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法話

人生という美しい絵画 2 自分の人生の絵画を見る

先月は「人生は絵画のよう」ということで、
どのような思いや考えで生きたかが、絵画のように、
その人の人柄のなかに描き出されてくるという、
そんなお話を致しました。

続きのお話をしていきます。

自分が描いてきた絵画

先月「人生は絵画のよう」というお話をしましたが、
ところで、自分は人生にどんな絵を描いてきたのかを振り返ってみます。

一般的な風景画として考えてみると、
そこには太陽が描かれていて、四季の巡りのなかに、
花が咲き、蝶が舞い、緑があふれ、谷川の涼しい水の流れや、
木々に紅葉と実りの秋。そして汚れのない白い雪の景色。
山々や海があって、青い空が広がっている。

道元禅師が歌った
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり」
といった、そんな美しい景色を思い浮かべます。

このような風景の姿が、自分の人生の中に、
どのように描かれているでしょう。

太陽の明るさが意味するもの

まず、もし太陽が描かれているとしたら、
太陽は何を象徴しているのでしょう。

太陽は光であり、明るくあたたかな陽ざしを届けてくれます。
そして、すべてのものが生きるためのエネルギーを無償で与えています。
もし太陽がなければ、すべてのものが生きていくことができません。

日本では、この太陽を象徴しているのが天照大神であり、
お釈迦様も太陽の末裔であると仏典に記されています。
ですから、太陽が描かれているというのは、
自分の人生に「神様や仏様を信じるという生き方」があるように思えます。

ここでは特に、太陽の明るさについて考えていきます。

たとえば太陽が西の空に沈むと、あたりが暗くなり、
家の中では電灯をつけないと暗くて生活できません。
災害などで、電気が来なければ、
それが夜であると、どこに何があるのかわからなくなり、
手探りで懐中電灯を探さなくてはならなくなります。

このようなことはすぐ理解できるのですが、
これが日々の生き方になると分からなくなるのです。

仏教では、どう生きていったらよいのか分からない状態を
無明(むみょう)と教えています。明かりが無い、そんな状態です。

情(なさ)けは、人のためならず

「情けは、人のためならず」という格言があります。
情けを相手にかけると、その人のためにならないから、
人に情けをかけてはいけない。そんな意味にとらえる人も多いようです。

この格言の正しい意味は、
人に親切にしたり、思いやりをもって接していれば、
その善の行いが、相手の幸せばかりでなく、
やがて自分にも返ってきて幸せになれる。そんな意味です。

家族でいえば、自分がおじいちゃんやおばあちゃんを大事にし、
母や父を大切にしていれば、やがて自分が母になり父になり、
あるいはおじいちゃんになりおばあちゃんになったとき、
大切にされるということです。

こんな簡単なことが、分からない人がいます。

自分の父母を大事にしないで、
自分がその立場になったとき、若い人やお嫁さんに大事にしてもらいたい。
それは楽(らく)でいいのですが、人生はそんなに具合よくいかないものです。

先祖様にもいえます。
先祖様のお年忌もしないで、
生きている人が幸せで繁栄していくというのはありません。
亡き方を尊び、生前していただいた恩に感謝し、
心をこめて日々のお参りや年忌の法要も営む。
そこに子孫が繁栄し、その善の行いが、やがていい形で返ってくるのです。

太陽の明るさは、まわりがよく見えるということです。
人生で言えば、どう生きることが正しいのかを
知っているというということになります。

人生の絵画としては、太陽の明るい光が指している。
そんなイメージの絵になっているかもしれません。

あの世を知らない

ある新聞に、こんな投書が載っていました。
とても気になったので、切り抜いて取ってあったのですが、
無明という明かりがない状態、本当のことが分からないというのは、
愚かなことだなあと思ったのです。
62才の男性の方で「霊魂を信じない僧侶のため」という題です。

