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法話

努力と幸せ 3 努力の方法

先月は「努力の方向性」ということで、
正しい方向性の努力は、決して裏切らないというお話を致しました。続きです。

努力のために時間を使う

努力のためには、時間が必要です。

怠(なま)けたい自分を律して、
努力のために時間を活用することです。

知識を得たいと思えば、寝ている時間を惜しんで、本を読み勉強します。

受験生でも、つい怠け心がでてきますが、
その思いを捨てて、時間を作り、勉強をします。

今お読みの『法愛』を作るにも、時間がかかります。
日々のお寺の仕事や法話作りの中で、
この『法愛』を作る時間を捻(ひね)りだします。

でも、10日も20日もかかっていると、他のことができなくなってしまいますから、
お寺の仕事をしながら、3日から5日ほどで仕上げます。も
っと早くできれば、他のことに時間を使えるのですが、なかなか難しいものです。
ですから、原則として、何事も短時間でできるように心がけているのです。

朝のブログは、パソコンを開いてスイッチを入れ、
パソコンが起動するまでの間に、テーマを考え、書き込みができる状態になったとき、
一気に書き上げるので、書く時間は3分もかかりません。

そうして余った時間を他のことに使うわけです。

時は金なり

ベンジャミン・フランクリンという人が「時は金なり」と言っています。

金とは豊かさを意味し、幸せを意味しているともいえます。
ですから、時間の使い方が正しければ「時は幸せなり」といえます。
時を努力して使ったとき、それが幸せに通じていくわけです。

自分の一生が、悔いのない良い一生であったと思ったならば、
それは自分の時間を上手に使ったことになります。
時を金にかえたわけです。

でも、悔いの残る、残念な一生であったと思ったならば、
それは時間を無駄に使ったことになるのです。

悔いのない時間の使い方は、与えられた自分の時間の中で、
どれだけ、他のためにその時間を使ったかではかられます。

自分が使っている時間でも、その時間が相手によい影響を与えていけば、
その時間が充実したものになっていきます。

時間を自分の欲を満たすだけのみに使っている生き方は、
必ず後悔の念を起こすと思います。

投書から気付かせていただくこと

『「無財の七施」を胸に刻んで』という投書を見つけました。
88才の男性の投書です。

自分の時間を相手のために使う、そんなよい例ではないかと思います。

「無財の七施」を胸に刻んで

先日、妻と2人で電車に乗って買い物に出ました。
電車は混みあっていましたが、何とか座ることができました。

私たちが乗車してしばらくすると、
体の不自由な10代の男の子の手を引いて中年の婦人が乗ってきて、
空いている席を探しているのに気付きました。
私が席を譲ると大変恐縮してくれました。

すると、これを見ていた20代の若い女性が
「気付かずにすみません。どうぞ」と高齢の私に席を譲ってくれたのです。
すごく気分が晴れ晴れとしたひとときでした。

「無財の七施」という言葉がありますが、
そのとき、お金を使わなくても、ほほ笑みや優しい言葉、
ちょっとした気配りが人の気持ちを楽しく、明るくすることを学びました。

私は今年、数えで88歳の米寿を迎えました。
この「無財の七施」という言葉を胸に刻み、
これからも年を重ねていきたいと願っています。

(産経新聞 平成28年1月26日)

「無財の七施」という言葉を胸に刻み、これからの年を重ねていくと書いています。
これは、相手に施し与える時間をなるべく取っていくと言い換えられます。
この時間の使い方が優れているわけです。

無財の七施

この無財の七施は、仏教の教えに出てくるものです。
布施心のひとつです。

布施の1番が「法施」(ほうせ)で、
今では、仏陀の教えを分かりやすく伝え、その教えによって生きていくと、
幸せになることができるという施しです。

2番目が「財施」(ざいせ)で、
お金や物を施し、相手を幸せにしてあげることです。
現在(平成28年4月)、熊本を中心にした地震で、たくさんの方が被災され困窮しています。
そんな時、生活のための物資を送ることは、財施にあたります。

3番目が「無財の七施」です。
お金や物がなくてもできる布施行(ふせぎょう)です。
この布施のために自分の時間を使って努力をするわけです。

次に簡単に挙げてみます。

1、眼施(がんせ) あたたかな優しい眼差しを与えること。
2、和顔施(わげんせ・わがんせ) 明るい笑顔やほほえみを与えること。
3、言辞施(ごんじせ) あたたかでやさしい言葉を与えること。
4、身施(しんせ) 身体を使って人のために働くこと。
5、心施(しんせ) 相手の幸せを心から祈ってあげること。
6、牀座施(しょうざせ) 場所や席を譲ってあげること。
7、房舎施(ぼうしゃせ) 一宿一飯を施し与えること。

この投書では、6番目の牀座施で席を譲ってあげることと、
2番目の和顔施のあたたかなほほえみを与えてあげ、
さらには3番目の言辞施の言葉のやさしさがあります。

自分の座る時間を相手に施し与える。
このような努力が、悔いのない人生を築いていきます。

お金の投資をする

時間のことをいいましたが、
お金を投資することで、努力を重ねていくという方法があります。

平成20年2月26日に、伊那食品の「かんてんぱぱホール」に
長谷川慶太郎さんが来られて講演をされました。

このような有名な人は、この伊那にはめったにこられないので、
さっそくその講演に申し込み行ってきました。

たくさんの本を出されていて、
最近出されたある本には次のように紹介されていました。

新聞記者、証券アナリストを経て、現在、多彩な評論活動を展開中。
この間、石油危機の到来、冷戦の終焉を予見するなど
政治・経済、国際情勢についての先見性をもつ的確な分析を提示。

