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法話

爽やかな向上心 1 変化のなかで学び向上していく

今月から「爽やかな向上心」というテーマでお話をしていきます。
このお話は「法泉会」というお話の会で語ったものです。
平成24年5月24日のことです。
少し書き変えながら進めていきます。

人は変わっていく

私たちはどこまでも向上していく心を持っています。
人格を高めていくことができる心の力を持っているのです。

向上していくのが、なぜ大切かといえば、
向上していくことが幸せであり、喜びであるからです。

向上していくというのは、心が変化して伸びていくことを表しています。
その反対に、向上していくのでなく、下向していくこともあります。

人格が下がっていく、荒(すさ)んでいくということです。
それは不幸であり、苦しみでもあります。

できることならば、爽やかに人として向上していき、
どこまでもよい意味で変化していくことが幸せなのです。

私は小さい頃、餓鬼大将で、よくまわりの人を困らせたものです。
保育園の時には、園児たちが騒いでいて静かにならないので、
先生がわざわざ私の所まできて「寛仁君、みんなを静かにさせて」
と頼みにきたほどです。
そこで、私が「静かにしろ!」と大声で言うと、
教室がシーンと静かになったのを覚えています。

そんなやんちゃな私が中学3年になったときです。
担任の先生ではなかったのですが、数学や体育を教えてくださり、
私が入っていた吹奏楽部の顧問もしてくださっていた先生がおられました。

その先生が、中学1年生の時からずっと私を見守ってくださって、
3年の卒業も近いころに、私の顔を見て、しみじみと、こうおっしゃったのです。

「杉田も、ずいぶん変わったなあー」

悪い意味でなく、よい意味で言ってくださったと思います。
「ずいぶん落ちついて大人になった」という意味だったと思います。

私自身は自分が変わったとはよくわかりませんでしたが、
3年間の私を、先生なりに見て思ったのでしょう。
人は変わっていくのですね。

自然の恵みをいただく

変わっていくといえば、
私たちの一番、身近にある自然を挙げることができます。

自然自身が向上しているとは判断しかねますが、
その自然の移り変わりに、私たち自身も多くの影響を受けています。
そして自然の受け取り方で、人として向上心を得ることもできます。

自然の移り変わりの中で、私たちはどんな影響を受けているのでしょう。
まず挙げられるのが、多くの恵みをいただいているということです。

太陽の光、大地の支え、空気や雨水、
そしてたくさんの食べ物など挙げられます。
大地からは稲や麦、たくさんの種類の野菜が取れます。

たとえば昔の人は、春になると山の神が里に降りてきて田の神となり、
稲やさまざまな野菜がとれるのを助け見守り、
秋になると山に帰って、山の神になるということを信じていました。

その神が花などに宿るので、花に降りた神々にお酒やお供え物をし、
儀式をして、その後に神に供えたお酒や供物をいただく
直会(なおらい)をしたわけです。それがお花見の由来だそうです。

そう考えると、春には山々に桜がさいてとてもきれいです。
それは想像するのに、神が山から降りてくる足跡のような気もします。
秋になると木々が紅葉しとてもきれいです。
その美しさも神が山に帰っていく姿かもしれません。

