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法話

富める心のしぐさ 3 仏教の教える富める心と貧しい心

先月は「富める心と貧しい心のしぐさ」ということで、さまざまな例を出し、
それぞれのしぐさについてお話ししてきました。続きです。

信は最高の財である

仏教における富の心を考えてみます。
お釈迦様が、こんなことを教えています。

信(まこと)は、人の最高の財である。
信仰は、実は最上の宝である。
ひとは、信仰によって激流を渡る。
信仰心の深い人は、人生の旅路の糧(かて)を手に入れる。

『感興のことば』中村元訳 岩波文庫

信じることが最高の財であり宝であると、お釈迦様は説いています。
ここでは、お釈迦様の説く教えを信じ、
その教えによって知慧(ちえ)をいただき、
さまざまな困難を解決し乗り越えていく。そう語っています。

さらに信仰心のある人を水でたとえています。

信仰のない人とつき合うな。
水の乾(ひ)からびた池のようなものである。
もしそこを掘るならば、泥くさい臭(にお)いのする水が出て来るであろう。 

しかし、信仰心あり明らかな知慧ある人とつき合え。
水をもとめている人が湖に近づくように。
そこには、透明で清く澄み、濁りのない水がある。             

(前掲書)

信仰心のない人は、乾からびた池のようなもので、
そこには泥臭い水があるといいます。
ここでは、煩悩の泥で心がおおわれた状態をいうのだと思います。

反対に、信仰心ある人は透明で清く澄んだ水があるといいます。
煩悩を消し去ったきれいで清らかな心をいうのでしょう。

手を合わすしぐさ

信仰心は大いなる存在を信じて歩むという意味です。

特に禅では、心の内にある仏の心を信じるという意味で
「信心」という言い方をします。
信心が深ければ、大いなる存在の力をいただける、
そんな意味合いも信心にはあります。

さて、泥の水でおおわれている心と、清らかな水をたたえている心、

たとえば、食事をいただく「しぐさ」として、
食事の前に、何も言わないで食べる人と、手を合わせていただく人がいます。

手を合わせるというのは、非常に調和のとれた姿で、
先祖様やみ仏様に礼拝する時に、このしぐさをします。
信仰心(信心)を表すしぐさとも言えます。

一般には右手が仏で、左手が凡夫の私たちです。
手を合わすというのは、仏と私が一つになることです。
そうすることで、そこに仏の心の現れとして、
感謝の思いと慎(つつし)みの思いがでてくるのです。
慎むとは、大いなる存在に、うやうやしくかしこまる意味や、
控えめな思いをいいます。

食事とは、そこに出されたものの命をいただくことですから、
感謝と慎みのしぐさとして手を合わせるのです。

手を合わせない人の心は、お釈迦様が説かれているように、
その人の心に少し泥水が入り込んでいるのかもしれません。
清らかな思いで手を合わせ、食事をいただく。
基本的な人としてのしぐさではないかと思います。

持戒(じかい)を持って食事をいただく

信仰とはただ信じることでなく、
そこには大いなる存在に近づいていきたいという思いがあります。
その思いがしぐさになっていくと、
自らを戒め律していくしぐさを考えるようになります。

特に修行をしているお坊さんは、食事の前にお経をあげ、
さまざまな意味を込めて食事をいただきます。

そのお経の中の一つに「三匙偈」(さんしげ)というお経があります。
匙(し)は「さじ」ですから、おかゆを掬(すく)って
食べるスプーンのようなものです。

偈(げ)は詩の意味があります。
この「三匙偈」は次のようなお経です。
少し難しくなりますが、お付き合いください。

一口為断一切悪(いっく いだん いっさいあく)
二口為修一切善(にく いしゅ いっさいぜん)
三口為度諸衆生(さんく いど しょしゅじょう)
皆共成仏道  (かいぐ じょうぶつどう)

簡単に意味を添えます。

この食事を一口いただく時、
すべての悪を断とうと思いいただきます。

この食事を二口目にいただく時には、
すべての善を修めたいと思いいただきます。

この食事を三口目にいただく時には、
すべての人びとの手助けができるようにと思いいただきます。

そして、みんなが共に、仏の道を歩み、
幸せになれますように願いいただきます。

信仰心のしぐさである手を合わせながら、このお経をお唱えし、
出された食事をいただくのです。

信仰というのは、ただ信じて拝むのみでなく、
持戒、すなわち戒めを持って自らを律して生きる、
そんな「しぐさ」の重みを感じながら、維持していくものなのです。

信仰は、神仏にすがることではない

大谷光真(おおたにこうしん・浄土宗本願寺派二十四世)というお坊さんが
『朝は紅願ありて』(角川書店)という本を出しています。

たまたま手にして読んだのですが、
その中に「信仰とは神仏にすがることではありません」と書いていました。
神仏にすがると何でもしてくれる、そんなしぐさではないというのです。
そして一つのたとえを書いています。まとめてみます。

一人の男が森の中で道に迷い、
一人の力で、その森を抜け出そうとした。
毎日草木を押しのけ前に進んだ。
しかし何日経っても同じ場所に戻って来てしまう。
男はこの森をいつ出られるのか不安でたまらない。

もう一人の男が森の中で道に迷ってしまった。
男は夜、星を見ながら森を出ようとした。
今いるところが分からないので、夜までまって、
北極星を確認しながら森を出ようとした。
男にはまったく不安がなかった。

こんな意味のたとえを書いています。

星が何かをしてくれるというのではないけれど、
星を見るだけで、どうやって、この森から出られるか分かり、不安がない。
仏を信じるというのは、こういうことだと思うと言っています。

