.

ホーム > 法愛 4月号 > 法話

法話

富める心のしぐさ 1 生きるための根本

今月から「富める心のしぐさ」というテーマで、3回ほどお話をしていきます。
「しぐさ」の意味は、人の動作や表情、行動や言葉使いをいいます。

心が富んでいる人のしぐさはどうなのか、
心が貧しい人のしぐさはどうなのかを共に考えていきましょう。

ちなみにこのお話は、
平成25年7月18日、「法泉会」というお話の会で語ったものです。

迎え3歩、送り7歩

法事の後、食事の席に招待されることがあります。
食事が終り、お家の人が、お寺まで送ってくださったとき、
いつも迷うことがありました。

それは送ってくださった人を、
山門の前で、見えなくなるまで送ってあげたらいいのか、
そうしないほうがいいのかということです。

見えなくなるまで送ってさしあげるときに、
送ってくださった人が、車に乗り、山門を出ていくまでのようすを見ていると、
何やらとても緊張しているようなのです。
なので、車に乗られたら私も山門に入って身を隠したほうが、
送ってくださる人が余計な緊張もしないと思い、
見えなくなるまで送ることをしないでいました。

あるマナーの心得の本を読んでいると、
そこに「迎え3歩、送り7歩」というマナーの仕方が載っていました。
それを読んで「はっ!」としたのです。
やはり送って来てくださった方を見えなくなるまで送ってあげるのが、
富める心の持つ、人のしぐさなのかもしれないということです。

迎える時には3歩前に出て、よく来てくださいましたと迎える。
そしてお帰りになるときには、7歩前に出て、ありがとうございましたと、
感謝の思いで送ってさしあげる。これが富めるマナー、しぐさなのです。

そんなことを知って、この年(平成25年)、
姪の結婚式があって、東京に行きました。
品川のあるホテルを取ってくれたので、
披露宴が終わってホテルに向かいました。
カウンターでホテルの方が出迎えてくれました。

でも、翌朝帰るとき、女性のスタッフの方が、
私をホテルのカンターではなくて、
なにやら機械が並んでいるところに誘導されるのです。

その機械にホテルの宿泊カードを入れるようになっていて、
カードを入れると「領収済み」という紙が出て来て、それでおしまいでした。
「ありがとうございました」の、ホテルのスタッフの方の挨拶がありません。
正直な話、「このホテルにはもう泊りに来たくはないなあ」と思ったものです。

礼節を知る

この「法愛」を読んでくださっている方は、たくさんおられるのですが、
その中に名古屋にお住いの杉田(仮名)さんがいらっしゃいます。

伊那市にご親戚があって、
義弟が亡くなられたというので、葬儀に来られたのです。
そのとき、葬儀会場に置いてあった「法愛」を読み、
私も読みたいという電話を受けて、4年ほど読んでおられました。

そしてこの年(平成25年)に、再びご親戚の方が亡くなられ、
その折に、どうしても護国寺にお参りしたいと、ご夫婦で来られたのです。
お会いすると、「穏やかで明るく、ほんとうに善い人である」という感じを受けました。
きっと、富める心をお持ちの方と思ったのです。
この方が来られて、3歩で迎え、7歩の思いでお送りいたしました。

すると翌日、お礼の電話をいただきました。
さらに後日5枚ほどの便せんに、筆で書かれたお礼状をいただいたのです。
丁寧に書かれた、その文字の中に、真摯な思いが伝わってきます。
一部を載せてみます。

静かなたたずまいのなか、立派な本堂、数々の仏様に巡りあえて、
ご住職、奥様にもお話することが叶いました。

縁とは本当に不思議で、
平成二十一年十月二日、義弟の葬儀に参列しなければ
「法愛」にも合うことがなかったのではと、つくづく感じます。

人が日常に生活する為に必要な行いを、わかりやすく教えていただいております。
多くの人が「法愛」に書かれていることを実行すれば、
世の中もっともっと良くなるのではないかと思います。

