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法話

幸せと人間関係 1 複雑な人間関係

今回から「幸せと人間関係」というテーマでお話をします。

このお話は法泉会というお話の会で話したもので、平成21年の9月のことです。
6年ほど経っているので、必要なところは、少し書き換えながら進めていきます。

修行僧堂の人間関係

人間関係というのは複雑で大変なところもありますが、
逆に相手に助けられたり教えられたりで、自分の心を培う働きもしています。

私の息子が修行に行っているとき、8月のお盆にお寺を手伝うために、
10日ほど休みをいただいて修行僧堂から帰ってきたことがありました。

そのとき、2人でお盆の棚経で檀家さんを廻っているとき息子に、
「お前、今修行をしているけれど、
僧堂の修行も大変だけれど、人間関係も大変だろう」
と言いましたら、
「そうだ」
と言います。

そのとき「ああ、私と同じだなあ」と思ったことがありました。

修行僧堂に私が入った当時は、お寺に24人ほどの修行僧がおりました。

男ばかりで、毎日、衣食住を共にして暮らすというのは大変なことで、
軍隊なみの上下関係があったり、あるいはいじめがあったり、
怒鳴られたりと大変でした。

修行そのものは慣れれば何とか乗り越えられるのですが、
他の修行僧との人間関係が「こんなに大変なんだ」というイメージがあって
忘れられないでいるのです。

同じ場所で、人と人とが毎日暮らしていくのは大変なことだと思うのです。

聖なる沈黙

私たちが、禅的にいえば、悟りを得るとか、
一般的にいえば、人格を向上させていくために、
静かな場所で独りで考え、自らを見つめる時間を持たなくてはなりません。

今この『法愛』では「法華経」を詩的に表していますが、
その前は「釈尊の願い」と題して、お釈迦様の生涯を詩的に綴ってきました。

その95番(2008年11月)は「聖黙(しょうもく)と法談」でした。
その中で聖黙を、

聖黙とは聖なる沈黙で
坐禅瞑想して真理を深く探究しいく
独り沈黙を守りながら
真理と自分が一つになっていくのである

当時、修行僧がしなくてはならないのが、
この聖黙のように、静かな場所で独り真理と相対することをしていたわけです。

法談は、無駄話をしてはいけないということで、
女の人の話や男の話、世間のうわさやつまらない隣人の話、
食べ物や衣服の話はしてはいけないことになっていました。

そんな話ではなく、
少欲や知足の話、努力の大切さや戒め、智慧の話などするのです。
それが十個あって、それを難しくいうと十論事(じゅうろんじ)といいます。

独り静かに瞑想し、人と相対するときには、
悟りにつながる真理の話をしなさいと言われ、修行していたわけです。

私たちの普段の生活の中では、複雑な人間関係がありますので、
独りで静かに過ごすというのも難しいことですし、
世間話をせずに、いつも少欲や知足、努力や戒めの話ばかりしていると、
返って敬遠されるかもしれません。

家族のなかでは普通、朝ご飯や夕ご飯の話、衣服の話や子どもの話、
テレビや新聞などの話をして、真理につながる話をするのは少ないと思います。

ですから、心の隙間に、不平や怒り、不満や憤(いきどお)りの思いが入り込み、
心が乱れて、互いが上手くいかなくなることが多いのです。

このことは人間関係ばかりでなく、神様の世界もあるようです。

天照様のこと

『古事記』の中にたくさんの神様が出てきますが、結構争いごとをしています。

その中で天照大神様と須佐之男命(すさのうのみこと)が出てきます。
須佐之男命がヤマタノオロチを退治したのは有名です。

この2人のお父さんが伊耶那絵岐神(いざなきのかみ)です。
お父さんが子を生んでいます。不思議な世界ですね。

詳しい説明はさけますが、
お父さんが左の目を洗うと、昼の神である天照様が生まれます。
右目を洗うと、夜の神である月読命(つきよみのみこと)が生まれ、
鼻を洗うと海原を治める須佐之男が生まれます。

