ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

憂いのない来世 3 憂いなく来世に向かうための信仰

先月は死の恐れということでお話を致しました。
本当の自分を見定めるというのは、少し難しい考え方だとは思いますが、
繰り返し読み、本当の自分を見つけて欲しいと思います。
続きです。

あの世の世界について

『大無量寿経』というお経の中に、
浄土の世界(あの世の善なる世界)が示されています。
その中に、

かの仏の国土にいける者たちは、
かつて積んだ功徳・善業によって報い現われたところに住んでいるのである。

『大乗仏典』 中村元編

と書かれています。

この世で善を積んだ人は、浄土という善なる世界へ行き、
悪を積めば地獄に行くということです。

「地獄に行ってみなくては分からないし、そこも面白そうかもしれない」
という人もおられますが、そのような考えはおやめになったほうがよいと、
私は思います。

地獄はさておき、
あの世の善なる世界は、どういう世界かを少し書いておきます。

この世では、相手の思っていることがよく分かりません。
顔で笑っていても、心では毛嫌いしている、そんな場合もあります。

でも、あの世は思いの世界ですから、
その思いはストレートに相手に通じていきます。
ですから、思いが違っていれば、同じ地域、場所に住むことはできなくなります。

善なる人であるならば、みな善なる人が集まって生活を営んでいます。
学校もあれば図書館もあり、公園や神社もあります。
そして自分の家で、心穏やかに暮らしています。

暑からず寒からず、調和のとれた世界です。
木々の緑があり鳥がなき、花々も咲いて蝶も舞っています。

本来ならば食べなくても生きていられる世界ですが、
食事を取ろうと思えば食事もでき、快適な暮らしができています。

そこで、生前培ってきた人格をさらに磨こうと善を積みながら暮らすのです。
あの世にはお金はありませんが、お金の変りは感謝の思いといわれています。
何かをしていただいて、感謝の思いを差し上げると、それで相手は満足するのです。

この世界は善人の行く世界で、
さらに高度な悟りを持たれた方のいく世界は、光の世界であると言われています。

私には計り知れない世界なので、ここに書き表すことはできませんが、
天の御国(みくに)は、穏やかな幸せな世界であることは間違いありません。

憂いのない来世にいく基本の在り方

憂いのない来世で大切な心構えは、信仰心があるということです。
大いなる神仏を仰ぎ信じることです。

禅では信心といます。
この信心は、自分の内に、尊い仏の心があることを信じ、
その仏の心を活かして生きることですが、信心の中にも、
見えない大いなるものを尊ぶ精神は含まれています。

私の好きな短歌の中に、

大いなるものに抱かれあることを
今朝吹く風の涼しさに知る

という歌があります。

これは臨済宗妙心寺派の管長をされていた、山田無文という和尚さんが作られた歌です。

若い頃、結核を病み、
近くに住む子どもたちでさえ、病気がうつると言って近づかなかった孤独の日々。
そんなある日、縁側に佇んでいると、涼しい風が吹き抜けてきた。

「この風は、誰からも嫌われている私を優しく包み込んでくださる。
きっとこの風は、大いなるものから吹き渡ってきた風なんだ。
ああ、私は大いなるものに抱かれ生かされている」
そんな思いを歌にしたものです。

