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法話

心の栄養学 1 心の三大疾患

今月から「心の栄養学」というテーマで、2回ほどお話し致します。
この話は平成24年6月3日、護国寺の女性部のみなさんにお話ししたものです。
少し書き直しながら進めていきます。

食事の取り方の迷い

私は坊さんなので、
普段食べている食事の栄養については、あまり詳しくはありません。
日々食事を作っておられる方のほうが詳しいかもしれません。

でも、栄養学の上に「心」がつくと、私でも少しお話ができると思うのです。
共にこのことについて考えていくという姿勢で、お読みくださればと思います。

病気をしたり、あるいは年を重ねると、みな身体の健康を強く考えるようになります。
私も健康や病気、食事に関する本を読み、私ながらに学んでいます。

健康に関する本でも数十冊ほど読み進めると、書いている先生の考え方が違うので、
読んでいる私のほうが迷ってしまうことがあります。

たとえば、ある先生は水をたくさん飲みなさいといいます。
一方の先生はあまり水を飲まないほうがいいといいます。
ある本に朝、水を飲むといいと書いてあったので飲んでいると、
ある本には、そんな必要はないというのです。

あるいは塩をあまりとってはいけないという先生がいると、
塩は大事だから取りなさいという先生もいます。

朝はちゃんと食事を取りなさいという先生がいれば、
朝はそんな必要はないという先生もいます。
1日1食でいいんですよ、という先生もいます。

また、健康を考えて、健康診断を定期的に受けたほうがいいという先生がいれば、
そんな検診など受けないほうがよいという先生もいて、
統計的に健康診断を受けていない人のほうが、長生きする人が多いというのです。

そんな本を読んでいると、私たちはどうすればいいんだと思ってしまいます。

よく考えてみると、
それぞれの人の身体にあった食事のとり方をすればいいのだということが、
最近分かってきたのです。

自分にあった食事法、栄養法があるのだなあということです。

タバコもお酒もやらないのに、50代で亡くなって逝く人もいれば、
タバコを吸い続けて90になっても元気でいる人もいます。

要は、自分をよく知ることです。

現在の死因について

病気で亡くなる人は、約100万人を少し超えているようです。
その中で三大疾患(しっかん)があります。疾患というのは病気という意味です。
病気の中で3つの代表的な病気があるのです。

第1番目がガンです。
亡くなっていく人の約3割少しをしめています。
ですから、3人に1人がガンという病気で亡くなっていくということです。

2番目は心疾患で、約2割です。
心臓の病気で亡くなっていく人です。

そして3番目が脳血管疾患で、1割少しあります。

この3つの病気で亡くなる人が6割以上をしめているわけです。
ですからこの病気を三大疾患と呼んでいるようです。

特にガンはグラフにすると、50才から増え始め、
57才がピークで、65才くらいまでなだらかに減っていきます。
60才前後の人、特に男性のようですが、ガンになる確率が多いのです。

ガンになる原因はさまざまですが、生活習慣や運動不足、
あるいはストレスなどの原因によるといわれています。
特にガンはいつも身体の中にできていて、それが免疫で抑えられているといいます。

不信心という心の疾患

では心における三大疾患を考えてみます。

1番目が「不信心」です。
神仏を信じないことです。
無宗教であっても恥ずかしいと思わないことです。
神仏のことについて無関心で、守られ生かされていることを知らず、
ましてや手を合わせる尊さを知らないで生きているということです。
ガンにあたる病気といえましょう。