こんな手紙までいただき、
送り7歩のしぐさを学ばさせていただいた体験でした。

江戸のしぐさ

先のマナーの本で「お迎え3歩、お送り7歩」という人としての礼節を読んだのですが、
後に、これは江戸時代から伝えられている礼節であることを
『おもいやりの心 江戸しぐさ』(越川禮子監修)という本で知りました。
そこに江戸のしぐさの一つに「お迎え三歩、見送り七歩」というしぐさがあるのです。
ここで、江戸っ子をこう書いています。

江戸しぐさでいう江戸っ子は、
目の前の人を仏さまの化身と考えて接する、
人の時間を大切にして時泥棒をしない、
人の肩書きを気にしない、遊び心がある、世辞が言える、
そんな人です。

こう表現しています。

また、「人前では決して許されないしぐさが女性にあったということ」で、
こう書いています。

大人の女性が人前で決して、してはならないこと、
それは化粧すること、口に食べるものを入れたまま喋(しゃべ)ること、
人の体を親しげに叩くこと。

こうありました。

電車の中でお化粧する女性を見たことがありましたが、
こんなところでいいのかなあ、という思いを持ったことがありました。

心の内にどんな思いを持っているかで、
その思いがしぐさに現れてくるといえます。

心の思いが違うと、しぐさも違ってくる

昔、盛永宗興(もりながそうこう)という禅のお坊さんがいて、
東京のたとえをしていたのを印象的に覚えています。

ある人が東京へ行きたいと思っていたが、間違えて京都の方へ行ってしまった。
その人は努力して歩けば歩くほど、目的地の東京から離れていく。
そのように、何のために生きるかで、方向を間違えば、
大変なことになってしまう。そんなお話でした。

たとえば、ここに包丁があるとします。
普通、包丁は料理に使います。
野菜を切ったりお肉を切って細かくします。

でも、使い方を間違うと、その包丁が凶器になったりするのです。
恨みの思いで、人を傷つけてしまうこともあるわけです。
包丁一つにしても、その包丁をどのような思いで扱うかによって、
まったく違った結果がでてしまいます。

昔、ある映画を3人で見に行ったことがありました。
割引券がなかったので、一人1800円です。
受付の女性に「3人です」というと、
即座に早口で、「5400円です!」と答えます。
心の中で、「よく、こんなに早く計算できるなあ」と思ったのですが、
受付の女性はそれ以外、言葉を発しません。ニコリともしません。

映画を見て帰りに受付を通ると、
その女性は奥の方に引っ込んで、こちらにでてきません。
ですから「ありがとうございました」という言葉もありません。

帰りにみんなで、
「受付の女性、ひどかったなあ。あれだと自販機の機械のほうがましだ。
ありがとうと言う自販機もあるからね」
などと、話しながら帰ってきたことがありました。

お客様に楽しく映画を見てほしいという思いがあれば、
「いらっしゃいませ。ごゆっくり鑑賞してください」という言葉がでてきます。
そうでなくて、「バイトでお金だけを受けとればいい」と思っていれば、
お金を受け取るだけで終わってしまいます。

心の中で何を思っているかで、言葉や行動が違ってきます。
ここでのテーマでいえば、「しぐさ」が違ってきてしまうのです。

ですから、どんな思いで人と接していくか、どんな思いで仕事をするか、
どんな思いで生きていけばよいのかが大事になるのです。
その思いによって、その人のしぐさが変わってくるからです。

信心深い人のしぐさ

見えない仏様を信じている人のしぐさと、
目に見えることは信じていても、見えないものは信じない人のしぐさも
大きな違いがでてきます。

ある新聞に「生き方示す母に合掌」という投書が載っていました。
66才になる女性の方の投書です。

「生き方示す母に合掌」

96歳になる母と同居するようになって7カ月が過ぎた。
それまでも週2、3回は母に会いに行っていたが、
いざ一緒に暮らしてみると私の知らない姿があった。

わが家をよその家と思っている母は、
毎朝「今日一日お世話になります」、夕方には「今日はお世話になりました」と。
夫にあいさつを欠かさない。夫も立ち上がって礼を受けている。

