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法話

心の調和を求めて 2 調和の姿は美しい

先月は「和して身を守る」ということで、相手と調和することが、
自分を守る手段になるというお話を致しました。
続きのお話です。

薬師寺の塔の美しさ

調和している姿は美しいものです。
たとえば形の世界で美しいといえば、たくさんあると思いますが、
そのひとつに三重塔、あるいは五重塔があげられると思います。

特に奈良市にある薬師寺の東塔と西塔は
非常に調和がとれていて美しい姿をしています。

私は中学校の修学旅行以来、お参りしたことはないのですが、
当時はまだ西塔がなく、東塔だけでした。

一見すると三重ではなく六重塔のようにも見えます。
大きな屋根の下に小さな屋根がついているのです。

その小さな屋根を裳階(もこし)といいます。
現代の住まいから考えれば無駄なようにも思えますが、
その小さな屋根が、さらに三重塔を美しいものにしています。

人においてもさまざま経験の中で、無駄だと思える経験が、
その人の人生を美しいものにしていることがあるのかもしれません。

西塔は高田好胤という和尚さんが写経運動を積極的になさって、
昭和56年(1981)に再建されました。

信仰の姿の現れ

少しテーマから外れますが、この塔は何のためのものでしょう。

実はこの塔はお墓なのです。
とても立派なお墓です。

誰のお墓というとお釈迦様のお墓なのです。
お釈迦様のお骨を舎利(しゃり)といいますが、
そのお骨は塔の屋根の上についている相輪(そうりん)にあります。

その相輪は7種類からなっていて、
その相輪の一番上の宝珠(ほうしゅ)というところに納められているのです。

インドではお墓を梵語でストゥーパといい、
それを音訳したのが「卒塔婆」(そとうば)です。
それが塔婆になり塔に変化していったのです。

お釈迦様が亡くなると、そのお骨を海や山に撒(ま)くのでなく、
最も尊いものと感じて塔を建て、礼拝したのです。

その塔が遠くからでも拝めるように、
あるいは尊敬の気持ちから、より高い台すなわち塔の上にお祀りしたわけです。

ですから、この三重塔が美しいのは、ただ単に形が整っているばかりではなく、
その内にはお釈迦様を信仰する敬虔で尊い思いが入っているのです。
ですから、美しく調和しているのだと思います。

人としてもただ単に姿、形を整えるだけでなく、
内面において信心が篤く、敬虔な思いを持っていることが、
自分を調和させ美しくさせる秘訣ではないかと、この塔に教えられます。

慕われる尊さ

お釈迦様が亡くなられて、そのお骨をお祀りしたいという人が何人も現われ、
8つにそのお骨を分けたといいます。

それでもまだお釈迦様のお骨が欲しいという人が現われ、
そのお骨を入れておいた瓶(びん)を持ち帰り、塔を建てお祀りした人もいたのです。

さらにまだお骨が欲しいという人が現われ、
お釈迦様の亡骸(なきがら)の灰を持って帰って、
塔を建てた人もいたと仏典には書かれています。

人は亡くなった方を恋い慕う思いが強いと、
そのお骨さへ粗末にせず、塔を建て、尊敬の念を持ちながらお参りするのです。

私たちにはお釈迦様ほどの力はないにしても、
共に暮らした家族であるならば、その亡骸を大切にお祀りするのが、
人としての道ではないかと思います。

決して山に捨てたり海に捨てたりはしないものです。
亡骸を大切にする思いも、心の調和から現われる尊い行いのような気がします。

花の美しさ

花も美しく咲きます。
お寺の本堂には年中、花を絶やさないようにしています。

仏花(ぶっか)としての菊の花をよく見ると、
何枚もの花びらが調和し並んでいて、とても美しく思えます。

人の手によるものでなく、
菊本来の力で整然と花びら一枚いちまいがきれいに並んで、
ひとつの花を作っています。

その花の内面に潜む思いはどのような思いなのでしょう。
ただ咲いて、人の目を楽しませるためにあるばかりではないように思えます。

詩人の金子みすゞさんが、こんな詩を書いています。

花のたましい

散ったお花のたましいは、
み佛さまの花ぞのに、
ひとつ残らずうまれるの。

だって、お花はやさしくて、
おてんとうさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほゑんで、
蝶々にあまい蜜をやり
人には匂ひをみなくれて、

