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法話

努力と幸せ 1 努力とは何か

今月から「努力と幸せ」というテーマでお話を致します。
これは平成20年3月、法泉会88回目の法話会でお話ししたものです。
ずいぶん時がたっていますので、手直ししながら進めていきます。

歩いても道遠く

努力するには力がいりますが、
努力することで多くのことを学び得ることができます。

スポーツをする人でも努力することなしに、一番になることはできません。
オリンピックで金メダルを取るような人は、
みな想像もつかないような厳しい練習をして、努力しています。

私は修行に出る時に、道場まで歩いていきました。
このお話は何度もしていますので、知っている方が多いと思います。

今まで靴で道路を歩いていたのに、
急に草鞋で、何日も歩くというのは、大変なことです。

当時20才くらいの若輩者が、
修行とはそういうものだと思っていたので、できたことです。
歩く努力は大変なものでした。

曹洞宗の禅僧で、
句の字数(じかず)にとらわれない俳人の山頭火(さんとうか)が、
わけいってもわけいっても青い山
と、読んでいる俳句があります。

実際に山の中を歩いて感じ取っている歌です。

私自身、実際に歩いて山頭火の句に合わせて詠むと、
歩いても歩いても道遠く
となりましょうか。

車で行き来する時代に歩いていくために、進むその遅さに耐えなくてはなりません。
道の端を歩いていると、車がさっと通りすぎていきます。
「ああ、いつになったら目的地に着くのだろうか」という心境です。

でも、目的の場所まで歩いていくという努力は、
今、振り返り見れば幸せであったかもしれません。
そこには生きる力が漲(みなぎ)っていたからです。

私のお寺の玄関の衝立(ついたて)に、山頭火の句が書いてあります。
山のしずけさは白い花

修行僧堂に着いた思いを、この句に重ねて詠むと、
辿りつくしずかなる門小さい花

僧堂に辿(たど)りついて、何も語らない静かな門をくぐる私。
まだ山門の大きさに比べれば、小さな花のような私だけれど、
努力して山門の大きさを越えようという決意の思いが隠されています。
今思えば、その決意の中に幸せがあったともいえます。

努力して得られるもの

こうして毎月「法愛」を出しています。
そんなに努力をしているつもりはありませんが、
少しの努力でも、積み重ねていくと、なんとかなるものだと思っています。

中学生の頃でした。学校の廊下を歩いていると、
毎日提出しなくてはならない生活日誌が一冊落ちていました。
名前を見ると、同じクラスの○○君のものでした。

「見ていいかなあ」と、少し罪悪感を持ちながら、
ペラペラと少しページをめくってみました。

そこには、彼が書いた一日の感想が、空白もなくびっしりと述べられています。
それも毎日です。

そこに先生のコメントがあって、
「赤い字は読みにくいですね」とありました。赤ペンで書いてあったのです。
彼はクラスでも優秀で頭の良い子でした。

私の生活日誌は空白ばかりで、
書いてあっても1行ほどの感想で、毎日が終わっています。
そういえば国語はずっと苦手で、作文は特に嫌いでした。

そんな私が、毎月「法愛」を出しています。
22年目に入りましたが、始めたばかりの頃の文章を見ると、とても未熟で、
よくみなさん読んでくださっているなあというのが正直なところです。

今でも、そんなに文章は上手ではありませんが、
作文の嫌いな寛仁君が、よくここまで書いていると思っています。
それも微力で、足りない知恵を絞って、少しずつ努力した結果ではないかと思うのです。

考えてみれば、何より自分自身が一番、この「法愛」から学んでいます。
書く努力が学びに通じていって、それが心の養いになっています。
幸せなことです。

さらに気づくことは、一般の人が、このような冊子を出しても、
おそらく読んでくださる方は限られるでしょう。

でも、私は坊さんなので、一般の人よりも読んでいただく確率が高いのです。
書く努力が、幸せを集めていきます。

ちなみに、このお話をしていた平成20年の3月ごろは、「法愛」が900部でした。
当時のお話の中では、1000部が目標だと話しています。
現在では、その部数を越え、1350部になっています。

図書館で見つけた本

文章を書くときに、何度も書き直さなくてはなりません。

「法愛」も何度も文章を推敲(すいこう)していますが、
それを何度繰り返しても、改めるところがでてきます。

時間が限られているので、いつも未熟に終わっていますが、
文章を何度も書き直すことで思い出す人は、頼山陽(らいさんよう)という人です。
何度も何度も文章を書き直した人です。

以前、伊那市内に上伊那図書館があって、
伊那市に新たに図書館ができるというので、閉館になったことがありました。
平成16年2月のことです。

そのとき、図書館にあった本を自由に持っていってよいという通知がでて、
そのことに気づいたのが3日たってのことでした。

3日目にその図書館に行きました。たくさんの人が来ていていました。
まだたくさんの本が残っていて、その中に『頼山陽』という本があったのです。
ずいぶん古びた本で、昭和17年の初版本です。

昔、松本に行ったとき、
たまたま入った古本屋さんに、頼山陽の全集が10数巻ありました。
一冊一冊がずいぶん厚い本で、みな漢文で書かれていました。

私には読めそうもないし、
当時10万円もしたので、どうしようかと迷って、
店主に「今度来たとき買おうかと思います」と言って店を出たのです。

再度その店に行った時には、そこは道が拡幅され整備されて、
大きなデパートに変わっていました。

あのときの古本屋さんはどこかに移転したようで、
結局、頼山陽の全集は手にすることができませんでした。
残念でした。

その体験があったので、
図書館で見つけた『頼山陽』の本を手にすることは、
私にとっては、ほんとうに幸せなことだったのです。

頼山陽という人

頼山陽(らいさんよう・1780~1832)という人は
江戸後期の儒学者で、詩人でもあります。
この本の「はしがき」に、こう書かれています。

維新のとき大ぜいの志士たちを勤皇の大義に目ざめさせて、
あの大事業を成就させた力の一つは、頼山陽の「日本外史(がいし)」や
「日本政記(せいき)」という本や、歴史をうたった詩である。

