ホーム > 法愛 3月号 > 法話

法話

憂いのない来世 2 死の恐れ

先月は、確かに来世があって、みんな肉体を捨て、死という門をくぐり抜け、
心あるいは魂が、あの世に帰っていく。そんなお話を致しました。
続きです。

4つの死の恐れと不安

人が亡くなり、この世に肉体を置いて、
魂あるいは心が「死の門」をくぐる時、大きな恐れを感じることでしょう。

誰しもが体験しなくてはならないことですから、
今、生きているうちに、その恐れを少しでも取り除いておくことが大切です。
そこで、死の恐れの原因を考えてみます。

まず1つ目に考えられることは、
亡くなったらどうなるのか分からないから死を不安に思うのです。

2番目は、
この世に未練があって、この世から離れたくないところからくる恐れです。

3番目に、
この世にやり残したことなどがあって、後悔することが多々あるので、
死にたくないと思ってしまい、死が恐いということがあります。

4番目に、
現実的にこの身体、肉体が消滅してしまう恐怖です。
火葬すると、熱いといって心配する人もおられます。

亡くなったらどうなるのか分からない恐れ

1番目の、亡くなったらどうなるのか分からないためにおこる死の恐れです。
これが大きな部分をしめていると思われます。

死後の世界があるのか分からない。
でもみな死ななくてはならない。
どうしよう。

そう迷ってしまいます。

隣の人たちは、どうも死なないらしい。
そんな人がいたら不公平で、少し不満な思いも出てきますが、
そんな人は世界中探してもどこにもいません。

みんな死ななくてはならない。
そう悟れば、少し心が癒されます。

亡くなったらどうなるのか分からないので死が恐いのですが、
この恐さ、あるいは不安は死に関してばかりではありません。
何に関してでも言えることです。

たとえば、このごろ身体の調子がよくない。
医者に行って調べてもらったら、どうもガンの疑いがある。
一週間後、検査の結果がでるので、今日は痛みどめの薬を出します。
それまで様子をみてください。そう医者に言われたとします。

不安でたまりません。ガンだったらどうしようと思う。
私も経験がありますので、よく分かります。
病院で検査を受け、ガンの疑いがあり、結果がはっきりするまで待っていて、
その間、体重が減るほど、不安な思いになったという人が結構いるのです。
分からないというのは、不安が増すのです。

仕事でも、今までやったことのない新しい仕事をする場合、
どうしてよいか分からず不安になったりすることがあります。
分からない、知らないというのは、心の安定を失わせるものなのです。

病院で亡くなっていく人で、死が恐くてたまらないという人に、
「あの世はあるのよ。そこで、また再会しましょう」
と、患者に語り掛けた医師がいました。

その患者さんは、今までと違って穏やかになったといいます。
「死後の世界がある。私は無くならない。
魂や心がずっと生きていて、考え方も変わらない。
心の姿を保ってあの世に行ける」
そう分かっていれば、死の恐怖も薄れていくものです。

この世の未練からくる恐れ

特に若くして亡くなり、
子どもや伴侶をおいていかなくてはならないことが原因であちらの世界へいけない。
そんな人もいます。

そんな時には、生きているときに、この世の未練を絶つ、そんな修行がいります。

この世の未練を絶つひとつの方法は、
この世は仮の世であるということを悟ることです。

仏教では、この世を仮の世と定めています。
長生きをしても、人生を振り返ってみて、
夢のような人生だったということを聞きます。
過ぎてしまえば、夢の如しなのです。

この世はがっしりとしていて、
食べ物もあり服も着、家もあってお金も使える。
でも、それは肉体に宿っている魂や心の修行の糧であって、仮のものなのです。

四季の巡りのごとく、この世は常(つね)でなく、
いつも移り変わり変化し、同じものはひとつとしてありません。
これを諸行無常というのです。

あの世に帰ることを還郷(げんきょう)といいます。
郷(きょう)は故郷です。生まれてくる前の故郷に帰るわけです。
還(げん)は帰る意味ですが、戻っていくという意味もあります。
もともといた故郷に戻っていくのです。

