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法話

生き方という法則 3 生き方の法則を考える

先月は「変わらないものを、どう見ていくか」というテーマでお話し致しました。
無常の世にあって変わらないものが確かにある。
さらに、私たちの生き方の中にも変わらない法則があるのではないか。
その生きる法則に従って生きていくと幸せになれるのではないか。
そんなお話でした。続きです。

小さな事でも大切に行う

生き方という法則についてお話しをしてきました。

先月の最後のほうで、
決して変わらない北極星のような「生き方の法則」があって、
それをみんなが自分のものとし守っていれば、みんな幸せになれる。
そんなお話をいたしました。

でも、世界にはさまざまな主義主張をする人びとがいたり、
その人の信じる宗教の違いで、争いごとが絶えないのが現状です。

そこで、そこまで話を広げずに、
今生きている日常の事ごとに照らしての生き方を考えていきます。
実際、この『法愛』は仏教の教えを根底にしていますが、
それを現代的にとらえ生きる法則を考えてみます。

初めに、「照顧脚下(しょうこきゃっか」という考え方です
(脚下照顧という言い方もある)。

これは禅で大切にしている教えですが、
照顧脚下とは、脚(あし)もとを照らし顧みることから、
「履物をそろえる」という意味があります。

靴を乱雑に脱いである玄関と、靴がきれいに並べそろえてある玄関では、
大きな違いがあります。

靴を揃えて脱いである家庭は、とてもきちんとした印象を持ちます。
昔から泥棒も、そんな家には入りにくいとも言われるゆえんです。

そんな凡事(ぼんじ)という平凡で小さな事ですが、徹底して行っていると、
知らず日々の生活も調(ととの)ってくるものです。

先月お話しした「応接間のソファにすわらない」ということも、
とても平凡な事ですが、それを徹底して行っていると、
やがて大きな信用を得ることができたというお話でした。

「履物をそろえる」そんなことでも、自らの心が調い、
それを見ていた周りの人も、心が正され信用を深めるのではないかと思います。

小さな事でも大切にしていくと、幸せが培(つちか)われていくのです。
こんなことも生きるうえでの大切な法則かもしれません。

母の教え

ここでひとつ、大切なことに気づいた投書を紹介します。
13才の中学生の男の子が書いた「母の教え、足元から実践」という演題です。

「母の教え、足元から実践」

自宅の玄関に「脚下照顧」と書かれたかまぼこの板がかかっています。
ある頃から、毎朝、僕の靴の中に、その板が入っているようになりました。

今まで興味もなかった言葉の意味が知りたくなり、辞書で調べました。
すると、「靴をそろえる」「他人に対して意見を述べる前に、自分を戒めなければならない」
などと書かれてありました。

いつも母から注意されていることだと気づきました。

先日、歯科医院に行った時、玄関に靴がばらばらに脱いであったので、
この言葉を思い出し、自分の靴だけでなく、ほかの人の靴もそろえました。

すると、後から来た人もきちんと靴をそろえていました。
とても気分がよく、自分の行動一つで、相手の行動も変えられるのだ、
と思いました。

母の伝えたかったことが分かった気がしました。
もう、僕の靴の中には、あの板は入っていません。

(読売新聞 平成24年6月6日)

こんな投書です。

靴をそろえるというほんの些細なことでも、
自分が相手の靴をそろえてあげたら、次から来る人も靴をそろえて脱いだということ。
そこから、自分の行動ひとつで相手をも変えられると言っています。

大きな発見です。
相手を変えるには、自分が変わる。そんな真理も読み取れる投書です。

私もトイレなどで脱ぎちらかしたスリッパを、よくそろえることがあります。
そのとき、知らずにしてしまった自分の今までの悪がひとつ消えたのだと思い、
行っています。

自分の身近なところに幸せがある

この照顧脚下には「靴をそろえる」ということばかりでなく、
「あなたが立っているその足もとをよく見なさい」という意味もあります。

幸せ感から問うていけば、私たちのほんの身近なところに幸せがいっぱいある。
幸せは山のかなたの遠いところにあるのではなく、
今暮らしているその生活の場にたくさん幸せはある。

