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法話

自分の考えをあやつる 1 あやつるということ

今回から数回にわたり「自分の考えをあやつる」というお話を致します。
このお話は、「法泉会」という法話会でお話ししたものです。
平成22年7月22日、第99回目のことです。
少し手直ししながら進めていきます。

あやつる意味

自分の考えをあやつるというのは、あまり聞いたことのない表現です。

言い換えれば、自分をコントロールするとか、
自分自身の考えを操縦する、あるいは自分の心を統御して、

上手に扱(あつか)うことができるという意味になるでしょう。

でも、自分のまわりを考えてみると、さまざまな事にあやつられ、
上手に扱えないで翻弄(ほんろう)され、心を乱すことが多いのです。

季節でいえば私は夏が好きなので、
夏の暑い日、夕涼みをしながら、浴衣で本を読み勉強する。
なかなか贅沢なひと時で、そんな時間にあこがれています。

でも、夏になると、お寺の裏山にタケノコが顔を出し、庭には雑草が生えてきます。

夏の暑さはいいのですが、
タケノコを取ったり、草取りや草刈をするのが苦痛になります。
取らなければお寺が竹林になって荒れ、草を取らなければ、
お寺の清浄さを保つことができません。

ですから取るには取るのですが、タケノコも草も生(い)きています。
その命を摘み取るのがいたたまれないわけです。

今回のテーマでいえば、夏はタケノコや草に翻弄され、
上手く扱えないで、心が乱れやすくなるといえましょう。

文字をあやつる

たまに足を運ぶブックオフで俵万智さんの本を見つけました。
俵さんは歌集『サラダ記念日』がベストセラーになり、
歌人として有名になりました。

ブックオフで見つけた本は、『よつ葉のエッセイ』と言う本で、
サインがあったので、めったにサインなどもらえないと思い、
買ってきました。

その中に、ある短歌を紹介していました。
まだ俵さんが短歌を知らないときで、三十一文字に無縁の時だったようです。

その歌は、大学時代に通っていた教室の、机の上に書かれていました。
当時誰が書いたか知らなかったようです。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

この短歌が寺山修司の代表作であったと、後になって知ったわけです。
この歌を詠んだときの感想は、

「海を知らぬ少女の前に・・・か。うーんいいなあ。この大学にはすごいヤツいるぞ」

でした。

この感想から思えば、俵さんは歌を作る才能があったのだと推測されます。

この話をした平成22年ごろ『婦人公論』で、
「うた便り」として、俵さんの短歌が載っていました。
「うた便り」24回目の作品です。

たんぽぽの綿毛が揺れる春斜面卒園式の子どものように

私は短歌の専門ではないので、充分にはわかりませんが、
寺山さんの短歌も、この短歌もいい歌だと思います。
よく文字を自由にあやつっているという感じがします。

私もずいぶん文章を書きますが、なかなか満足のいく文章は書けません。
それほど、自由に字をあやつって、自分の思いを文字に表すというのは大変なことなのです。

字をあやつることさえ、大変なことなのに、
人や自分自身を自由にあやつるというのは、とても難しいことだとわかります。

あやつる努力

文字をあやつるお話を致しましたが、
文字ばかりでなく、筆をあやつって水墨画を描いたり字を書いたり、
絵の具をあやつって絵を描いたり、粘土をあやつって陶器を作ったり
とさまざまです。

私は若いころ音楽に興味があって、
今でもバッハやヘンデルの曲を楽しみに聞きます。

指揮者はオーケストラを上手にあやつって、一つの曲を完成させます。
指揮者によっては、同じ曲でも、そのタクトの振り方で、
まったく違った趣のある曲になります。
タクトを持つ人の考え方によって、同じ曲でも全く違ったものになっていきます。

私たち自身もタクトを持っていて、
自分の中にある思いや考えを音楽のように表現しているといえます。
自分自身を、そのタクトでどこまであやつっているかが問題になるわけです。

今注目を集めている女性の指揮者がいます。西本智美という人です。
1970年生まれで、「指揮者にとってオーケストラは大きな楽器である」と言っています。

私たちもいろんな思いの音を持っていて、
人生を生きる一人の指揮者として、その思いの音をどうやって組み合わせあやつって、
きれいな人生という音楽にしていくかが問われるところなのです。

この人生のタクトを振るには、それなりの努力がいるのです。

西本さんは大阪音楽大学の作曲学科をでて、
ロシアのサンクトペテルブルク音楽院に留学します。
そのときのエピソードを、こう語っています。

ロシアの留学は、ロシア語が分からず辛くて大変だった。

ある劇場からの帰り道、その日は寒い日で、いくら待っても路面電車が来ない。
寮まで歩いていくと30分くらいかかる。
何もしないで待っているよりもと思い、歩きはじめた。

一歩踏み出すとアイスバーンでこけてしまい、
カバンの中の楽譜や鉛筆がカバンから出て散乱してしまった。

「ああ、もう立ち上がれない!」

その時だ。
「危(あぶ)ないよ」と見ず知らずの人が、立たせてくれ助けてくれた。

あの時、見知らぬ人の助けがなかったら、その場を立ち上がれたかどうか・・・。

それほど、大変な思いをして勉学に励まれて、指揮者として独り立ちしています。
何事も、あやつるためには、人知れず負けない努力がいるのです。

はたして、相手を自由にあやつることができるか

お寺にはさまざまな方が来られます。

その中で若いご夫婦で子供さんを連れて来られる方もたまにおられます。
子どもの様子を見ていると、なかなか落ち着きがありません。
特に2才ころの男の子は、じっとしていないで、お寺の中を走りまわります。
年忌の法要があって本堂でお経をあげている最中でも、
落ち着きがない子がいて、母親を悩ませています。
こんな小さな子でさえ、言うことを聞かないことが多いのです。

