ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

不幸を幸せに変える考え方 1 不幸を知る

今回から数回に渡り、
「不幸を幸せに変える考え方」というテーマでお話しをしてみたいと思います。

このお話は「法泉会」というお話の会で、93回目に行ったものです。
平成21年のことですので、少し書き換えながらのお話となります。

自分を見失うということ

私が20代後半のころですから、ずいぶん昔の話になります。

京都の本山(臨済宗妙心寺)の教化センターで、
研究員をして布教のことを学んでいたときです。
大阪のある会社の依頼で法話と坐禅の指導にいったことがありました。

京都から私鉄に乗って大阪の梅田の駅で乗り換えをしたのです。
初めて行く知らない駅でしたので迷ってしまい、30分ほど行ったり来たりしました。

これでは会社に遅れしまうと何度も不安に思いながら、あちこちとさまよい、
やっとの思いで乗り換え、会社についたことを覚えています。
道を見失う大変さを今でも覚えていて、梅田の駅を迷い駅と思っているほどです。

これは道を見失う私の体験でしたが、自分を見失うこともあります。

自分を見失い、人生に迷っては疲れ、不幸を思うのです。

それが自分だけの不幸であれば、
他人に迷惑をかけないので、事件にまではいかないのですが、
誰でもよかったといって、路上で人を殺すような人もいます。

会社が悪い、人生がうまくいかないなどの理由で不幸に陥り、
まったく関係のない人を傷つけ、それで満足する。
そんな生き方は、自分を見失っているといえます。

不幸を思い、自分を見失うと、正しい判断ができなくなります。

ペンを失えば、字が書けません。
バイオリンを失えば、演奏ができません。
家を失えば、帰るところがなくなります。

そのように、自分を失えば、生きていけないでのす。
生きていけないばかりか、さらに不幸の波におぼれ、
他の人を傷つけてしまうこともあります。

不幸にまけない器(うつわ)をつくる

まずは不幸に落ちない、強い心の器を作る必要があります。
その器を作るのが今回のテーマになります。

その前に、ある事例を学んでみます。

これはある新聞(読売)の人生案内に載っていた事例です。

60才半ばの女性で、30代の娘と同居し、3年ほどして、娘と喧嘩になり、
そのとき娘さんから「お母さんのことは、ずっと大嫌いだった」と言われたそうです。

この女性の言い分は、こうです。

定年まで働き、家事も手抜きをしないで頑張り、
娘の希望通りに進学させ、人並みのことをしてきました。

おとなしい夫を支え、
暮していくには自分が強くならなくてはと思い、
少し自己主張が強すぎたのかもしれません。

でも、「大嫌い」と言われ、
今までの自分が否定されたようで、悔しくて、
娘とは普通に会話もできないんです。

心がすっかり凍(い)てついてしまったのです。

こう訴えています。

娘さんは和解しようと思っているようですが・・。

これに答えていた評論家の樋口恵子さんが、
私も相性のよくない娘と毎日のように激しくやり合っていると語り、
母としての心構えを、こう述べています。

親だから思うのです。

私が娘にとって気に入らない親だとしても、
逆に娘にどんな欠点があっても、
親である私は、娘のすべてを、
私への悪口雑言を含めて、
心の底で受け入れなければと思っています。

母としての器の大きさを思います。

耐えるというのか、受け入れるその姿勢は、不幸を蹴散らす力があります。
不幸を幸せに転換してしまう、そんな大きさを思うのです。
そんな強い心の器を作っていくことが必要です。