私の友人で本堂を新築するにあたり、本尊様を修復したそうです。
しばらく本尊様を修復する業者に預けて数か月、
お寺に本尊様がいなくなったわけです。

そのとき、
「本尊様がおられないというのは、これほど淋しいものとは思わなかった」と、
私に語ってくれたことがありました。

私のお寺にも7体ほどの仏様を祭ってあります。
それぞれの仏様をお守りして、40年ほど経ちました。

それらの仏様に毎日、手を合わせお参りし、
常に何かあれば天から降りてこられてお導きくださることを願い、
自分なりに工夫して精進してきました。

そんな仏様がいなくなれば、生きていけないほどの思いがします。

お釈迦様が、

信仰心の深い人は人生の旅路の糧(かて)を手に入れる。

と、説いておられます。

仏教では仏を信じ、その教えを人生の糧とし、
教えを共に学んでいる人を尊ぶことを大切にしています。
それを難しくいうと、一体三宝(いったいさんぼう)といいます。

三宝とは、仏法僧(ぶっぽうそう)のことで、
仏と、仏の教え、そしてその教えを糧として生きている人びとをいいます。
この三つを宝であると言い表しています。
その三つの宝は一体である、一つのものであるというのです。

仏を信じることは、仏の教えを信じ学ぶことであり、
また仏を信じることは、仏の教えを学んでいる人を信頼し尊ぶということです。
その仏を信じなければ、教えも支え合う人もなく、人生の旅路の糧もないということです。

無宗教という心の病

ここで投書を紹介します。71才の女性の方です。
心根の優しい人ですが、神仏を信じる尊さが少し欠けているような気がします。
気づかない心の疾患です。
題は「葬式や戒名に様々な考え」です。

「葬式や戒名に様々な考え」

読売新聞社の冠婚葬祭に関する全国世論調査で、
戒名(法名)が「必要ない」と答えた人は56%に上ったといいます。

私は亡くなった母を葬式は行わない直葬で送りましたが、
父の墓のあるお寺のご住職に相談して、戒名はつけてもらいました。

「どんなお母さんでしたか」と聞かれ、「花が好きな人でした」と答えると、
「崋山」で始まる戒名をつけて下さいました。
生前の母にとてもふさわしい戒名だと思えました。

両親は今、一つの位牌の中で仲良く暮らしています。
毎朝お茶を入れ供えており、
まるで私と両親の3人で飲んでいるような気がしています。

昨年は母の七回忌の法要を無事済ませることができました。

私自身無宗教ですが、
静かなお寺の本堂で聞くお経には、いつも心が洗われます。
理屈では説明できないものがあるような気がします。

葬式や戒名については様々な考えがあってもいいのだと改めて思いました。

(読売新聞 平成24年4月14日付)

こんな投書です。

とても優しい良い人に思えます。でも信仰心がありません。

直葬とは、お経もあげず、葬儀もしないで、
病院から直接火葬場に行きお骨にして、お墓に納さめることです。
そこに神仏の存在がありません。

どんなに小さくても、ちゃんと葬儀をし、
「ああ、母も仏様に救われていったのですね。ありがたいことです。
仏様、お導きいただいて、ほんとうにありがとうございます」
そう思って手を合わせ、亡き母を浄土に送ってあげる人と、どちらが尊いでしょう。

ここでこの方が、
「本堂で聞くお経には心が洗われます。
理屈では説明できないものがあるような気がします」
と書いています。

信仰心も理屈では説明できない、何かがあるのです。
それを信じる心を持っていることが、心の健康な人なのです。

そして戒名ですが、これは仏を信じるという証(あかし)でいただくものです。
仏を信じ、仏の教えを尊び生きていくことを誓っていただける名なのです。

神仏への感謝

理屈では説明できないものがあると、先に書きました。

自然の恵みもそんなところがあります。
1年大切に育てた稲が収穫を迎え、稲刈りをし、脱穀してお米になり、
それを精米し、白いお米になります。

取り立てのお米は新米といいます。
10月の「しきたり雑考」で、収穫祭のことを書きました。

イネの刈り入れに先立って、稲穂を神様に供えることを
「稲穂祭り」という説明しています。
まず、神様に感謝してお供えをするのです。

一般の家庭でも、新米を食べるときには、神棚や仏壇にお供えすると思います。
それはとても素朴な信仰ですが、尊い人としての生業(なりわい)なのです。

この稲穂はもともと天照大神様が天より降ろしてくれたものです。
ですから、新米が取れれば、それを神様に供え、感謝の思いを捧げます。
それが新嘗祭(にいなめさい)です。