私たちはこの世に旅に来て、この世での勤めが終われば、
もと住んでいたあの世という故郷に戻っていくのです。

諸行無常のこの世で、過ぎてしまえば夢のようではあるのですが、
確かに多くの体験を積み、やさしさを学び、愛を学び、努力と懸命さを学び、
その学びを心の養いとして、一回り大きな人間として、あの世に帰っていくのです。

帰れば、故郷で待っていた仲間が迎え入れてくれます。
そんな世界を悟れば、この世の未練も断ち切れるのではないでしょうか。

この世の苦しみも悲しみも、心の栄養剤で、
残していった家族や知人も、自分がいなくなれば、それなりの学びをし、
やがて同じ故郷に戻ってくるのです。

後悔することからくる死の恐れ

緩和医療医である大津秀一さんが
『死ぬときに後悔すること25』という本を出しています。
医師から見て、亡くなっていく人の後悔を25にまとめた本です。

この中の1番は「健康を大切にしなかったこと」。
6番目は「夢をかなえられなかったこと」。
9番目「他人に優しくできなかったこと」などで、
24番目に「神仏の教えを知らなかったこと」を挙げています。

その章の中で京都大学でも教鞭をとっていた、
アメリカのカール・ベッカー氏のことを書いています。

カール・ベッカー氏は著書で、
世界で一番死を恐れているのが現代日本人なのではないかと示唆している。
無論、戦前はそのようなことがなかった。
けれども今は一番恐れているというのである。

そしてその理由が、
来世に対する信仰が薄くなったことと不可分ではないだろうと指摘している。

来世を信じないことが、死の恐れを増しているというのです。
そしてさらにこう言っています。

とにかく「来世」を信じれば、
この世の別れは一時的なもので、今生での別れが永遠でなくなる。
だから「来世」というものは、悲しみを癒すのに強い力を有しているのだ。

こう述べています。

これは神仏に通じる教えで、
この教えを学んでいれば死ぬときの後悔が薄れるわけです。
その意味で、この『法愛』もお役にたっていると思われます。

そして最後の25番目に
「愛する人に『ありがとう』と伝えなかったこと」を挙げています。

やはり死後の世界を信じ、死んでお終いでないと悟り、
亡くなっていくときには、しっかりと別れの言葉を残していくことです。
その言葉は、やはり「ありがとう」になります。

「あなたと一緒に暮らせてありがとう」
「たくさんお世話になったね。ありがとう」
「今までの幸せをありがとう」

そう言って、旅立つことです。

送る人も
「こちらこそ、ありがとう」
「あなたの子で産まれてきて幸せでした。ありがとう」
「今まで楽しく暮らせました。ありがとう。気を付けて逝ってくださいね。
私も、もう少しこちらで修行してから行きますからね」

そう伝えてあげることです。

身体が消滅してしまう恐怖

この身体が消滅してしまうのは恐いことです。

まだ命があるのに、殺されてしまう人もいます。
どれほど恐怖を感じることでしょう。

やがてくる死も身体や肉体が使えなくなり、
日本では多くの人が火葬をして埋葬します。
火葬場に行って焼かれると「熱くないだろうか」と心配してしまいます。

上手に身体から魂が抜け出せればよいのですが、
いつまでも身体にとらわれ、そこにいたいと思っていると、
なかなか身体から魂がぬけだせません。

だいたい身体から魂が抜けだすのに24時間かかると言われ、
火葬も亡くなって24時間立たないと許可されません。

きょうの朝亡くなって、明日の午後火葬という人もいます。
私はそれではあまり急なので、2日は家で寝かせてくださいと喪主にお願いします。

でも、死んだらそれでお終いという考えと、
生きている人や親戚の都合を優先してしまうと、
家族の誰かが息を引き取れば、すぐ火葬、葬儀という段取りを取ってしまいます。