不幸を幸せに変えてしまう、そんな器を作るための生き方を共に考えていきましょう。

夢も希望もない不幸

まず不幸とはどんな状態のことをいうのか、考えてみます。
まず物事は知ることから始まるからです。

不幸を知る1番目は、「夢も希望もない」ということです。
とてもつらい不幸です。

よく言われることですが、
「悪魔が持っている最大の武器は絶望だ」といいます。
希望がないということです。

その人を絶望に追い込めば、
どんな人でも、不幸にさせることができるというのです。

小学生の将来の夢などで、
男の子はサッカー選手や野球選手が人気だそうで、
女の子はお菓子屋さんやお花屋さん、あるいはタレントといった夢が多いようです。

小学生の子に、「あなたは大きくなったら何になりたい、夢は何ですか」と聞いて
「そんなものない!」と言われれば、この子はちょっと心配な子だなあと
誰しも思います。

年を取って70才くらいで
「お菓子屋さんになりたい」などという夢は持ちづらいので、
ぽっくりいきたいとか、家族に迷惑にならないように逝きたいとか、
そんな夢と望みを持つものです。

できれば精神的な夢や希望を描くようになると、
不幸を幸せに転換できる力になっていきます。

亡くなっていくときに残るものは、財産もありましょうが、
一番大切なものは、その人の生きた精神的なものです。

やさしい人であったとか、
よく働いた人であったとか、
正直な人であったとか、
そんな人の生き方に関するものなのです。
そんな人が惜しまれて亡くなっていけるのです。

ですから、年を経て持つ夢は、
家族やまわりの人に惜しまれて逝けるような人になりたいという夢があるでしょう。
こんな夢ならば、身体が不自由になってもできることです。

私(話者)自身の夢ですが、もう還暦も過ぎましたので、
今は来世からの視点で希望を持っています。

来世困らないようにと勉強の癖をつけ、知識を大切に取り込み、
その中でも真理と言われるものを少しでも多く得て、
現代よりもさらに、人のお役に立てる生き方をする。
これが1つの夢になっています。

誰からも必要とされない不幸

2番目に不幸な状態とは、誰からも必要とされない、ということです。

子どもたちが非行に走るのは、必要とされていない、と思うからだといいます。
必要とされていないから、家に居場所がないのです。

だからもっと認めてもらいたくて非行に走る、そんな場合が多いと聞きます。

これは子どもばかりでなく、老人にも言えることです。
「じいさんは、もう必要がない」
と、若い人に言われれば、これほど切ないことはありません。

年をとっても
「おじいさんがいないと困る。いつまでもいてほしい」
と言われれば、生きがいもでてきます。

お読みの『法愛』も今月で、239号になります。
来月で丸20年になります。

ちょうど150号あたりで、
ある和尚さんと話をしていると、この『法愛』のことになり、
「毎月出しているのか」「そうです」
「それは大変だねえ。そうだ108回目で、そんな大変なことはやめたほうがいい」
と言います。

心の中で「もう150回なんですが・・・」と思いながら、
「もう少し、やってみます」と答えたことがあります。

必要のないものなら止めていますが、
読んで喜んでくださっている人がたくさんいらっしゃったので、
止めるわけにはいかなかったのです。

新しく読みたいという人が増えれば増えるほど嬉しいのです。
でも、そんななかで、止めていく人もおられます。

いろんな理由があるのでしょうが、
「もう『法愛』を送らないでください」と言われるほど、心が寂しくなることはありません。

必要がないと言われるほど、寂しく不幸な思いになることはないのです。

人に信頼や信用をされない不幸

3番目に、人に信頼や信用されないのも不幸なことです。
反対に人に信頼や信用されるのは、幸せなことです。

以前、静岡の臨済寺というお寺で修行中、東北のほうを行脚したことがありました。

ちょうど夏に休みをもらって、
平泉の中尊寺を目指して、蔵王(ざおう)というところから歩き出したのです。

蔵王までは電車を使って行き、
ちょうど蔵王に修行仲間の雲水さん(うんすいと読み、修行中の坊さんをさします)の
知り合いのお寺があったので、紹介をしていただいて、
そのお寺に一晩泊めていただき、そこから歩きだしたわけです。