大いなるものを信じることの尊さを思います。
人は幸せで何の労苦もなく暮らしていると、
尊いものを探し出す力を失ってしまうのかもしれません。

空即是色の意味

少し難しくなりますが、『般若心経』というお経の中に、
「空即是色」(くうそくぜしき)という言葉がでてきます。

この「空」のとらえ方はさまざまですが、仏の偉大なるエネルギーと考えられます。
そのエネルギーが形となって現われているのが「色」です。

色は形あるものをいいます。
とらえ方を限定して、私自身と考えてみます。
すると、仏の偉大なるエネルギーが、私を有らしめていると解釈できるのです。

仏が私たちを有らしめているからこそ、
お釈迦様は、私たちのことを「私が父であり、あなたがたは私の子である」と
『法華経』で語っているのです。

私たちは「仏の子」であり、仏から分かれてきた尊い存在なのです。

それを信じるのが信仰で、
あの世の善なる世界の人びとは、どうもみなこの真実を感じ取っていると思われます。
「私は神仏に生かされている」という思いです。

ですから、神仏へ手を合わす日々を尊く思い、
大いなるものへの感謝の念を忘れないで暮らしているのです。

信仰のない人の心の渇き

信仰のない人を、どうお釈迦様は教えているのでしょう。
信仰のない人と、信仰のある人の違いをこう教えています。

信仰の無い人とつき合うな。
水の乾(ひ)からびた池のようなものである。

もしそこを掘るならば、
泥くさい臭(にお)いのする水が出てくるであろう。

しかし、信仰心あり明らかな智慧ある人とつき合え。
水を求めている人が湖に近づくように。

そこには、透明で清く澄み、
冷(ひや)やかで、濁りのない水がある。

(『真理のことば 感興のことば』中村元訳岩波文庫)

信仰のない人を「泥くさい臭いのする水」にたとえています。

抽象的な表現ですが、下水の泥を見ても不快な思いがします。
できるなら触ってみたくないし、その場所から離れたいと思います。

信仰のない人といると、こちらのほうが汚れてくるのかもしれません。

清く澄んだ水のような、そんな清らかな心を持った仏たちには、
信仰のない人は泥をかぶった汚れた人に見えるのでしょう。
それでは、天の世界では一緒に住むことはできません。

憂いない来世に帰る基本は、神仏を尊び信じる心を持っていることです。

憂いのない来世 4 憂いなく来世に向かう徳を養う

恥を知るという徳行(とくぎょう)

お釈迦様は亡くなってから天の神々の世界にいくための4つの徳行を教えています。
その1つが、今までお話ししてきた「信じる心」です。

この信じるというのは、
8月号でも『神々との対話』の中のお釈迦様の教えを引用しています。

来世に恐れず行く、1番目の方法が「信」でした。
神仏を信じ敬うことです。

2番目に「恥を知る」ことです。
ここでの恥は人としての過ちや罪を犯したとき、
素直に申し訳ないと思う心です。

嘘をついて平気な人や、人のものを黙って盗んだり、
悪口や不満を言っても良心を痛めなかったりする人。
そんな人が、広いこの世の中にはおられます。

72才になる女性の方の投書で
「卒業式の季節 苦い思い」という題です。

30年ほどの前のことを悔い恥じています。
この思いが大切なのです。

「卒業式の季節 苦い思い」

卒業式の季節になると、心の中でムクッと頭をもたげる苦しい思いがある。

いま40歳代の息子が高校の卒業式を迎えた朝のこと。
私が勤めに出ようとすると、鏡の前で髪を丁寧にブローしている。

「学校遅刻するよ」と声をかけると、
「だって俺、今日卒業式だもの」と息子。

「エッ?」

私は驚きと気まずさで言葉がなかった。
息子は「母さん、忙しいから言わなかったんだ」と言い、
私はそのまま家を出てしまった。

大学に進学し、就職した息子は県外にいる。
でもこの季節になると、私は申し訳なさで心が痛む。

忙しさのなかで大切なことを見失っていた。
心が子どもの方を向いていなかったのだと。

息子は毎年、私たち夫婦を温泉旅行に連れていってくれる。
先日も5月の連休は空けておくようにと電話があった。

今年こそは、あの朝のことをわびよう。
そして旅行のお礼を心を込めて言おう。

(読売新聞 平成22年3月16日付)