風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについていき、

なきがらさえも、ままごとの
御飯になってくれるから。

花はやさしくほほえんでいて、自分の蜜を蜂にわけてあげ、人に匂いをあげ、
素直で、花の亡骸さへ子ども達のままごとに使わせてくれる。
いつも与える側になって、ほほえんでいるのが花だといいます。

だから、枯れてしまった花のたましいは、
天のみ国の仏様の世界に生まれ変わるといっています。
そんな花の心根が、花の美しさをさらに輝かせているのだと思います。

また美しく調和のとれた人生を送ることで、
私たちのたましいは、花咲く天のみ国へ昇っていくのだと分かります。

言葉の調和

言葉も調和していると美しい響きを奏(かな)でます。

短歌や俳句などは決まった字数ですが、
なんとその中に、深い意味を託してまとめているのです。
それがまた感動をよび、美しく日本語を引き立てています。

ある新聞の歌壇に、こんな短歌が載っていました。
米川千嘉子先生が選んだ、男性の方の歌です。

入院より戻りし妻の温もりよ君が占めゐる位置揺るぎなく

(毎日新聞 平成27年6月29日付)

「評」として、
「難病で日頃は自宅で介護している妻が、しばらくの入院から戻った。
その存在を作者が頼りにしていたのだ」とあります。

なぜか文章で表現するよりも、美しいものを感じます。

難病で看病している妻が入院すれば、介護しなくてすみ、楽なはずです。
でも、そうではなくて、そんな妻が家にいなくて淋しいと思っています。

その淋しさを歌の中には入れず、
「妻の温もり」と「君が占めゐる位置」という表現で、
さらに作者の思いを深く表しています。実に31字が作り出す美しい日本語です。

この調和した歌の中にも、作者の妻を思いやる心が入っています。
その心の思いが、さらにこの歌の価値を高め、
調和する美しさを作りだしているのだと思います。

競い合い向上していく美しさ

私の子どもが小学生の頃、かけっこをして2位に入ったことがありました。

「お前、2位なんてずいぶん早かったじゃないか」と子どもを褒めると、
「お父さん、あらかじめみんなのタイムを計ってあって、
同じくらいのタイムの人をグループ分けして、走らせているんだよ。
だから2位になれたんだよ」というのです。

6人のグループで走らせ、
応援する人たちが見て、あまり差がないようにしているわけです。

子どもの気持ちを考えて、していることでしょうが、
オリンピックでは通じませんし、厳しい社会に出ても、通用しない考え方です。

切磋琢磨という言葉があります。
仲間同士が互いに励まし合って学徳を磨いていくという意味です。

その考えは、互いが競い合っているのですが、
その競い合う真剣さと、互いが一心にプレーする姿は美しいものです。

リオデジャネイロでのオリンピックがこの夏、終わりましたが、
今回はメダルが41個で、今までにない活躍を選手のみなさんが見せてくれました。

たくさんの名場面があるのですが、
その中で女子バトミントンの高橋礼華(あやか)、
松友美佐紀組が金メダルを取ったことです。

相手はデンマークの選手で、最終ゲーム、19対16で負けていたのを、
逆転して勝利をしたところは感動を呼びました。

高橋選手は
「どうやって決めたのか分からないくらい集中していた。夢の時間だった」

松友選手は
「(高橋)先輩と組んでいなければ、この舞台に立っていないと思う。
まさかこんな日が来るとは」
とコメントしていました。

その影には、人には言えない努力があったと思います。
これは平成28年8月19日のことです。

それから1か月と少し過ぎ、9月25日のことです。
東京で開催されたバトミントンのヨネックス・オープン戦で、
同じデンマークの二人の選手と再度、決勝で戦うことになりました。

