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法話

憂いのない来世 1 来世の存在

今月から、『憂いのない来世』という題でお話しを致します。

このお話は97回目の「法泉会」という法話会で話したものです。
平成22年3月25日のことです。5年ほど前になりますので、少し手を加えて進めていきます。

来世について

まず、ここでお話しする来世の意味は、亡くなって後に行く世界のこととします。

転生輪廻(てんしょうりんね)し、生まれ変わり死に変わりして、
時代の異なった世界に生まれ変わることまで視野にいれると、
話がとても複雑になります。

ですから、来世を「亡くなっていく死後の世界」というぐらいの範囲に止め、
お話をしていきます。

憂いとは

憂いとは、自分の思ってもみなかったような不幸が起きたときに、
不安になったり、嘆き悲しんだりするという意味があります。
あるいは、前にしたことを後になって後悔し、
不幸な思いになる場合もあります。

なぜ、このような後悔する憂いに至るのかです。
それは真実を知らずに、あるいはその真実を信じなかったために、
しっかり仕事をしなかったり、生きてこなかったからといえます。

死後の世界である来世に行って、憂うることなく、そこでも幸せに暮らせる。
そのためにはどう生きていったらよいのか、
どのような考えを大切にしていったらよいのかを考えてみます。

アリとキリギリスのお話

『イソップ物語』の中に、「アリとキリギリス」の話があります。
この物語はよく知られているお話です。

アリが夏の間一生懸命働いて冬の食べ物の蓄えをしているとき、キリギリスは、
「アリさん。どうしてそんなに汗を流して働くんだい」
と、バカにしたようにアリに問いかけます。

アリは
「今は夏で食べ物がたくさんあるけれど、
冬になれば、何の食べ物もなくなるんだよ。
その時、困らないように、食べ物を蓄(たくわ)えているんだ」

「そんなの冬になってみなくちゃあ、わからないだろう。
今はこんなに食べ物があるんだ。
遊んで暮らしていたほうが、楽でいいじゃないか」
そうキリギリスはアリに言って、働こうとしませんでした。

やがて冬が来て、あたりに食べ物がなくなると、
キリギリスは、初めてアリの言ったことを理解し、
アリに食べ物をもらいにいきました。

でも、アリに断られ、辛い苦しい思いをしなくてはなりませんでした。

このようなお話でした。

キリギリスは働かないで遊んで暮らしていたことを後悔し、憂いています。

なぜ、キリギリスは後悔し憂いているのかと考えると、
冬になったら寒くなり、食べ物がなくなってしまうという
事実、真実を知らなかった。
あるいは、食べ物がなくることを信じようとしなかったからです。

ですから真実を知らないので、
夏の間、コツコツと働いて、冬に準備をしなかった、
努力をしなかったわけです。

できれば、疲れたときには音楽で身体を癒しながら、
冬のために働いて、すこしずつでも、蓄えを作っていく。
そんな生き方ができればと思うのです。

世に行って困らないように、
この世でしっかりした生き方をしておくことの大切さを、
この物語から察することができます。

来世を恐れない方法

仏典を調べていくと、来世について、たくさんのことが書かれています。

その来世を信じ、確信を持って伝えられる宗教家、
坊さんが少なくなってきているように思えます。

この「憂いのない来世」という題は、どこから出て来たかというと、
『神々との対話』という仏典からです。

お釈迦様は当時、神々様にも法を説いていました。
天に住んでいる神々が、わざわざ天から降りてきて、お釈迦様に教えを乞うのです。

その神の問いに、お釈迦様がお答えになったのを綴ったのが、
『神々との対話』という仏典です。

この中に記してある神が、
「何に安住したら、かの来世を恐れないですむのでしょうか」
という問いを投げかけます。

お釈迦様は、

ことばを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、
もし飲食(おんじき)豊かな富んだ家に住んでいるならば、
〔一〕信あり、
〔二〕秀和で、
〔三〕よく分かち与え、
〔四〕温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない。