今この女性は72才で、
息子が高校生であったころは、40代です。

その時、息子さんの卒業式に出席できなかったことを恥じていて、
そのことをわびようとしています。この心根が大事なわけです。

人としての恥じを知る。その思いが間違った生き方をさせないのです。
この世でいかに人生を尊く生きていくかが、あの世での幸せをも得られることなのです。

戒(いまし)めを持つ徳行

戒めとは、自分が誤った方向にいかないように自分自身を諭(さと)す、
という意味があります。

仏教では止悪修善(しあくしゅうぜん)といって、
悪を止め、善を修めるというのが基本です。

この戒めを長年守っていると、戒体(かいたい)といって、戒めの身体ができ、
少しのことでは悪に染まらない心の強さがでてくるといわれています。

そんな「善の戒体」を作っていくのが徳行であり、
徳を身に着けている人が、あの世の天の世界に赴くわけです。

この戒めにはさまざまなものがあります。
自分の思う大切な生き方を戒めにし、それを守っていけばよいのです。

亡き方の生き方を、自分の戒めにする、という方法もあります。

私の父は56才で亡くなり、
父の生き方を語ってくれる人もあまりいなかったので、
父の生き方を自分の教訓にまでするのは、なかなか難しいものがありました。

そこで檀家さんには、そのような手間をかけさせぬようにと、
3回忌の法要のときに、亡き方の生き方をお話し、
それを自分の生き方の教訓(戒め)にしていただけるお話をしています。

87才で亡くなった男性のことです。
この男性は亡くなる6年ほど前に、自分の戒名をいただき、また書に親しんでいたので、
「南無釈迦牟尼仏」という字を自分で書かれ、表装していました。

亡くなって床の間には、自分の書かれたお釈迦様の軸が飾られていました。
家族のみなさんが、故人を偲ぶ言葉を、次のように書いてくれました。

小さい頃からいろんな所に連れていってくれましたね。
忘れられない想い出たくさんありがとう。

おじいちゃん、たくさんのやさしさありがとう。
いつもギャグを言ってみんなを笑いに誘い、楽しくさせてくれました。

大好きなおじいちゃん。
いつも私たちのことを気にかけてくれた、とてもやさしい人でした。

厳しい人でしたが、
真っ直ぐな生き方を大切にし、曲がったことが大嫌いでした。
過ちを犯したら、素直に頭を下げるとも言っていましたね。

近くに住む子ども達が挨拶をすると、笑顔で答え、
そんな子どもをとても愛していました。

長年苦労を共にしてきましたが、笑顔もたくさんくれました。
長い間、ほんとうにありがとうございました。

こんな故人を偲ぶ言葉の中から、3回忌のお話では、
おじいさんの生き方として、

自己に厳しく、過ちは素直に反省し、
人として正しく生きること。
時にはやさしさ深く、笑顔を忘れない。
人としての温もりを大切にして生きる。

これがこの男性の方の生き方で、それを自分たちの生き方の戒めにしていく。
それがまた、先祖様を大切にすることに通じていくわけです。

この家族のみなさんは、先祖様を大切になさっていて、
年忌の法要も欠かさず行っています。

頭の下がる、そんな思いをしています。

施し与える徳行

次に大切な徳行は、施与(せよ)といって布施の精神をいいます。

財をお持ちの方は財を施す。
財を持たない方は、自分のできることで施しをし、
相手の幸せを願ってあげるのです。

私がまだ若かったころ、駐車場で突然ある女性の方が、
「私の車のバッテリーがあがってしまって、お手伝いしてくれませんか」
と請われたことがありました。

そのとき急いでいたのかどうか忘れてしまいましたが、
お断りして自分の車に乗り込んでしまったことがありました。

先ほどの卒業式の投書のお話ではありせんが、30年ほど前のことです。
そのときの困っている人のお役に立てなかったことが今でも悔やまれ、
心に残っています。

ですから、それ以来、
困っている人がいれば助けてあげようという思いが強くあります。

人はなぜ、他の人の幸せのために働いたり、
他の人のために身を尽くして自分の時間を使うことが尊いのでしょう。

自分がしてあげて、相手が幸せになって笑顔になる。
そんな姿を見ると、人は生きていてよかったという思いに満ちます。

おそらく私たちが神仏からいただいた命には、
人のために尽くすことが最善のことであるという心が埋め込まれているのです。

やさしさを与えると、
神仏からいただいた心が、大いなるものの心と共鳴し、喜びふるえ、
それが自らの幸せに感じられるのだと思います。

奪うのではなく与える。

これが、この世で幸せになる方法でもあり、
あの世の幸せの世界に行く方法でもあります。

憂いのない来世でも、信心を持ち、愛の人でいましょう。