日本経済や産業の動向について、
世界的、歴史的な視点も含めて独創的にとらえる国際エコノミスト。

講演の演題は「日本経済の動向と企業の在り方」でした。

この講演の中でトヨタのことについての話があり、
少し古い資料になってしまいますが、2007年の研究開発費が1兆3千億円と言っていました。
これは韓国1国の研究開発費1兆2千億円を超えるというのです。

ひとつの会社が、多くの開発費を使って、
自動車の新しい開発をしているという説明がありました。

お金を投資することで、新しいものを作り上げていくという努力です。
この努力によって、トヨタが世界でも大きな会社として成り立っているわけです。

同じように、私たち個人としても投資をしなくてはならないわけです。

たとえば月に10万円をいただいているとすると、
その中の3~5%くらいを、自分の心を磨く研究開発費として使うわけです。
あるいは、何%かを健康維持に使ったり、困っている人への寄付にあてたりと、
自分の財を上手に使っていくわけです。

私自身のことをいえば、新聞は6誌ほど取っています。
ひとつの新聞をていねいに見て、あとは新幹線くらいの速さで読んでしまいます。

気付かない大事な記事もたくさんあるとは思いますが、
「毎日新聞」を取っている人は、このような記事を読んでいるのかと分かり、
「朝日新聞」を読んでいる人は、こんな記事の内容を読んでいるのだとわかります。

そればかりでなく、常にお話の資料はないかと、
研究開発費として、新聞代を使っているわけです。

今のこの時を努力する

新聞の話をしましたが、どの新聞にも歌壇があって、
それぞれに投稿された方々の短歌や俳句が掲載されています。

その中に、こんな短歌がありました。男性の人です。

老いの日のために買い置きし書(ふみ)あまた
読まず老いけり眼(まなこ)おとろえて

(読売新聞 平成28年3月7日付)

小池光先生の選んだもので、『評』には、
「老境のために買っておいた本が老境になったら読めなくなっていた。
悲しい現実が淡々と、端的に歌われている」
です。

老いて暇ができたら読もうと買って置いた本。
老いてみたら暇はできたが眼がついていかない、というわけです。

ここで気付くことは、
「暇ができたら本を読む努力をする」でなく、
「今このとき努力を惜しまない」ということです。

この短歌から教えていただくことは、
忙しくても少しずつでもいいから、本を読んでいく努力をするということです。

人はいつまで生きられるかわかりません。
80歳まで生きられると思っていたら、70歳でお迎えがくることもあります。

『一日一生』という本を書いた内村鑑三はその序文に、

一日は貴い一生である。
これを空費してはならない。

そして有効的にこれを使用する道は、
神の言(ことば)を聴いてこれを始むるにある。

こう書いています。

一日は貴い一生であると言っています。
これを禅的に言えば、今を大切に生きるとなります。

また、「神の言(ことば)」は、仏教徒であれば「仏陀の言」になります。
こんな言葉が仏陀の教えの中にでてきます。

奮起(ふるいたて)せよ。
怠けてはならぬ。
善き行いのことわりを実行せよ。
ことわりに従って行う人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥(ふ)す。

(『感興のことば』中村元訳 岩波文庫)

怠りなまけていないで、努力せよ。善いことをなせ。
そうすれば、この世でもあの世でも幸せになれる。
そう教えています。

これを朝、今日の日を一生と思いながら実践していこうと思う人は、
この一日という時間を有効に使えるというわけです。

努力の内に他力(たりき)を思う

努力は自らの力でするものです。
人生の困難を解決していく力が努力の中にあります。

でも、その努力の姿を
いつも見守っている存在があることも知っておくことです。

その見えない存在が子どもにとって母であるかもしれません。
朝、お寺の庭掃除をしていると、小学生が学校に通う姿が大通りに見えます。

その中にお兄ちゃんにつれられていく1年生の女の子がいます。
その子は、毎朝いつまでも遠くを見て手を振っています。
お母さんに手を振っているのです。

どんな気持ちで、お母さんは我が娘(こ)を見ているのでしょう。
きっと、「無事であってほしい」と祈っていると思うのです。

子どもは大きくなれば、このことを忘れてしまうと思いますが、
いつも支えてくれている人がいて、努力できることを知っていることです。

あるいは、こんな話があります。

ある人が、信号が青になったので横断報道を渡り始めました。

すると後ろから「おい!」という声が聞こえてきたのです。
誰だろうと思い、立ち止まって振り返ると、誰もいません。

その時、1台の車がその人の前すれすれに走り抜けて止まりました。
車を運転していたのは女性ドライバーで、よそ見運転をしていて、
信号が赤であったのに気付かなかったのです。

そのままこの人が歩いていたならば、
おそらく車に引かれて大惨事になっていたでしょう。

「おい!」と声をかけたのは、一体誰なのでしょう。

この話からも、いつも私たちは尊い存在に守られています。

正しく生きながら努力を惜しまず生きている人は、
神仏(かみほとけ)も、守られずにはいられないと思うのです。

努力の中に、謙虚さが必要なわけです。

来世に備えての努力

そして確かに言えることは、
人はこの世限りの命を生きているのではないということです。

必ず来世があり、私たちの命は永遠です。
この世限りの努力のみでなく、来世に引き継ぐ努力を惜しまないことです。

前述した仏陀の言葉にも、
「善を積み努力をすれば、あの世でも安楽に過ごせる」
とありました。

この世での努力は、この世で、もし結果がでなくても、
あの世での魂の力となり、幸せの道を歩んでいける智慧(ちえ)となります。

努力は決して裏切ることなく、幸せを作りだすのです。