それに気づいて、感謝の思いで暮らしていけば、
いつまでも喜びみちて暮らしていける。そんな意味も含まれています。

日々暮らしていると、
家庭においても、職場においても、あるいは社会に出て行っても、
不平不満になる出来事は山ほどでてきます。

それは自分の思うようにならないことがたくさんあるからです。

人はとかく、そんなマイナスの面を見やすく、
与えられていることはあたりまえに思えてしまう傾向があり、
与えられている事ごとが見えなくなってしまうことがよくあるのです。

そんななか、与えられているものを多く見つめられるようになると、
不思議と思うようにならないことがあっても、
心を乱すことが少なくなってくるのです。

人は二つのことを同事に考えることはできません。
怒りながら笑顔になれる人はいませんし、
不平を言いながら感謝できる人もいません。

与えられているからこそ、いつも満足の思いが心に満ちて、
思うようにならないところからくる不満の思いが入ってこないのです。

普段、健康に過ごしていたり、美味しいものを食べられたり、
太陽が東から昇り西に沈むという平凡な日々が流れていると、
身近な幸せに気がつかなくても、暮らしていけるものです。

それが健康を害して病気になったり、天災が来て、ひもじい思いをしたり、
水もない、電気もこない。そんな生活を強いられると、
身近なところに幸せがたくさんあったことに気づかされます。

そんな苦しい生活が突然にやってこなくても、
今幸せに暮らしている時、与えられている幸せを深く思うことも
生きるうえで、大切な法則のような気がします。

病から気がついたこと

口から食べ物をいただけることや、同じ枕で寝られること。
あるいは寝返りをうって体を心地よくすることもできる。
普段あたりまえにしていることですが、幸せなことだと思います。

以前、私自身、病気になって
18日間、東京のある病院に入院したことがありました。
ゆっくり休めるようにと個室にしました。

その部屋の窓からは、車がたくさん行き交う道路と、
その向こうにお堀のような池がありました。
池にはカモが遊び、池の向こうは木々が茂っていて、
何種類かの鳥たちがやってきていました。
その木々の向こうには高いビルが建ちならんでいました。

狭い個室での楽しみは、三度の食事と、
外の景色を見ながら、考えごとをすることでした。

今日もカモが泳いでいる。
鳥たちも木々の梢(こずえ)でさえずっている。
そんな景色を見ることが唯一の楽しみでした。

健康なときには、あたりまえのように外の景色を見たり、
触れ合うこともできましたが、
健康な時にはそれがどれだけ心の癒しになっていたかを
深く感じることができなかったと思います。

ベットで休みながら、
「ああ、こんな話も、ある本にでていたなあ」
と思い出したエピソードがありました。

ある病院で二人の入院患者が同じ部屋で治療を受けていました。
ひとりは窓際で、もう一人はドア側です。

ドア側のベットで寝たきりになっていた患者さんは、外の景色が見えません。
そこで窓際の患者さんに、外の景色はどうですかと尋ねました。
すると「緑の木々が生い茂っていて、鳥たちが飛んでいますよ。とてもきれいな風景です」

その言葉を聞いて、ドア側のベットで寝ていた人は、
そのことがうらやましくなり、いつからか、
窓際に寝ている人が早く亡くなればいいと思うようになりました。
亡くなれば、自分が窓際にいけるからです。

何日かたって、窓際の患者さんが亡くなり、
ドア側にいた患者さんは、やっと景色の見える窓際に移ることができました。

「ああ、やっと外の美しい景色が見られる」
そう思って、体を起こしてもらって外を眺めると、
そこは灰色の工場が立ち並び、緑の木は一本もなかったのです。

そのとき、亡くなった人が私に夢を見させてくれたのだと初めて気づき、
死ねばいいと思った自分の心の狭さを反省されたというのです。

そんな話を思い出しました。

普段何気なく見ている外の景色に、いつも幸せの思いをいただいている。
些細なことですが、大切な気づきです。

善いことをすると善い結果が得られる

もうひとつのよく生きるための法則を考えてみます。
それは因果の法則です。

善いことをすればよい結果が現れ、
悪いことをすれば悪い結果が現れるということです。

これはとても簡単な法則ですが、
最初にこの法則を生きるうえで大切であると教えることは、
なかなか難しいことだと思います。

たとえば「コロンブスの卵」という故事があります。
アメリカ大陸を発見したコロンブスが、
「アメリカ大陸など誰にも発見できる」という批判した人たちに対して、
コロンブスは「じゃあ、この卵を立ててみなさい」と尋ねたのです。
その結果、誰もできないことを知って、
コロンブスは卵の尻をつぶして立ててみせます。