あいさつしたことも忘れる母は、日によっては何度も繰り返す。
その都度、夫は何事もなかったかのように同じように礼を返す。
母は恥ずかしそうに、満足そうにほほえんでいる。

そんな母の姿をみると、
夫には申し訳ないが、ありがたいことだと思っている。

思えば、信心深い母の一日は合掌で始まり、合掌に終わる。
朝夕の読経は長年の習慣だが、朝日や夕日に向かって、
果てはトイレやお風呂まで手を合わせる。
寝る前には衣類をきちんと畳み、そして私にまで合掌をしてくるのだ。

言葉もめっきり少なくなった母が、
身をもって私にこれからの生き方を暗に諭しているように思えてならない。
まさに介護冥利である。

私こそ、元気でいてくれる母に合掌。

(朝日新聞 平成25年2月16日付)

こんな投書です。

この文章を読むだけで、尊い思いがしてきます。
きっと目に見えないものや、お世話になっている人の気持ちを理解していて
感謝の思いが深いために、このようなしぐさができるのではないかと思います。

私自身、還暦を過ぎたら、
何にでも「ありがたい」といって頭(こうべ)を垂れる、
そんな志もありましたが、なかなかできないものです。

どう生きてきたかという心の思い

あの世に旅立っていくのに、思いの中で「死んだら終わり」という人と、
「死んでも魂が残り、その魂があの世に移っていく」と思っている人では、
生き方も当然違ってくるでしょう。

東日本大震災の時に、さまざまな不思議なことが起こって、
それをまとめた本が何冊も出ています。

 ある大橋にいくと、
 高校時代にいつもそこで待ち合わせていた友人が立っている。
 もう津波に流がされて亡くなってしまった友人なのに。

 あるいは、ピンポンが鳴ってドアをあけると、
 ずぶ濡れの女性が立っていて、着替えがほしいという。
 おそらく津波で流されて亡くなった女性だろう。

そんな話がたくさんでてきます。

仏教的には成仏していないと思われます。
普段から死後の世界があると知っている人ならまだしも、
死んだら終わりと思って、急に津波に襲われ死ななくてはならない人の成仏は、
速やかにはいかないものがあると思います。

死を受け取った時は、この世のすべてのものが剥(は)がされるのです。
家柄もそうです。履歴も、身体的なものも。

すべてが剥がされ、何がそこに残るかというと、
どのような思いで生きたかという、その人の生き方なのです。

どのような坊さんであったか、
どのような先生であったのか、
どのような看護師であったのか、
どのような女性であったのかという、
その生き方が問われるわけです。

ですから、どのような思いで生きるかが、とても大切になります。

生きるための根本の思い

仏教に「こんな願いで生きるとよい」という教えがあります。

衆生無辺誓願度(しゅじょう むへん せいがん ど)

衆生とは私たちのことです。
広くは生きとし生けるものたちです。
度(ど)は救うという意味。

ですから、
「生きとしいけるものは、この世に数えきれないほどあるが、
お救いしていこうと願い誓う」
という意味になります。

救うというのはおこがましい言葉使いですが、
「幸せのお手伝いをさせていただく」と、言い換えてもいいかもしれません。

修行僧堂で一緒に修行した仲間の一人に、
お寺の生まれでなく、在家の生まれの方がわざわざ出家して修行に来ていました。
「在家から坊さんになるんだ。すごい人だなあ」と日頃思っていて、
あるとき「何故、坊さんになろうと思ったのですか」と聞くと、
「坊さんは食いっぱぐれがないから」と言われ、
内心、がっかりしたことがありました。

私も当時は、大した志はなかったのですが、
今では思いの中で、みんなの幸せのお手伝いをしたいという願いがあります。

あの世に帰って、閻魔様にこの世でのことを聞かれたら
「力足らずではありましたが自分なりに、『法愛』やお話を通して、
みんなが幸せになれるお手伝いをしたい。そんな『しぐさ』を尊んで生きてきました」
と、答えます。

どんな思いで生きるか。
この思いがとても大事で、その思いが日頃のしぐさに現れてくるのです。

(つづく)