この森は迷いの多いこの世を言うのでしょう。
この世の森の中で、仏を信じて生きることが不安を解消し、
幸せに生きていくことができるということです。

となえるしぐさ

鎌倉時代中期に活躍した一遍上人というお坊さんがいます。
踊り念仏で、人びとに念仏の尊さを説き、時宗の開祖となった人です。

『一遍上人語録』の中に、一遍上人が禅を学んだことが書かれています。
神戸にある宝満寺で法燈国師(ほうとうこくし)という偉いお坊さんに参禅して、
国師に、ある問いを投げかけられて、その問いを考えぬいて歌にしました。

となうれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏の声ばかりして

それを見た国師は、まだ徹底した悟りに至っていないと突き返します。

そこで一遍はさらに研鑽を積み、次の歌を作り、
国師のもとに持っていきました。

それを見た国師は印可(いんか)と言って、
悟りを開いたことを認めたというのです。

となうれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

凡人の私には同じように見えてしまうのですが、
前の歌は、仏と一遍がまだ別のものとしてあり、
後の歌は、一遍が仏と一つになっているのが分かります。

仏教における富める心は、仏と一つになるという「しぐさ」が大切で、
そのために、お釈迦様が説かれたように、
心を常に清浄に保っていることが必要になるわけです。

富める心のしぐさ 4 富める心と貧しい心が見る世界

人によって見る世界が違う

次に、富める心を持つ人と、貧しい心でいる人の
見る世界が違うということを考えてみます。

たとえば、お寺に屋根屋さんが来るとします。
当然、屋根屋さんはお寺の屋根を見るでしょう。
本堂に瓦(かわら)がのっていれば、その瓦の状態を見て、
どこかおかしいところがあれば指摘して、
早く修理したほうがよいと助言するかもしれません。

お寺に庭屋さんが来ました。
庭屋さんはどこを見るでしょう。
庭木や石などの配置を見たりします。

いつだったかお寺の松を見て、すぐに
「この松には虫がついているなあ」と言ったことがありました。
私にはまったく気がつかないことでした。やはり見るところが違うと思ったものです。

お寺にお参りに来る人はどうでしょう。
当寺に木造作りで、210センチほどの高さのお地蔵様が祭られています。
霊験があって、遠くからもお参りに来られます。
願いが叶うと七種類のお菓子をお供えし、感謝の思いを手向けます。

先日、願いが叶ったと言って、
七種類のお菓子をお供えしていった人がいました。
その方はお地蔵様にお会いしに、お寺に来るのです。

ですから、何を心の中で思っているのか、何に関心を持っているのかで、
それぞれ見る世界が違ってくるのです。

相手の気持ちに寄り添うと、尊い世界が見える

家族でも、相手のことをちゃんと知って見ていると思っていても、
なかなか相手の真なる姿を見るのは難しいものです。

自分のことばかり考えているような貧しい心では、
夫婦間でも見える世界が違ってくるのです。

ここで一つの投書を載せてみたいと思います。
「妻を亡くして、気が付く」という題で、77才の男性の方の文です。

「妻を亡くして、気が付く」

妻がこの世を旅立ち、一周忌を迎えることになりました。
几帳面な妻は、体が悪いときでも、いつも家のことを支えてくれました。
一昨年の夏に体調を悪くし、病院に行くと即入院。
入退院を繰り返すうちに、家族が呼ばれ、「余命何カ月」と言われました。
一瞬頭が真っ白になりました。それから昨年6月に亡くなりました。

妻を亡くして、よりどころを失い、どうしてよいやら途方にくれる毎日。
できるだけ多くの人に会うようにし、同じ境遇の人がいかに多いか知らされました。
2、3年は心の整理がつかないと知り、前向きに生きようと考えました。

妻を亡くして、初めてわかったのは、2階の物干し台が高いということです。
何も不満を言わず、毎日洗濯物を背伸びして干していたことを考え、涙しました。

最近、近所の人たちの温かい心遣いに感謝しています。
人との触れ合い、言葉を交わし、心を通わせることがいかに大切か、
つくづくわかってきました。

近所の人の話を聞きながら、
だんだん心の整理もついてきたように思います。

尊い命を精いっぱい生きることが、妻への何よりの供養と思っています。

(朝日新聞 平成25年6月12日付)

妻と共に暮らしていた時と、妻亡き後の見方が違っています。
特に初めて気づいたこと、それは物干し台が高いことでした。
そのことを何の不満も言わずに毎日洗濯物を干していた妻。
それを思うと涙がこぼれたと書いています。
人の気持ちを思う、富める心から出てくるしぐさです。

どん欲の心が見える世界は、どんな世界でしょう。
怒りや不満の思いで見る世界は、どんな世界でしょう。
よく餓鬼地獄に堕ちると、目の前の水が火に変わってしまうといいます。
どん欲であると水が火に見えてしまうのです。

不満の思いで暮らしていれば、相手の悪い所ばかりが目に写り、
出る言葉は小言ばかりになります。

堺雅人主演の「鎌倉ものがたり」という映画がありました。
黄泉の国に魔物によって連れ去られた奥さんを
堺雅人が扮する一色正和が、あの世に助けにいきます。
その時、先に逝った父が、正和に
「ここは自分の思っている世界が見える」
と言っていました。

肉体を離れて魂になれば、自分の思う世界があの世で展開するのです。
餓鬼の心を持つものは、あの世が火の海に見え、
菩薩の心を持つものは、あの世が光り輝く世界に見えるわけです。

であるならば、今生きている時に、富める心を育て、
その心に従って人としての大切な「しぐさ」に心がけ、
今生きている内に、たくさんの美しい世界を見ることがとても重要になります。

少しでも多く、美しい世界を見て、幸せ満ちた日々を送る。
富める心のなす「しぐさ」です。