この須佐之男が荒々しく、お姉さんである天照様に悪さをするのです。
天照様が田を作っていると、その田を荒し、
また天照様の神聖な場にくそをしたりします。

でも天照様は、須佐之男のことを悪く思わず、
何か特別な理由があるのだろうと許してあげていました。

でもあるとき、
天照様が神様に献じる衣を機織姫(はたおりひめ)に織らせていると、
須佐之男が、まだら毛の馬の皮を逆さにはぎとって、
それを機織小屋に穴をあけて、投げ込むのです。

そのショックで、機織姫が転げ落ちて、
尖(とが)った機具に刺さって死んでしまいます。

それを知ると、さすがに怒り恐れて、
天岩戸(あまのいわと)に身を隠してしまうのです。

兄弟喧嘩といえばそうでしょうが、非常に人間的で、
神様も相手の良い所を見て許してあげるのですが、
あまりにも乱暴を働いたり、悪いことをするとお怒りになるのです。

ましてや凡夫の私たちは、人と人との関係で、傷ついたり、
怒りを感じたり、不平不満を思ったりするのはあたりまえかもしれません。

そんな人間関係を見直し、
そこから幸せを見つけだしていくにはどう考えていけばよいのでしょう。

幸せの思い

ごく普通に考えられることは、
相手がいて幸せになったり不幸になったりすることです。

幸せな関係をいえば、まず相手にほめられたときなど幸せを感じます。
少し挙げていきます。

親切にしてもらったとき、やさしくしてもらったとき、笑顔をもらったとき、
思いやりの言葉や、励ましの言葉、感謝の言葉などいただいたときなど、
みな幸せを思います。

最初に「ほめてもらったとき幸せ」と書きましたが、
なかなかほめてもらえる機会というのは少ないものです。

子どもはほめて育てよとよくいいますが、
大人になると、ほめていただく機会は少ないものです。

昨年ある方から葉書をいただいて、その中に、

葬式仏教と言われる現在、
すばらしい「法愛」を無料で毎月送っていただき恐縮しております。

とありました。

ほめてくださっているのだなあと思い、とても心があたたかくなりました。
ありがとうございます。

この方の言うように、仏教が葬式仏教と揶揄(やゆ)されていますが、
でもお葬式のお布施のおかげで、この「法愛」を無料で出すことができます。

また葬式という儀式は、
亡き人をあの世に無事に送ってあげるためのとても大切な儀式です。
ですから葬式の儀は、心をこめてさせていただいています。
きっと、どの和尚さんもそうだと思います。

不幸な思い

不幸を思う場合はどうでしょう。挙げてみます。

相手にけなされたとき、いじわるをされたとき、つらく当たられた時、無視されたとき、
嫌な顔をされたとき、きつい言葉や怒りの言葉をいただいたときなど、
辛い思いをします。

きつい言葉と書きましたが、よく私は「はげ坊主!」と言われます。
特に小さな子に言われ、心が動揺するときがあります。

そんな言葉を少し挙げてみましょう。
相手に言われるきつい言葉です。

「ろくでもないやつだ」
「またあなた、失敗したのね」
「あなたなんか大嫌い」
「あなたを生まなきゃよかった」
「お前なんかいないほうがいい」
「死んでしまえ」

たくさん出てきます。

言葉1つで、不幸な思いになったり、幸せになったりします。

昔こんなことがありました。
布教師の研修会に本山(京都の妙心寺)へ行ったときのことです。

その研修で何人かが研究発表をすることになっていて、私もその1人でした。
ずいぶん資料を集め、20分ほどの発表をしたのです。

私の資料には幾つものグラフが載っていて、
話の中で、「○○ページに印刷してあるグラフを見てください」と、
聞いてくださっている布教師さんたちにお願いをしたのです。

顔をあげてみなさんを見渡すと、1人グラフを見ていない人がいました。
「この人は私の話を聞いていないのだなあ」と思い、20分の発表を終えたのです。

みんなが発表を終えると、公評といって、
発表者の良し悪しを言ってくださる古株の布教師さんが演台にたたれたのです。

なんとその布教師さんは、
私がグラフを見てくださいとお願いしても見てくださらなかった、
たった1人の布教師さんだったのです。

「私の話をまともに聞いていないのに、公評ができるのかなあ」
と疑問に思って聞いていましたが、
やはり私の研究発表は良い公評ではありませんでした。
なんかしっくりしない、人間関係を思いました。