自然の恵みから日本の文化が起こり、
それが心の豊かさと人としての向上につながってきたと考えられます。

自然の癒し

自然には四季の移り変わりがあります。
春夏秋冬の移り変わりはとても美しいものです。
その美しさにどれほどの人が心癒されてきたことでしょう。

今年も桜が咲きましたが、雨が降ったり、強い風が吹いて、
お寺に咲く桜の花も散ってしまいそうで、
「雨よ降るな。風よ吹くな」と思ったものです。

同じ心境を歌った和歌があります。
『古今和歌集』に出て来る、藤原好風(よしかぜ)という人の歌です。

春風は花のあたりをよきて吹け
心づからやうつろうと見む

「よきて」は「よけて」で、「心づからや」というのは、
「みずから好んで自分から」という意味です。

訳すと
「春の風よ、桜の花のあたりはよけて吹いてくれ。
花が自ら好んで散っていくのかを知りたいから」
という意味になります。

私の「雨よ降るな。風よ吹くな」という思いに似て、
ずいぶん昔の人と同じ思いを持つものだと思ったのです。

そんな花に心癒され、さらには四季のそれぞれの美しさに、
多くの人が心の喜びを得てきたことでしょう。

自然の厳しさ

自然には厳しさもあります。
せっかく咲いた花も散っていく。
これも自然の厳しさかもしれません。

最近は地震や火山の噴火、台風や寒波といった
自然の厳しさを思い知らされます。

昔の人は地震や干ばつで人が亡くなると、
その原因を政治を司る人の不徳と考たようです。
そして、政治家自身も、神々に向かって反省し、許しを請うたのです。

今では科学が進み、
なぜ地震が起きるのかを、図などに示し説明していますが、
災害に対して、大いなるものの意志をそこに感じることは少なくなってきました。

東日本大震災では1万5893人の人が亡くなり、
行方不明の人が5533人(平成29年5月1日現在)もいらっしゃいます。

地震があってしばらくの間、不思議な体験をした人がいます。
亡くなっているのに、幽霊のように現れては突然消えていく。
そんな体験をされた方がたくさんいらっしゃるのです。

『震災後の不思議な話』(飛鳥新社・宇田川敬介著)という本の中に、
亡くなったはずの老夫婦が出て来る話が載っていました。

ボランティアで福島の現地に向かう人たちがマイクロバスで移動中、
バスの右側に乗っていた人たちがみな、老夫婦が手を取り合って、
歩道で何かを待っているかのように立っている姿を見たのです。
津波にあって何も残っていないところに、老夫婦の姿があるのです。

そのバスに乗っているある人が、
「実は私、前にも見たことがあるのです。
今はあの二人は亡くなっているそうです。
昨年の津波で二人ともご遺体で見つかったといいます」

はっきりとその老夫婦の姿を見ているバスのなかの人たちは、
亡くなったと聞いて驚きでざわざわしはじめました。

「今はここに何もありませんが、以前ここは市街地の中で、
デイサービスの送迎車の待ち合わせ場所だったそうです。
この老夫婦は、デイサービスの送迎車を降りて、津波に巻き込まれたようです」

その老夫婦を見た人たちはみな、幽霊という感じが全くしない、
不思議な光景であったようです。

この本の著者は「死んだことに気づかない」、
また「死んだことに納得いかない」場合に、
自分は生きているつもりで、同じような姿をして現れる。
そんなパターンであると書いています。

特にこの老夫婦は「あの二人にとって、あの日のまま、止まっているのでしょう」
と、このお話しの最後を結んでいます。

自然の厳しさで命を奪われてしまった人たちの悲しい出来事を無駄にしないよう、
そこから多くを学びとっていく姿勢を大事にしたいと思います。

柳は緑、花は紅

自然から学び取っていくこともたくさんあります。

私自身、自然は神仏の現れと信じています。
ですから、そこに神仏の思いや考えを見つけ出すようにしているのです。

禅に「柳は緑、花は紅」という言葉があります。
「そのまま、ありのままの姿が尊く、真の仏の姿の現れである」というのです。

「そのまま、ありのまま」であれば、私たちはどう生きたらよいのでしょう。
ありのままの姿ならば、自分がしたいことをそのまま現していけばよいことになり、
わがままな自分が出てきてしまいます。

食べたいときに食べ、寝たいときに眠り、働くことを惜しみ、
遊んで暮らしたいとなってしまいそうです。

柳は緑の葉をつけて、柔らかな長い枝をたらし、風に揺られてきれいです。
花は紅に咲いて美しく、その美しさをひけらかすこともしないで静かに咲いています。
このありのままが美しいのです。

私たちも生きていくうえで、
ありのままに生きている姿が美しくなくてはなりませんし、
その姿が人としての向上の姿でもあると思います。

一心に咲き生きる

大正三美人と言われ歌人であり、
京都女子専門学校(現・京都女子大)を設立した九条武子にこんな歌があります。

君みずや明日は散りなん花だにも
ちからのかぎりひとときを咲く

明日は散ってしまうかもしれない花であっても、
今日この時を力の限り咲いて生きている。
ましてや私たちも、懸命に生きていくことが美しい生き方だ。
そんな意味に解してみます。