(ブッダ『神々との対話』中村元訳 岩波文庫)

来世を恐れないですむというのは、
来世に不安がない、憂いがないということです。

そのために、生き方の工夫が書かれています。
ことばを正し、悪事をしないと説いています。

この方法も、アリが夏の間、コツコツと働いて食べ物を蓄えていたように、
この世においてコツコツとことばを正し、悪事をなさない。
そんな生き方が、来世にいっても心配なく暮らせる方法と受け止めることができます。

見えない世界

お釈迦様が実際に活動されていた時代は、
見えない世界を信じ、実際に神も存在することを知っていたのです。

あるいは『悪魔との対話』という仏典もあるので、
目には実際に見えない悪魔の存在も知っていたのでしょう。

ですから当然亡くなると、あの世があって、
どうすれば幸せなあの世の世界へ帰っていけるのかを考え、
そんな世界に帰るのに、どんな生き方があるのかを、お釈迦様に聞いたのです。

現代社会は、非常に便利になり、
この世で生きていくのに、とても暮らしやすくなりました。

ですから、見えない神仏やあの世のことを信じなくても、何の不便もないので、
見えない世界を信じない人、あるいは尊ばない人が多くなってきたのかもしれません。

でも考えてみれば、この世限りの生き方をしている人よりも、
見えない世界を信じながら、できるならば神仏を信じ、
亡くなったならば、そんな神仏に守られた温もりのある世界に帰っていきたい。
そう信じて生きている人のほうが、尊い生き方をしていると、私には思われます。

この思いは亡くなった方を送ってあげるとき、鮮明にでてきます。

この世限りで生きてきた人は、葬儀を重視しません。
神仏を信じ、あの世という来世を信じている人は、
亡くなった方の御魂を大切し、葬儀の重みを知っている人です。

直葬(ちょくそう)という安易な送り方

この『法愛』で今は「しきたり雑考」を書いていますが
、以前は「仏事の心構え」でした。

ずいぶん続いた企画でしたが、ちょうどこのお話をしていた平成22年ごろ、
この「仏事の心構え」で、直葬の話を7回ほど続けて書いたことがありました。

その5回目に、映画の「おくりびと」で、
火葬場の職員を演じていた笹野高史さんの言葉を書いています。
もう一度ここに載せますので、お読みください。

直葬で問題なのが、お坊さんに関してもでてきます。
同じお坊さんとして耳の痛い話です。

『大法輪』という仏教雑誌が毎月出ていますが、
今年の一月号の読者の欄に「お坊さんの使命」という題で、
72才になる男性の方の文が載っていました。

そこには映画「おくりびと」の火葬場の職員の言葉が引用されていて、
この言葉をお坊さんが葬儀の場でいってほしいとありますが、
残念ながら参列した葬式で聞いたことがない、とこの方は言っています。

私も火葬場の職員の方がいった言葉が印象的で、
どこかに詳しい言葉が載っていないかと思っていたところでした。

次のように書いています。

ながい間ここにいると、つくづく思うんだよ。
『死』は『門』だなあって。

死ぬということは、終わりということではなくて、
そこをくぐり抜けて次へ向かう、まさに『門』です。
私は門番として、ここでたくさんの人を送ってきた。

『いってらっしゃい。また会おうの』と言いながら

そしてこの男性の方はこう書いています。

遺族には「亡くなった方は消滅したのではありません。
魂となってあの世に帰っていくのですから、
いつまでも嘆き悲しむことはやめなさい」と諭し、
死者に対しては「あなたはもう死んだのです。
いつまでも家族やこの世のことに執着することなく、
いち早くあの世に帰って人生を反省しなさい」と引導を渡すべきであろう。