詩で歴史を書いているものに「日本楽府(がくふ)」があります。
山陽の49才のときの作品です。

その詩を何度も何度も推敲し作り上げていき、この作品ができたといいます。
努力を重ねて本を書き、後世の人達に、大きな影響を与えていったわけです。
その努力の志を12才で「立志論」という書に記しています。

彼は体が頑強であったわけでなく、病弱であったようで、
その中での努力の思いです。

われ、うまれて十有(ゆう)二年なり。
父母の教えを持って古道(こどう)を聞くを得ること、六年なり。
・・・・ああ、男児(だんじ)学ばざればすなわちやむ。
学べばまさに群を超ゆべし

要約します。

私は12才になる。
父母から古(いにしえ)の道を教えてもらい6年。
男である私は、学ばなければ絶えてしまい、学べば立派な人となれる。

12才というと、今でいえば、小学校6年生くらいです。
小さな時の志を捨てないで努力しつづけ、後世に影響を与える人となっていったわけです。

「一番嫌い」を努力して克服していく

小さいころの志の尊さをお話し致しましたが、
私たちの日常生活の中でも、努力によって、
困難を乗り越えていくことはたくさんあります。

投げやりになることなく、どう努力していけば、
幸せを得られるのかを、冷静に考えていく必要があります。

ここに投書を載せてみます。
43才の女性の方のもので、「一番嫌い」という題です。

かわいかった息子に
「お前が一番嫌い。お父さんしか好きではない」
と言われたあの日から、私はつらかった。

部活のことでいつも最後はすさまじいののしり合いになってしまう。
なんでお父さんなの? 仕事で忙しい父の分もと、私は愛情を注いできたつもり。
私がつい感情的になるのが息子には耐えられないらしい。

父親はいつも冷静で、息子を諭すのがうまい。
私はそれができなくて、息子との距離が広がっていく。
寂しさとくやしさが募っていった。

そんな日々の中で、山本ふみこさんのエッセー「山本さんちの台所」
(くらしナビ毎週火曜日「食べる」に連載)を読んだ。
いつも食を大切にしている山本さんのエッセーが、私は好き。
そして、私はひらめいてしまった。私には料理があるではないか。

山本さんは食を通してお子さんたちとコミュニケーションをいい感じで取っている。
私も息子の好物を頑張って作っていこう。食事の支度が最近手抜きだったなあと反省した。

感情的になるのも抑えよう(難しいけれど)、
そして「一番嫌い」は、反抗期特有のもので、本心ではないと信じよう。
わが家では暴れん坊の次男もひかえている・・・。

そのころには私も少しは成長して「一番嫌い」なんて言われても、
どんと構えていたいものだ。

(毎日新聞 平成20年3月21日付)

子どもから「お前が一番嫌い」なんて言われれば、
誰でも心が乱れ辛い思いをします。
涙がでるほど大変であったでしょう。

でも、よく自分のことを分析し、自分の足りないところや、
何をすべきかを、よく判断なさって、この場面を克服していこうという思いが、
この投書から伺えます。

私には料理があるから、息子の好物を作っていこう。
そういえば最近、食事の支度も手抜きだったと、分析しています。

息子さんを恨むことなく、反抗期の一時的なものと思い、
そんな息子さんに愛をもって接していく。
その努力の考え方が立派であると思います。

この努力の先には、きっと
「お母さんごめん。いつもありがとう」という、
幸せの言葉が返ってくることでしょう。

努力によって伸びていく心の力

夏のアサガオは、小さな種から蔓(つる)がでて、どこまでも伸びていきます。

私のお寺の周りにも、夏になるとたくさんのアサガオが自然に芽を出してきますが、
その伸びていく力に驚きます。

それもアスファルトの小さな隙間から芽を出し、
私よりも高く伸びて、たくさんの花を咲かせるのです。
咲いた花たちも、風に揺られて幸せにそうに見えます。

そのように、私たちも努力することで、無限に伸びていく、
そんな力が内に秘められています。

そして、伸びていくこと自体が、
幸せにつながっていくのではないかと思うのです。

身体のことを考えても、いえることではないでしょうか。
水泳でも柔道でも、何の種目でも、オリンピックに出るような人の筋肉や心臓、肺など、
一般の人とは違って、発達していて頑強です。
鍛えれば身体の筋肉など、どこまでも伸びていくといえます。

心(精神)にもいえます。

たとえば、小学校の頃の心の状態と、大人になった今の自分と比べてみると、
ずいぶん心も強くなっているのではないかと思います。

小学校の頃、大人しく触ると壊れてしまいそうな人も、
大人になり、家庭をもって、子育てをしていく間に、
ちょっとのことでは揺れない、強い心になっていきます。
実際、そんな人を知っています。

人間の姿は、だいたい同じです。
顔があり、手があり、足がある。
顔には目があり、鼻があり、口があって耳がある。
ただ、身体の色や大きさ、顔形(かおかたち)には違いがありますが、
人としての姿は、だいたい同じです。

でも、その身体の中に入っている心、
精神、あるいは魂には大きな違いがあるのです。

同じような身体でも、歴史に残るような仕事をする人もいれば、
誰にも知られず平凡な人生を送る人もいます。
それでも、みな心を努力によって成長させていく喜びは同じです。

(つづく)