ここでユニークな詩を紹介します。
67才の男性の詩です。

「来るぞ‼」

掃除機かけろ
ひとつのチリも残すな
ワレモノは棚の上に
観用植物は隔離しろ
スリッパ隠せ
仏壇の扉を閉めて
ベランダのガラス戸
ロックしろ
もうすぐ
手当たり次第に
モノかじる
怪獣みたいな孫が来る
摘みたての
苺のような孫が来る

(産経新聞 平成22年7月14日付)

「掃除機かけろ」から、何が始まるのかと思って読んでいると、
孫が来るから、孫が怪我をしないようにと、
いろいろなものを片づけているのがわかります。

その孫も「摘みたての苺(いちご)のように」ですから、
とても可愛らしく、大事に扱わないと傷ついてしまう、
そう思っているおじいちゃんの優しい思いが伝わってきます。

でも、孫さえ自由にあやつるのは難しく、こんな小さな子に翻弄されてしまいます。

修身という心の学び

以前フジテレビで「料理の鉄人」という番組があって、
そこに出演して料理を作っていた道場(みちば)六三郎という和食の料理人がいました。
その道場さんが『伸びる男とダメな男はすぐわかる』という本を出しています。

この本を読んでいて、禅の修行も大変だと思いますが、
料理の修行も大変なことだと思いました。

たとえば冷蔵庫の話がでてきます。

「ウニをだしなさい」と言われ、
冷蔵庫の扉を開いてウニがどこかなと探しているのは問題外だそうです。
冷蔵庫を開いて「ウニは確かこの奥にあった」と思う。それも問題外だそうです。

ウニがどこにあるかと聞かれたら、もう冷蔵庫の扉を開けなくても、
どこに何が入っているのかを整理整頓していてわかっていて、
冷蔵を開けてウニを「すっ」と出す。これが冷蔵庫の使い方だというのです。

食材を自由にあやつるには、
こんな冷蔵庫の使い方までも、学んでいかなくてはならないわけです。

この本で深く感じたことは、道場さんの小さいころの学びです。
道場さんが小さいころ学校で習ってよかったと思うものは、
読み書き計算だと言っています。
これは子どものとき勉強して本当に助かっていると言っています。

もう1つは、修身という学びだそうです。ようするに道徳です。
修身では礼節や善の行い、あるいは偉人の生き方やその教えを習い、
それが現在の私を支えているというのです。

昔にも尊い方がたくさんいて、そういう人たちのことを、
小さいころ学んだことが大人になって生きてくるわけです。
それが自分の考えを上手にあやつる、素地になっているわけです。

親しき中にも礼儀あり

お寺の書庫に「『修身』全資料集成」という本があります。
明治37年の第1期から、昭和6年の第5期までの、尋常小学校修身書が載っています。

第3期の大正7年から始まる修身書の巻4の児童用、18番に「礼儀」があります。
昔使っていた古い文字は、現代使われている文字に変えて、載せてみます。

人は礼儀を守らなければなりません。
礼儀を守らなければ、世に立ち人に交わることはできません。

人に対しては、ことばづかいをていねいにしなければなりません。
人の前であくびをしたり、人と耳こすりをしたり、
目くばせしたりするような不行儀をしてはなりません。

人におくる手紙には、ていねいなことばをつかい、
人から手紙をうけて返事のいる時は、すぐに返事をしなくてはなりません。
また人にあてた手紙を、ゆるしを受けず開いて見たり、
人が手紙を書いているのを、のぞいたりしてはなりません。

そのほか、人の話を立ちぎきするのも、人の家をすきみするのもよくないことです。

人としたしくなると何事もぞんざいになりやすいが、
したしい中でも礼儀をまもらなければ、長く仲よくつきあうことはできません。

シタシキナカニモ礼儀アリ

(『修身』全資料集成)

こんな文章が載っていました。

今でもはっとするような事が書かれています。
人から手紙が来て返事をすぐ書かなくては失礼にあたるとか、
人が手紙を書いているのをのぞき見したり、
人の話を立ちぎきするのもよくないと、教えています。
「親しき中にも礼儀あり」です。

このようなことを小さいころから習っていると、
それが生き方に染み込んで、自分の行動を礼を持ってあやつることができます。
礼節というタクトを振って、自分を正しくあやつることができるわけです。

小さい子は、なかなか言うことをききませんが、
人としての生き方を学ぶには、小さいころの心の教えがとても大切なのだと知ります。

では、大人はどうでしょう。

相手をあやつるのは難しい

大人になると、多くの人は考えが固まってきて頑固になります。
仏教ではその状態を有(う)といいます。
考えが固まって、人のいうことを聞かないのです。

先日、大腸の検査で東京に行ってきました。
検査が終わり、地下鉄に乗ると、一つ席が空いていたので、
付き添ってくれた家内に坐ってもらいました。

すると隣にいた若い女性が、私に席を譲ってくれるのです。
「すみません」と声をかけ、女性の気持ちを受けて、坐らせていただきました。

「ああ、私もそんな年になったのかなあ。ありがとうと言えばよかった」
と思ったのですが、中には、席を譲ってくれても拒否をする年配の方もいるようです。

席を譲られる、こんな小さなことさえも、頑(かたく)なに断るのです。
譲ってくれる人の、優しい思いを受け取れないわけです。

相手をあやつることが難しければ、どうすればいいのでしょう。
そうですね。自分が変わって、自分の考えを自由にあやつればいいのです。

(つづく)