そして最後に、こうした魂の存在をお坊さんたちは世に語り伝える使命を持っているのではないだろうか。

直葬の第一の問題点は、
やはり死んだらそれでお終いという考え方があるように思えます。

そのため葬儀という儀式は生きている人のためにやるんだという考え方になり、
自分たちが納得すれば、どんな送り方でも構わないとなっていきます。

直葬には、葬儀が
「亡き方の魂を癒し、あの世の世界に送ってあげるのだ」
という趣旨が欠落しているように思えます。

こんな文章でした。

「いってらっしゃい。また会おうのう」というのは、
死という門をくぐり抜け、向こうの世界に行くんだということなのです。
こういう考えを素直に受け入れ、信じられるかということなのです。

最近は散骨なども増えてきているようですが、
亡くなった人がこの世と縁を結ぶためには、お骨がとても大切なのです。

お釈迦様のお骨でも、そこにあって塔を建てると、
その縁にしたがって、お釈迦様が守ってくださるという考えがあります。
海などに散骨をしてしまうと、骨を縁として返ってくることができません。

昔、東京に研修に出かけ、帰りに迷った霊が、
「このお坊さんなら救ってくれるのではないか」
と思い、私についてきたことがありました。

その霊は葬儀もしてもらえず、
また自分の骨がどこにあるのかも知らないと迷っていたのです。

亡くなっても私たちは無くなりません。
確かにある見えない世界のことを知っていることです。

目には見えない心の温もり

日々を過ごしていると、実際目に見える世界で暮らしているので、
この世界がすべてであるという思いは、ごく普通の考えかもしれません。

着ている服の種類もたくさんあります。
同じものを着ている人は少ないものです。
車もたくさんの種類があって、それぞれの好みで買い求め、乗っています。

自然の季節の移り変わりも目に見えて、きれいで美しく、
目に見えることの大切さを思います。

目に見えることのみで、人の価値を判断した場合どうでしょう

たとえば日本をくまなく歩き知っている人と、
県内のことはまあまあ知っていて、東京や京都ぐらいは知っている人とでは、
どちらが人としての価値が高いでしょう。

おそらく日本をくまなく歩いて知っている人のほうが、
人としての価値観は高いといえます。

そこに目に見えない世界を加えてみます。
見えない世界とは、思いやりだとか心の温かさだとか、
やさしさ、慈しみの思いなどをいいます。

この目に見えない思いは、
来世という見えない世界に通じていっているような気がするのです。

ここに短歌があります。
ある新聞に米川千嘉子さんの選で、男性の方の短歌です。

入院より戻りし妻の温もりよ君が占める位置揺るぎなく

(毎日新聞 平成27年6月29日付)

評として
「難病で日頃は自宅介護している妻が、しばらくの入院から戻った。
その存在を作者が頼りにしていたのだ」
とあります。

ここに「妻の温もりよ」とあります。

この妻の温もりは目には見えません。
見えませんが、人としての価値をとても感じます。

妻の温もりの占める位置が揺るぎないというのは、
旦那さんにとって、とても価値ある妻であるということです。

しかも難病で、身体の弱い奥さんのようです。
そんな身体の弱い介護を必要とする奥さんでも、
その奥さんの心から発せられる温もりを、とても尊く思っています。

先のたとえで、
もし、日本をくまなく歩いて何でも知っている人が、
心の温もりのない人であり、何でも知っているがゆえに奢(おご)り高ぶった人で、
県内のみを知っている人が、実は心のあたたかな人であったならば、
どちらが人としての価値が高いといえるでしょう。

おそらく、心のあたたかさを持っている人のほうを、
多くの人は、人としての価値が高いと認めると思います。

目に見える世界のことも大切ですが、見えない世界も、
さらに尊い何かがあることを知っていなくてはならないと思うのです。

そしてこの奥さんの温もりは、
心の温もりあるいは魂の温もりとして、死んでからもずっと残っていくものです。

決して無くなってしまうものではなく、
その人の人格を形成していく、魂の姿であるのです。

その心、魂が、この世に肉体をおいて、死という門をくぐり、来世に帰っていくのです。

(つづく)