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法話

生と死の扉を開く 3 生まれるための免許証

先月はさまざまな生と死や、生まれて来る前のことごとをお話し致しました。
特に、この世に人びとは自分の意志で生まれてくるというところが、
このお話の大切なところでした。続きです。

免許証がいる

先月号で、いんや りお君のお話をしました。
そのなかで神様が、りお君が生まれて来る時に、
りお君に金色のメダルをくれたというお話をしました。

それを別なとらえ方をすると、
生まれるためには「生まれていいですよ」という、
免許証がいると言い換えられるかもしれません。

考えてみると、何をするのにも、たいがい免許がいります。
車の運転にしろ、医師になるにも、看護師や教師、調理師や弁護士、
坊さんにも免許証がいります。

坊さんでも資格のない僧侶では、引導も渡せません。
無断ですれば、逮捕されることはないにしても、信用を失います。
ましてや医師や看護師の免許もなく、病気の人を診てお金を取ったりすれば、
おそらく逮捕されるでしょう。

この免許のことを「車」で少し考えてみます。

まず車の免許を取りたいと思います。車に乗りたいと思います。
思わなければ、車の免許など取りません。
バスや電車を利用すればいいわけです。
まず、車に乗りたいという思いがあります。

なぜ乗りたいのか。必要があるからです。
仕事に出かけたり、仕事で車の運転が必要だったりします。
買い物に出かけたり、子どもを保育園や学校に送り迎えしたり、
さまざまです。

車の免許を取る時には、車の運転の仕方や、路上での法規など、
さまざまな研修を受け、最後に試験を受けて、
その試験に合格すれば、車に乗ることができます。

生まれるための免許証

この車の免許の事例を、生まれて来る時に当てはめてみます。
真理は単純であると言われているように、素直に単純に考えてみるわけです。

まず、この世に生まれてくるために、「生まれたい」という思いがあります。
生まれたいと思うから、生まれることができるわけです。
でも、そのためには、生まれるための免許がいります。
それなりの資格がいるわけです。

ですから、その免許を取るために研修を受けなくてはなりません。
研修を受けて、生まれてもいいという試験を受け、その試験に合格し、
免許証をいただいて、初めて生まれてくることができるわけです。

生まれてくる前に、どんな研修を受けるのでしょう。
私の長年培ってきた学びの力で、3つほど挙げてみます。

1番目は、生まれたいという強い意志があるかどうか。
そんな面接を受けるはずです。

3番目に、生まれたら、下界(かかい)の世界で、何をしたいのか。
どう生きたいのか。何を学びたいのか。そんなことを問われ、心の整理をします。

3番目に、下界に生まれ、どう生きたらよいのかの基本を学びます。

基本を4つほど挙げてみましょう。

1、相手の喜びと幸せのために生き、善を積むこと。
2、感謝の心を忘れず、何事にも前向きに努力すること。
3、困難にも耐え忍び、くじけないで、そこから多くを学ぶこと。
4、下界の世界で、いっぱい幸せになること。

こんな生きる基本を学びます。

そして学び終わって、試験を受け、
合格したら、神仏は大切なことを伝えます。

「下界では、辛いこともたくさんあるでしょう。
そのために私の心の力を、あなたの心に預けます。
つらいことがあったら、願いなさい、祈りなさい。
私はいつも、心と心で結びついています。
あなたの苦しみは私の苦しみ、あなたの悲しみは私の悲しみ。
そんな日々の暮らしのなかで、互いが手を取り合い、幸せになりなさい。
笑顔いっぱいに幸せになりなさい。それがまた、私の幸せなのです」

そう言って、送り出してくれます。

自動車学校の教官も、今まで教えた人たちが合格し、
免許を取って、実際に車を運転するようになると、
きっと同じようなことを思うはずです。

「今まで教えてきた車の運転の仕方や路上での法規を守って、安全に運転してください。
くれぐれも事故をおこさないようにして、ドライブを楽しんでください」と。

くじけない生き方

『くじけないで』(飛鳥新社)という詩集があります。
柴田トヨさんという方が98才の時に刊行した本です。
101才まで生きられ、平成25年に天に帰られました。
「くじけないで」という詩を掲載します。

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

天の世界でも、こんな詩を学び、
「下界で大変なことがあっても、くじけないで、幸せになるんですよ」
と、みんなが送り出してくれるのです。

生と死の扉を開く 4 生の扉を開く

古池の意味

生まれたいという思いから、生まれるための研修を受け、合格し、
神様からいただいたメダルとしての免許証を持って、
この世に生まれてきたとお話ししました。

松尾芭蕉が、
古池や 蛙飛び込む 水の音
という、とても有名な俳句を残しています。

この俳句には、いろいろな解釈があるようですが、
ここでは「生と死」というテーマに合わせて考えてみます。

まず、古池がこの世になり、蛙が人で、
水の音とは、この世に生まれてきたときの
赤ちゃんの「オギャー!」という声かもしれません。
生まれる前のことは、この世の池に飛び込んだ衝撃で忘れてしまうのです。