朝、歩き出す時、お大黒さんが
「ここからは、そのような修行僧の格好をしている人は、
みな乞食に見られるから、気を付けて行きなさいね」
と助言してくださいました。

その時には、その意味がよくわからなかったのですが、
やがて、信用されないことの大変さを知ったのです。

大分県のほうを行脚したときのことです。
ちょうどその朝は台風で、泊めていただいたお寺さんが、
「こんな雨の中では大変なので、もう一晩泊まっていきなさい」
と言ってくださったのですが、2晩も泊めてもらっては申し訳ないと思い、
大雨の中を行脚し始めたのです。

歩いていると道沿いに流れる川が増水し、道にまで水があふれてきます。
藁(わら)の草鞋(わらじ)をつけていたのですが、一時間ほどで切れてしまいました。

草鞋がもったいなので、白足袋で歩いていたのですが、大雨にはかないません。
午前10時を過ぎたころ、ちょうど近くに旅館があったので、
少し休ませてもらおうと声をかけました。

すると中から旅館の女将さんらしき人がでてきて、
「まあ、びしょぬれじゃあないですか。どうぞあがって休んでいってください」
と部屋にあげてくれ、夏にもかかわらず、ストーブを出してきてくれ、
濡れた衣を乾かしてくれたのです。

その日はそこに泊まり、親切をいっぱい受け、幸せでした。
そんな体験があったので、
東北でもみんな修行僧には親切にしてくれると思ったのです。

しかし、です。
夕方になって、ある旅館に声をかけると、私を下から上までじっくり見上げて、
「うちは満員で泊められません」といいます。

その町の別の旅館にいきました。
その旅館でも同じような待遇を受け、
その日は公園のトイレの中で一晩過ごしたのです。

「お金はあります」と言っても、泊めてくれないのです。
満員でもなさそうなのに、です。

「ああ、お大黒さんが言ったように、私が乞食に見えるらしい」
そう思い、信用されないというのは、こういうことなのだと知りました。

人から信頼され、信用されているというのは、尊い財産なのだと思います。
いくら財産があっても、人から信用されなければ、不幸なのです。

感謝することができない不幸

4番目に、感謝ができないことも不幸なことです。

感謝しなくても生きていけます。
ごはんを食べるときに、「いただきます」と言わなくても、
神罰があたるわけではありません。

手を合わせ食事をいただく人となんの変りもないように見えます。
不幸も感じないでしょう。

人の目からみれば、
手を合わせて食事をいただく人のほうが、少し尊いと思えるくらいです。

でも、神仏(かみほとけ)の世界から見ると、
ずいぶん違ってみえるのではないかと思います。

感謝できないで、食事をする。
その人の心の貧しさを神仏は見ていると思います。

こんな詩がありました。
少女が感謝してお辞儀をする、そんな詩です。
「少女」という題です。

「少女」

押しボタン式信号を
渡り終えた
学校帰りの少女が
振り返って
深々とお辞儀をした
今渡った道に?
止まっている車に?
少女に
時を与えてくれた全てのものに
心を込めて一礼した
少女と時を共有していた
全てのものが
幸福な気持ちになった
静かに そして熱く

(産経新聞 平成26年9月25日付)

少女が信号を渡り終えて、深々とお辞儀をしたのです。
このお辞儀は感謝の姿です。

伊那市の小学生も、信号のない道を車が止まって道を渡してくれると、
頭を下げてお礼をする子どもはたくさんいます。
それを見ただけで、こちらがありがたくなります。

この少女は信号のある道を渡り、渡り終えてお辞儀をしたのです。
このような子は、なかなかいません。

神様が通りすぎたように、この詩の作者も一礼し、
少女の思いとひとつになり幸せに包まれました。

感謝する幸せの世界が、少し見える思いがします。
感謝できるからこそ、こんな世界を感じることができるのです。

信仰をもてない不幸

そしてもう1つ不幸なことは、神仏を信じないことです。

見えない大いなるものに、畏敬の念を持つことは、人として最も尊いことです。
その心を失っているのは、不幸の時を生きているといえます。

なかなかこの真理を得るのは難しいことです。
信じなくても生きていけるからです。

でも、手を合わす幸せや、そこから得られる心の安らぎは生きる力を与えてくれます。
その力が素晴らしいのです。

(つづく)