う居場所になるのです。そんな家庭は、いつもいつも幸せです。

暴言を吐いたことのある夫が、「お前と結婚して幸せだ」とか、
息子さんたちに「母を偉大だぞ。大事にしてくれ」
という素直な思いを言葉に現わせたこの男性は、
悔いのない幸せな人生を生きられたと思います。

多くを学び、精神的に大きくなっていく

今までの幸せは、健康、仕事、家庭といった目に見える幸せでした。

この目に見える幸せの中に、
健康では「神仏のみわざ」を、仕事には「人に役立つ生き方」を、
そして家庭には「思いやりの言葉」をと、精神的な考えが入っていました。

それは精神的な学びを積み、
それを健康や仕事、家庭に生かしていくことが幸せに通じていくということです。
さらには、多くを学び精神的に成長していく。そのこと自体が幸せであるわけです。

そのために多くの教えが残されてきました。
『往生要集』(おうじょうようしゅう・『現代の仏教聖典』から)の中に、
こんな教えがでてきます。

上手に説明はできませんが、「ほんとうにそう思う」としか言えない私です。
お読みのみなさんは、どう感じられるでしょうか。

わたし(著書の源信をいう)もまた、
かの阿弥陀仏の摂取(せっしゅ・仏の慈悲の光に救われていること)したもう
光明の中に在るけれども、
わが煩悩がこの眼を障(さ)えるため、仏を見たてまつることができない。

それにもかかわらず、仏の大悲はあきることなく、
常にわが身を照らし続けてくださる。

()は筆者

信じようが信じまいが、大きな慈悲の心で包んでくださっている仏がいる。
そんな世界に私たちは住んでいる。生かされている。

この真実を知れば、
「未熟な私であるけれど、
仏と同じ思い、仏と同じ心で生きていかなくてはいけないなあ」
と思います。

仏の心とは、ここでは人に役立ちたい心であり、
思いやり深い感謝の心をさしています。

(つづく)