「霊魂を信じない僧侶のため」

父が亡くなって三回忌を迎えた。
その間にも親せきや知人が続いて亡くなった。

そのたびにお坊さんの法話を聞かせてもらったが、
驚いたことに一度もあの世や霊魂の話がなかった。

諸行無常とか空(くう)に触れても、この世に限った話をしている。

しかし、この世のことなら、
僧侶(そうりょ)より俗人の方がはるかに知識も経験も有している。

お盆とは、あの世にいる先祖の魂が子孫のところへ降りてきて、
子孫の近況報告を聞き、感謝の言葉を聞く行事であろう。
あの世も霊魂もないのなら、お盆はいったい何のための行事かわからない。

満員列車や渋滞道路にうんざりしながら帰郷するのが、
ただ石の塊(かたまり)を拝むためだとしたら、
こんなばかげたことはあるまい。

民間の研究団体である
日本エドガー・ケーシーセンター会長の光田秀さんが、
ある仏教専門誌に
「大半の僧侶が霊魂の存在を信じていないことに驚く。
そのような僧侶が葬儀で高額のお布施を受け取ることは詐欺行為に思える」
と書いておられたが、その通りだと思う。

(産経新聞 平成24年8月9日付)

僧侶にとっては手厳しいご指摘だと思います。

この『法愛』では、よくあの世のことをお話ししていますが、
多くの僧侶が自信を持ってあの世のことを語れるのは少ないかもしれません。
よく分からないので、逃げているとも考えられます。

葬儀は、亡くなった方が、使えなくなった身体から
魂(心)が抜け出して、生前の行いに合った世界に昇っていく、
あるいは堕ちていくわけです。

生きている私たちは葬儀を通じて、
故人が亡くなったことを自ら確認していただき、
思いやりのこもったお別れをし、
できるだけ幸せの世界に昇っていけるように、
お手伝いするためにあります。

ですから、生きている人も、
あの世の存在を信じていることが供養にとって大きな力になるわけです。

こうして考えてくると、知らないというのは誤った生き方になってしまうのです。
できることなら、神仏(かみほとけ)の説く教えを、
この世を生きる燈明として生きていく。
そんな人生が、太陽が輝く絵を描けるのだと思います。

四季の巡りのような苦楽の流れ

人生は四季の巡りのように、良いこともあれば悪いこともあります。
幸せなときもあれば、不幸の時もあり、
喜びの時もあれば、苦しいときや悲しい時もあります。
そんな苦楽をどう乗り越え生きていくかで、人生もずいぶん変わってきます。
どのように、そんな人生に自分の絵を描いていくかです。

肝心なことは、苦しみは小さく見て、幸せは大きく見ていくこと。

苦しみは、自らの心を磨くものととらえ、幸せは感謝を学ぶ場ととらえていく。

苦しみは自分の足りないところを教えてくれると思い、
幸せは生かされている自分に気づくためにあると思うこと。

苦しみは人生の課題を知る機会とし、
幸せは神仏から与えられたご褒美として感じていくことです。

そして、苦しんでいる人を見ては手を差し伸べ、
幸せな時は、その幸せをまわりの人たちに少し分け与えてあげる。

苦しんでいる人に寄り添い、幸せは生きる力としていく。

苦しんでいる人の思いを察してあげ、
幸せの人を見て嫉妬することなく、その相手の幸せを祝福してあげる。

そんなとらえ方をしながら、人生という四季の巡りを描いていきます。
きっとそこには、満足のいく人生の絵が描き出されていると思います。

花の絵は喜び

人生の中に花が描かれているとしたら、
その花にはどんな意味が込められているのでしょう。

さまざまな意味があると思いますが、その中の一つとして、
小さなことに満足と喜びを大切にしてきたという生き方があると思います。

「しみじみ」という言葉があります。
深く心にしみるという意味ですが、
今ある自分をしみじみ幸せと思えるかです。

たとえば、ごく普通の生活で、夫がテレビを見ている。
その隣で妻が編み物をしている。子ども達はゲームをして遊んでいる。
そんなごくごく普通の生活に、しみじみ満足と喜びを思う。