さらに、静かな水の面に、波が立っていきます。
その波がこの世での苦しみの波であったり、
悲しみの波を表しているわけです。

いつも波立たない静かな日々を送ることができればよいのですが、
この世は思うようにならない世界です。

また、この世である古池は、透明ではなく濁っています。
その中で目を開けてみても、よく見えません。
それが、どう生きたらよいのかわからないということになります。

インドの地に仏陀が現実に現れ、その慈悲の力が多くの人を救い、
今も、この『法愛』という形で、その教えが灯っています。

生まれてきてよかったのか

この世に生まれて、今まで生きてきて、
どのように自分の人生を考えたらよいのかを整理してみます。
たとえば、次の質問で、どちらを選ぶでしょうか。

1、生まれてきてよかった。
2、生まれてくるんじゃあなかった。

私自身、今の仕事は坊さんです。
初めて髪を剃るときは、この世とのお別れのような思いがあって辛く、
今思い返せば、生まれてくるというのは大変なことだと、
そんな感じを持っていました。

でも、今は1番の「生まれてきてよかった」という思いの方が強いのです。
なぜならば、心の問題を専門に考えられることができるからです。
そしてその考えをお話や文章にして、多くの方々にお伝えすることができるのです。
こんな尊い仕事はないと、今は思えるようになりました。

心の問題で、ひとつの法則のようなものがあります。
それは、「与えると喜ばれ、それが自分をも幸せにし、共に豊かになっていく」
という生き方です。

これは、生まれる前の研修で学んだ、
「人の喜びと幸せのために生き、善を積むこと」に通じていきます。
また、人の幸せのために生きることが、自分の幸せにも通じていくという、
深い真理を学び取ることもできます。

涙を流してありがとう

西出ひろ子さんという女性が
『心に響く接客の秘密』(青春出版社)という本を出しています。
この人は接客のプロで、それに関連する本が多数でています。
この本の最後のほうに「指輪事件」というエピソードが載っています。
感動した話なので、少しまとめて載せてみます。

九州でマナー研修があって、あるホテルに泊まりました。
ホテルに入っている美容室でヘアセットとメイクをしてもらい、
部屋に戻ると指輪がありません、どこを探しても見つかりません。

研修に遅れてしまうので、チェックアウトをして、
ホテルの人に指輪のことを頼み、研修に向かいました。

研修を終え、飛行機で東京に帰らなくてはなりません。
指輪のことが心配でホテルに電話をいれました。
でも、「ない」との返事。
「もしかしたら、美容室から部屋に戻るエレベーター付近にあるかもしれない」
と、ホテルの人に伝えたのですが、「ない」と言います。

「もしかしたら、美容室にあるかも」と思い電話をしました。
電話を切った5分後、美容室から電話があって、
「指輪がありました。デザインは・・・」と聞かれ、
「それです。間違いありません」と答え、指輪が見つかったのです。

「どこにありましたか」と聞くと、
エレベーターに行く途中の絨毯(じゅうたん)の上にあったというのです。
このことはホテルの人には伝えたのですが、美容室の人には伝えていなかったのです。
それを美容室の人はわざわざ美容室の外まで出て探してくれたのです。

指輪が見つかったことを知った西出さんは、
何度も、何度も「ありがとう」と言って、涙を流しながら感謝したといいます。

そして、このホテルはその後、経営困難になり買収され、
ホテルの名前も変わり、その美容室は相変わらず、
そのホテルで営業をしているといいます。

お客様から涙を流しながら「ありがとう」と言われたことがありますか?

と、この話を結んでいます。

お客様が涙を流しながら「ありがとう」と言っていただいた
その美容室の接客マナーが、美容室の繁栄を守ったといえます。
逆にホテルの対応のまずさが、
やがて経営困難に陥ってしまったということもわかります。

相手のためにできることをし、幸せになってもらう。
それがまた自分の幸せに通じて、さらに豊かに繁栄していく。
そんなエピソードを語ったお話でした。
この西出さんは「おわりに・・・」というところで、こう書いています。

いつの日か、私もあの世に逝く日がきます。
あの世で、お世話になった人たち、
大切な人たちに恥じることなく再会できるよう
『今』この時を、『今』この出会いを、『今』の一つの仕事を大切に、
誠実にこなして、生きていきたいと思います。

こう語っています。
間違いのない、この世での生き方であると思います。

古池に花を咲かす

この世ではさまざまなことごとが起こってきます。
この世を古池とたとえました。

その池のなかが透明なら見えやすいのですが、
古い池で濁っているので、どう生きたらよいかが見えにくいわけです。
そのために間違った生き方をして、人を傷つけ、
それが自分をも傷つけてしまい、
互いが苦しみ不幸になっていく場合が多々あると思います。

その時に必要なのが、どう生きたらよいかを説いた教えなのです。
その教えも、お釈迦様の説かれた法(ほう)であったり、
歴史に残る人たちの考え方や言葉、
あるいは昔から言い伝えられている諺や格言などを参考にしながら、
正しく生きていくことが必要になります。

誰しもが幸せで波立たない平穏な日々を願っています。
でも、この世の人生はそんな甘いものではありません。
苦しみや悲しみ、苦労の絶えない、そんな日々もあります。
そんなマイナスと思える出来事や出会いを、誠実に受け取り、
そこから何かを学びとっていく姿勢が、やがて幸せを手にする方法なのです。

人はこの世で多くの学びを積んでいくことで、さらに心を深くし、
それがまた人のために働ける原動力となっていきます。
そう生きていくことで、濁った古池だからこそ、
きれいな蓮の花を咲かせることができるのです。

その花は自らが咲かす、人生の美しい花です。

(つづく)