仏教的には手を合わせ感謝の思いをささげます。
このような日本の文化は、とても尊く、そこに神仏を信じる姿があります。

このような神仏に感謝する思いを大切にすることが、
心を健康に保つ方法でもあるのです。

我欲という心の疾患

2番目の心の疾患は「我欲」の思いです。

我欲は自分勝手で、自分のことばかり考え、
人のためよりも、自分のために欲するものを掻き集める心をいいます。

私の母が、「欲かくと糞(くそ)かく」と、よく言います。
我欲の強い人は、結局、災いを招き寄せるということです。
また、我欲の深い人は、すべてを失うということもあるのです。

『百喩経』(ひゃくゆきょう)という仏典にこんな話が載っています。

昔ひとりの男が、のどが渇いて水を探していました。

かげろうが立ってゆらめいているのを見ても、水と間違えるほどののどの渇きに、
夢中になって走り回っては水を探し求めました。

そして、とうとう水をたたえた川の辺(ほとり)に出ました。

ところが水を前にして男は、その水を飲もうとしません。
川のそばに立ってじっと水を見つめるだけです。

不思議に思って傍らに立っていた人が、
「のどが渇いているのなら、早く水を飲んだらよいではないか」
と言いました。

男は答えました。

「こんなにたくさんの水では、とても飲みきれない」

この男は、川の水をみんな欲しいと思ったのです。
みんな欲しいのだけれど、飲みきれないと迷うのです。

極端な喩(たと)え話ですが、
我欲の強い人は、正しい判断ができないといえます。
欲深(よくふか)で相手のことを考えない心は、すべてを失うのです。
まさに心の疾患です。

イソップ物語に、「肉をくわえた犬」の話がでてきます。
一切れの肉をくわえた犬が、橋の上に来て下を見ると、
自分より大きな肉をくわえた犬がいます。その肉も取ってやろうと思い吠えました。
すると自分の肉は下に落ち結局、何もなくなってしまったという話でした。

欲深き心は、幸せを失うといってもいいでしょう。
心の病気といえます。

不勉強という心の疾患

3番目が「不勉強」ということです。
真理を学ばないということです。

学ぶ努力を怠り、見えない世界を考えず、この世限りの生き方しかできない、
といってもいいでしょう。

常に勉強をして多くを学び、その知識を自分の人生観にまで高めるのです。
それを「知識が智慧に変わる」といいます。
この意味で智慧は人生の宝といえるのです。

この智慧のない人は愚痴をいいます。

病気の「病」の「疒」(ダク)は、やまいだれです。
これは人が寝台に寄りかかっている意味だそうです。
その中に「丙」(ヘイ)が入っています。この丙は広がるという意味があります。
ですから病というのは、寝台に寄りかかるほど力のなさが広がるという意味で、
「やまい」と読むわけです。

愚痴の「痴」は、「疒」(ダク)の中に「知」が入っています。
ですから、知ることが病気であるということですから無知になります。
これは不勉強からきています。知ることで大切なことを挙げてみます。

人として正しい生き方は、どのような生き方なのか。
ほんとうの幸せとはどのような幸せをいうのか。
なぜ、人はこの世に生まれてきたのか。
世の中には、なぜこんなに多くの人がいるのか。
あの世はあるのか。あればどのような世界なのか。
神仏(かみほとけ)のお考えは、どのようなのか。

これらの疑問に即答できる人は少ないと思います。
その意味で、この世には知らないことがたくさんあります。

謙虚に学び、その学びを積み上げていく精神が大切になります。
この精神が心を健康にしていくのです。

不信心を乗り越える力は、信心あるいは信仰心です。
それが心の栄養です。我欲を捨て去る力は、知足であり感謝の心です。
心を健康に保つ免疫です。

不勉強を克服する良薬は探究心であり、謙虚に学んでいこうと思う心です。

これらの心における三大疾患をよく心得ていて、
身体の健康ばかりでなく、心の健康にも心がけていくことが、
充実した人生を送る秘訣だと思います。

(つづく)