不安と闘いながら身体から魂がゆっくり抜け出し、
あの世に還っていく故人の思いを優先し、
火葬や通夜、葬儀を進めていくことを大切に思っています。

身体は泡沫(うたかた)のごとし

さてこの身体はこの世を生きていくために、大切なものです。

健康で、できるなら使命を終えて、
さあ逝くかと思ったときに、亡くなっていくのがよいのですが、
なかなかそうはいきません。

でも生前、あの世を信じ、
この身体は、とても大切なのですが、
この身体は本来の私、魂を守り支えてくれている乗り物であると思い、
あまり執着をしないことです。

お釈迦様はこの身体のことをどう説いておられるのでしょう。

身体は泡沫のごとしと見よ。
身体はかげろうのごとしと見よ。
身体をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

つねにこの身体を見よ。
王者のように美麗である。
愚者たちはそこに耽溺(たんでき)する。

――老いた牛がぬかるみの泥にはまり込んだように。

(『真理のことば感興のことば』中村元訳岩波文庫)

この身体を泡(あわ)やかげろうのように見よ、と言っています。
そうすると死王もかれを見ることができないというのです。

ここでの死王は、
迷いや苦しみ、あるいは恐れや不安を現した言葉であると推測します。

ですからこの身体に執着せずに、死を受け取ると、
恐れることなく迷いなく、あの世に旅立っていけるということです。

さらにはいつまでも身体にとらわれているのは、
老いた牛がぬかるみの泥にはまり込んだように、
いつまでも苦しまなくてはならないということです。

この世ではこの身体を気づかいながら健康を保ち、
お迎えが来たら、身体に執着しないで、さっと身体から離れ、
脱ぎ捨てていくことです。

そのとき、今まで支えてくれた身体への感謝を忘れないようにします。

本当の自分を見定める

この身体は自分を見定める大切なものですが、
この身体が自分自身であると、思ってしまうところに迷いが生じてきます。

鏡を見て、今日の自分を確認します。
鏡には自分の顔が写っています。
当然、その鏡に映った顔が自分であると思うのは自然なことです。

でも、この身体は常に変化し、細胞も生死を繰り返し、
1年ほどで骨も心臓も脳も、すべてが入れ替わっています。
同じように見えていますが、すべてが新しいものへと流れているのです。

このとき本当の自分はどこにあるかを、悟っておくことです。
この身体が本当の自分でないならば、何が本当の自分であるのか、です。
その本当の自分が亡くなると身体を離れ、あの世に帰っていく。
本当の自分とは、この身体に重なっている心であり魂であるわけです。

ここに投書を載せましょう。
67才の男性の方で「知人の葬儀で思い新たに」という題です。

知人の葬儀で思い新たに

先日、近くに住む82才の知人が他界しました。

地区の自治会の責任者をされていました。
人望もあり、地区内で行われた葬儀には多くの人が参列しました。

葬儀が始まると、進行役の司会者から生い立ちなどの披露がありました。
その中で印象深い話がありました。

「同居している長男夫婦が共に働いていることもあって、
小学校1年の孫と半日以上いることがしばしばあり、
お菓子を一緒に買いに行ったこともあった」

そのナレーションが終わったとき、
親族が座っている席に男の子を見つけました。
司会者が触れた孫です。

目から涙がいっぱいあふれ、
遠目からでも亡き祖父への悲しみが伝わってきました。

喪主の挨拶の時も、
その横にいる孫の目から涙が途絶えることはありませんでした。

その姿を見て、私も3人の孫のことを思い出しました。
1カ月前に生まれた孫は今も一緒に暮らしています。

亡くなった知人のお孫さんの涙顔を思い浮かべながら、
私も自分の孫のために、少しでも元気で長生きをしてやろう。
そう改めて思う1日でした。

(朝日新聞 平成26年11月2日付)

82才で亡くなった男性の顔も姿も、文章ではまったく分かりません。
でも、どんな人か分かります。

孫の涙の中に、82才で亡くなった人の生き方を見ることができます。
どうしてでしょう。

最終的に人を判断するのは身体でなく、生き方なのです。
その生き方を在らしめているのが、
本当の自分であり、心でもあり、魂でもあるのです。

その本当の自分をしっかり見定めていれば、
身体が壊れ使えなくなっても、恐れを感じることはないでしょう。

(つづく)