その結果は今度は逆転負けして優勝を逃してしまったのです。

この決勝戦で負けた友松選手は
「やっぱり練習しないと勝てない。
世界はそんなに甘くないと、改めてデンマークペアに教えてもらった」
と反省しています。

オリンピックの勝利で少し休み、
充電期間を取ったのが敗因であったのかもしれません。
相手の闘う姿を見て、何事も練習する努力が必要なのだと学んだ選手の心構えに、
スポーツマンとしての姿を美しく思います。

美しい調和した姿

スポーツばかりでなく、
人と人とのつながりにも調和した姿を発見することができます。
その姿の中に、やはり生き方が問われてくるのです。

この投書はある新聞に出ていたものです。

この投書を読むと、自らのことはさておいて、相手を大切にしながら考え行動する、
そんなあたたかで柔らかな思いを感じ取ることができます。
これが人と人との調和する美しさのような気がするのです。

40才の女性の方の投書です。

「霊場で見た譲り合いに感動」

自宅近くにある四国霊場八十八カ所の第52番札所、
大山寺を訪れたときのこと。

その日は秋晴れの休日で、歩き遍路の人たちに加え、
バスで札所を巡るお遍路さんたちも大勢いらっしゃいました。

寺の中には、お経を納めた証に朱印をいただく納経所と呼ばれる場所があります。

そこでは、列に並んだバス遍路の人たちが、
歩き遍路の人たちをねぎらい、順番を譲っていました。

またトイレでは逆に、歩き遍路の人たちが
出発時間の決まっているバス遍路の人たちを気遣い、
先に使わせてあげていました。

そんな譲り合いが自然に行われている光景に深い感動を覚えました。

これこそが、今の社会で失われつつある他者に対する無償の愛、
真の気配りではないでしょうか。

私もお遍路さんを見習い、
普段の生活の中でも気配りや譲り合いができるよう、
心がけていきたいと思いました。

(産経新聞 平成27年11月25日)

こんな投書です。

歩き遍路とバス遍路という呼び名は初めて聞きましたが、
それぞれの立場を理解して、お互いスムーズに仏様をお参りできるように、
自然に気を配っているのが分かります。

朱印を書いてもらう時、
バス遍路さんが疲れているであろう歩き遍路さんを先にと譲り、
トイレでは歩き遍路さんが時間に間に合うようにとバス遍路さんをお先に・・・。
この心配りがとても調和して美しいのです。

調和の美しさは、自らを律して相手を思う、
そんな生き方の中に作りだされていくのだと思われます。

そして、ここには遍路という霊場を巡拝する人たちの心の内に、
見えない仏を信じる思いがあるから、
より一層、その美しさを増すのではないかと思うのです。

合掌の美しさ

この9月10日に当寺の女性部のみなさんと一緒に
伊勢神宮へお参りに行ってきました。
外宮と内宮をお参りでき、有難い旅行になりました。

内宮を歩いていると、後ろの方で若い男性の語る言葉が耳に入りました。
信心がなければ、みんなここには来ないよ」という言葉です。

若いのに難しい言葉を知っていると思ったのですが、
みな天照大神が祀られている御正殿の前で、
若きも老いたる者もみな礼拝をしています。
礼拝の姿は美しいものです。

奈良の東大寺の法華堂に、日光菩薩と月光菩薩が安置されています。
静かに半眼で手を合わせている、その尊い佇(たたず)まいは、
私たちの心を洗います。

人としての美しさにはさまざまな姿や形があります。
その中でも、神仏に祈りをささげている礼拝の姿、
合掌の姿が一番美しいのではないかと思うのです。

その心の内には、私たちをいつも見守り導いてくださっている、
大いなる存在への敬虔な思いがあるからではないかと思います。

その思いが調和する美しさを作っているのかもしれません。
尊い思いが姿や形ににじみでて美しく見せるのです。

(つづく)