研修が終わって、他の先輩の布教師さんが私のところに来て、
「やはりあなたは哲学的ですね」と笑顔で言ってくれました。

その人は私を本山の研究委員に推薦してくれた和尚さんで、
私が大学で哲学を学んでいたので、法話が哲学的なことを知っていたのです。
こちらの布教師さんは、どうも私をほめてくださったみたいです。

人の見方というのは、いろいろなのですね。

相手に不満を思う

相手がいて幸せと不幸に分かれていくのですが、
もう少し自分の心の奥底を尋ねていくと、
どんな思いが幸せや不幸を招き寄せているかを考えてみます。

不幸な思いに中には、マイナスの思いがあります。
マイナスの思いは、不満、怒り、貪欲、嫉妬、恨み、
あるいは相手の仕打ちをつらいと思う辛(つら)みの思いもあります。

たとえば、不満の思いを考えてみます。

護国寺では女性部の旅行が毎年あります。
いつもどこにいくか迷うのですが、ある年に軽井沢のほうへ行った後に、
旅行の清算に添乗員をしてくださった旅行者の方がお寺に来られました。

いろいろお話をしていると、バス内に持ち込む飲み物の話になったのです。

団体のバス旅行で、飲み物を持ち込みます。
今はお茶でもたくさんの種類があり、他に麦茶とかウーロン茶などあります。
それぞれの人の好みがあるので、添乗員さんが考えて飲み物を買っていって、
バスの前のほうから好きな飲み物を取ってくださいと分けていく。

後部座席のほうになると、好きなものがなくなってしまって、
「私お茶を飲みたかったのに、ウーロン茶しかないじゃない」と不満を言う。
だからお茶なら同じ種類のお茶だけ持っていったほうが無難です。そう言うのです。

ビールでもアサヒを持っていくと「私はキリンのほうがいい」とか、
キリンでもいろんな種類があって「ラガーがいい」とか。
さまざまな要望がでて、大変なことがあるといいます。

バス内での飲み物でさえ不満がでるのですから、
日々の人間関係で、不満に思う出来事がたくさんあるのは当然かもしれません。

相手を嫉妬してしまう思い

相手に嫉妬する思いもあります。

松下幸之助さんは、この嫉妬のことを「万有引力と同じだ」と言っています。
引力はすべての人に等しくありますので、それと同じように、
この嫉妬はすべての人の心にあるというのです。

この嫉妬は相手がいて初めて出てくるマイナスの思いです。
私でさえ話の上手な坊さんがいれば嫉妬するもしれません。

嫉妬は自分がそうなりたいのに、なれないところからきているので、
相手を祝福してあげると、やがて自分も嫉妬した相手のように、
優れた人になっていけるのです。

こんな悩みを持った50歳代の女性がいます。

50歳代の主婦。人の幸せをねたむ癖が直りません。

20歳代の頃、親友が玉の輿(こし)に乗ったのをみ、
絶縁状を送り付けたことがありました。

幸せな人はすべてねたみます。

五輪の金メダリストの親が憎らしい。
野球ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した選手の妻たちが憎らしい。

日本選手が金メダルを取るとイライラし、
喜んでいる人たちを見て、なんて純粋なんだろうと思います。

宝くじの高額当選者のことを考えるだけで憎らしい。
売れっ子の芸能人の親や、東大合格者の親も憎らしい。

私には3人の成人した子どもたちがいますが、
みなまだ独身なので、他人の孫の自慢話をされるのが苦痛です。
年賀状に赤ちゃんの写真が印刷されていると破いて捨てます。

こんなにねたんでばかりいたら、地獄に行くのではないでしょうか。

(読売新聞 平成21年7月1日付)

そうですね、きっと地獄にいきます。

人間関係とは、かくも難しいものなのですね。

この女性は特別かもしれませんが、年賀状に赤ちゃんの写真が載っていたら、
「あら、可愛いわね。良かった。幸せそう」と、相手を祝福してあげるのです。

自分がそうなりたくて、今はなれていないので嫉妬しているのですから、
相手の幸せを喜んであげると、やがて自分もそうなっていくのです。

(つづく)