家族で買い物に行く。駐車場に車を止め、その車の排気ガスが鼻をつく。
そんな時でも、家族とこうして一緒に買い物ができる。
そこに満足と喜びを感じられる。
そんな人を以前どこかで書いたことがあります。

旦那さんが病気になり、もう立ち直れないかもしれないと思った。
でも、何とか元気になって、家族で買い物に出かけるほどに
旦那さんが病気から快復した。

家族一緒に車で出かけ、駐車場に車を止める。
そんなとき車の排気ガスが匂ってきた。
普通ならば、避けたい匂いなのに、その匂いが全く気にならなくて、
ありがたいほどであったという。

そんな女性の方が実際におられました。

ごく普通の生活にしみじみと喜びを感じていなかった。
でも、旦那さんの病気のことがあって、あたりまえの生活が、
ほんとうはそうではなくて、ありがたいことだと気づいたわけです。

朝、顔を水で洗える。
毎日のことで、当然のことと思ってしまう。
そんなとき、西日本豪雨であったように、
その豪雨で水道をひくおおもとの貯水池が壊され使えなくなり、
一般家庭に水をひくことができなくて水が出なくなった。
自衛隊の方々が必死で、水を供給する。その水のありがたさ。
臨時のお風呂に入る、その尊さ。
普段忘れがちですが、ごく普通に水が使える。
そのことに満足と喜びを感じることができる。

あるいは、いつもの時間に、
いつもと同じ枕(まくら)で休むことができる。
そのことに、しみじみと満足と喜びを感じ、感謝の思いを抱く。
そのような生き方が、時には必要ではないかと思います。

そしてその思いが、人生の絵画に、花の絵を描くことができるのです。

山と海の絵が意味するもの

以前「徹子の部屋」で、加山雄三さんが出ていて、
最近、命と同じくらい大切な船を火事でなくした辛さを語っていて、
その中で、加山さんが描いた絵を紹介していました。

その時は、みな海の絵で、
波のしぶきや青い海原の様子が上手に描かれていたのです。
その時、「上手な海の絵だなあ」と、感心したことがありました。

山の絵でも、沢山の画家が、それぞれのタッチで山を描いています。
中でも好きなのが横山大観の富士の絵です。
そんな海や山は、人生にたとえると何を意味しているのでしょう。

いろんなとらえ方があると思いますが、
その一つに豊かさがあると思います。
海は魚をはじめさまざまな生きものを育んでいます。
山も同じで、多くの木々や植物、そこに住む鳥や昆虫、動物を守っています。

海や山のような豊かな人生を作っていくために、
お金を貯蓄していくと同じように、
善の行いを地道に少しずつ積み重ねていくことが必要だと思います。
一握りの土を重ねて山を作っていくように、
一滴の水をためて水たまりから池、そして湖、海になるように、
根気よく善を積み重ねていく。

たとえ、大きな山や広い海になることはないにしても、
この志(こころざし)が大切ではないかと思います。

人生という美しい景色

自然の景色に照らし合わせて、その意味を考えてきました。
それらを重ね合わせ、自分にとって今、
どんな人生の絵が描かれているでしょう。
今、心の中に美しい景色が描かれているでしょうか。

人生の中で、小さな一コマが、その人の人生を豊かにし、
そして美しいものにしている詩を載せてみます。

「冬のはな」という題で、72才の女性の方の詩です。

「冬のはな」

遊んでかえると
母はいろりにあぶった
あつあつの手で
私を包んでくれた
なんども なんども・・・
ぬくもりでひらく
かじかんだ手

雪のふる日
ふる里がかたりかける
昔 いろりに咲いた
ちいさな はなを
忘れてはいないかと

(産経新聞 平成30年2月6日付)

小さな花が心の中に描かれています。
こんな些細なことでも、一つ心の中に描かれていると、
その人の人生は美しい景色に満たされるのです。

もう一度、過ごしてきた自分の人生の中で、美しい景色を思い出してください。

(つづく)