一見簡単なことのように見えることでも、
初めて行うのはなかなか難しいことだと諭(さと)した逸話です。

この善いことをすれば善い結果が出るという法則も、
知れば簡単なように見えますが、最初に教えた釈尊の智慧(ちえ)には
深いものがあったと推測できます。

でも、この法則はこの世限りの法則ではなく、
死後の世界であるあの世にも引き継がれていくものだということを
知っていたほうがよいと思います。

釈尊はこう教えています。

鉄から起こった錆(さび)が、それから起こったのに、
鉄自身を食い尽くすように、悪をなしたならば、
自分の業が静かに気をつけて行動しない人を悪いところ(地獄)にみちびく。

(『感興のことば』中村元訳)

こう教えています。
また善いことをすればどうなるかですが(前掲書)、

身体によって善いことをせよ。
ことばによっても心によっても善いことをするならば、
その人はこの世でも、かの世でも幸せを得るであろう。

(『感興のことば』中村元訳)

こうも説いています。

悪いことをすれば不幸になり、善いことをすれば幸せになれるということ。

「鉄から起こった錆」のところから考えれば、
悪いことをすれば、それは自分自身がしたことであり、
悪からくる、その不幸を他の責任にしないということ。

悪いことをして反省しなければ、死後、地獄に堕ち、
善いことをして亡くなれば、幸せのみ国へ昇っていけることができること。

ですから、身体で行えること、言葉で行えること、
そして心の内で行えることで、善を積んでいく。

これらのことを生きる法則として持っていることが大切になります。

この『法愛』を書いている私自身あまり善を積んではいませんが、
少しお役に立っていることといえば、今年33回目になる子供会の合宿かもしれません。

今年は25名ほどの小学生と
お手伝いをしてくださる高校生の女の子たち15名ほどで
一晩泊まりの子ども会をしました。

高校生は泊まることはできませんが、ボランティアでお手伝いをしてくれ、
高校生自身、自覚をしているかわかりませんが、尊い善を積んでいるように思え、
その手伝ってくれる姿に尊いものを感じました。

小学校3年生の女の子が書いた感想文を載せてみます。

お寺に今日来ました。
さいしょ、顔合わせをしました。
マイクで自分の名前を言ったのがはずかしかったです。

次にほとけさまの絵を書きました。
「じょうずだね」って、こうこうせいに言われうれしかったです。

おやつも歌のれんしゅうも、こうこうせいと遊んだのも楽しかったです。
キャンプファイヤー楽しかった。
きもだめしびっくりしたけれど楽しかった。
ねるとき男の子がうるさくてねれなかったです。

次の朝、たいそう、ぶっさん(仏様にお参りする儀式)よかったです。
おやつすごいおいしかった。楽しい二日かんでした。

(カッコは筆者)

二日間の様子がよく描けています。

この感想文を書いた後で、いつも流しそうめんをするので、その感想はありません。
この流しそうめんも楽しかったようです。
子どもの純真な思いが伝わってくる文章ですね。

善も悪も、少しずつ心の甕(かめ)に、
しずくのように一滴ずつたまっていくものです。
善のしずくをため、悪のしずくはためないように、気をつけて生きていく。

そして前述した、小さな事でも大切に行うことや、
自分の足もとを見つめ、感謝の思いを深めるという生き方。

これらの法則を生き方の中に繰り入れていくことで、幸せになっていける。
このことをしっかり心に刻んでおきましょう。

そして、大切な生きる法則を少しずつ地道に学びながら、
不幸を蹴散(けち)らし、いつも幸せでいましょう。