今年4月にフィギュアスケートの浅田真央(26)さんが現役を引退しました。
2010年のバンクーバー冬季五輪でも銀メダルや3度の世界選手権で優勝し、
好きなスポーツ選手ランキングでも上位でした。

4月12日の引退記者会見で
「体も気力も出し切ったので、今は悔いはない」と語っていましたね。

浅田さんが引退会見をした直後のアンケートで、
浅田選手の一番の名演技はという質問に
「14年ソチ冬季五輪でのフリー」と答えた人が大部分でした。

あの時はショートプログラムで16位と出遅れ、
フリー単独3位と立て直し、総合で、6位でした。

金も銀も銅も取れなかったのに、
その時のフリーの演技が一番の名演技であったとみんながいうのです。
私もあの時の演技を見ましたが、どん底に落ちて、それを立て直し、
一生懸命に演技していた姿が、多くの人に感動を与えたのでしょう。

明日は散ってしまう花も、今この時を一生懸命に咲いている。
そんな演技でした。

仕事でも何でも、一生懸命にしている姿は美しいものです。
飾らない自分なりの生き方を一心に生きていく。
それは「柳は緑花は紅」のひとつの現れであると思われます。

個性を輝かせる

この「柳は緑花は紅」を違った観点からとらえた方がおられました。
そうとらえると、またこの禅語が尊い言葉に思えてきたのです。
『おかげさまの命を生きる』(講談社)という本を書いた
鷹司誓玉(たかつかせいぎょく)という善光寺大本願の121世になった尼僧さんです。

この禅語を述べているところを引用してみます。

「柳緑花紅」(りゅうりょくかこう)という句がありますが、
これはそれぞれの個性をうたった名句でございます。

中国宋代の詩人、蘇東坡(そとうば)の詩で、
ここにうたわれた花とはおそらく紅梅のことと思われます。

あたり一面灰色の枯れきった冬景色に早春の風が吹き始めると、
まず柳のか細い枝々にうす緑色の葉が現れてまいります。
その傍(かたわお)らにつややかな紅梅の蕾(つぼみ)がふくらみ、
やがて満開になる風情は想像するだけで気分が華やぎます。

柳の個性は緑、花の個性は紅(くれない)であって、
柳には花がなく、紅梅には緑の葉はまだつきませんが、
お互いに足らざるところを補い合い、相手を引き立て合って、
素晴らしい風景を展開いたします。

違いを個性を認め、差別しない心の育成が、
現代のいじめ問題を解決するための糸口になりはしないでしょうか。

少し長くなりましたが、
「柳は緑花は紅」の語を上手にとらえていると思います。

「柳に花はない。花には緑の葉がない。
でも、お互い足らざるところを補い合って、素晴らしい風景を展開している」
というところは、深い洞察力があります。

私たち人間もみな個性が違っています。
互いが支え助け合っていれば、違った個性であっても、
そこに美しい風景が展開していくのだということを、教えられます。

爽やかに人として向上していくためには、
自分の個性を生かし、相手の個性をも尊重し生かしていく。
そこに幸せの日々が訪れるわけです。

相手の個性を理解し尊重していく、そこに爽やかな風が吹き抜けていきます。

ちなみに、鷹司お上人様は、合掌礼拝の意味を次のように述べています。
互いが爽やかに向上していく姿を表している。そう思える考え方です。

仏様に対して合掌礼拝をするのは、
仏様の大いなる智慧と慈悲のお徳を仰ぎ、
迷い多き人間がやがていつかは浄土にいたらせていただきたいと願う姿であります。

また、人間同士が拝み合うのは、
お互いの心の奥深くあるはずの、尊い清らかな仏心(ぶっしん)、
また仏になりうる可能性ともいうべき本性(仏性・ぶしょう)を拝むのであって、
謙虚さと敬愛の表現でもございます。

仏様に礼拝するのは、やがて死後にゆく浄土の世界へと願う姿であり、
互いに拝み合うのは、互いの中にある尊い仏の心を拝むというのです。

この謙虚で信仰心ある語らいの中に爽やかな思いをいただけます。
人はみなこうして、自分がよき者とへと変わり向上していくのです

(つづく)